起死回生の戦いに挑む・神道と天皇(92)

人が生き延びるための正義・正論よりも、生き延びることなく勘定に入れずひたすら「今ここ」の世界に他愛なくピュアに反応してゆく「清純な魂」のほうがずっと美しく崇高である。その「清純な魂」に対する「遠い憧れ」ともに日本人は、ここまで憲法第九条を残してきた。民衆にとって憲法なんかただのお飾りであり、国家や社会を運営するための「規範」だとは思っていない。現実の生き延びるための「規範」よりも、ただの「お飾り」のほうがもっと大切で尊いのだ。
西洋流の論理で憲法とは何かということのうんちくをあれこれ並べ立てようと、日本人にとっての憲法は、日本人としての「魂のよりどころ」になっているだけだし、政治家だって本心のところではたぶん「憲法違反」なんか知ったことではない。
憲法には、国家や社会の運営よりももっと大事なことが書かれてあるのだ。気取っていえば、日本人の純潔の証しとして憲法がある。
それでは近代国家のかたちになっていないといっても、日本人はそういう思考で歴史を歩んできたのであり、西洋の憲法定義が絶対というわけでもないだろう。
国家などどうでもいいというのではないが、国家よりも大事なものを持ったらいけないだろうか。

センチであることを承知であえていってしまえば、この世のもっとも美しく崇高なものとは清純なもののことで、たとえば処女のはにかんだ微笑みとか野に咲く小さな花のようなものだ。日本人にはそういう小さくてはかないもの、すなわち消えてゆきそうなものを祀り上げてゆく美意識がある。まあそうやって「細部」にこだわることによって、さまざまな技術を洗練させてきたわけだが、「かわいい」とはひとつの消失感覚であり、消えてゆくことのカタルシスを「みそぎ」という。
命のはたらきは、一本の線として持続し続けているというようなものではなく、絶えざる「出現」と「消失」の反復として起きているのであり、日本列島の「消失感覚=清純な魂」を止揚する文化はそういう命のはたらきの自然に耳を澄ませながら洗練されてきた。
消失感覚を止揚するることはすなわち死に対する親密な感慨であり、そうやって太平洋戦争のときの日本人は死ぬまで(=国が滅びるまで)戦おうとした。「消失感覚=清純な魂」は、「けっしてあきらめない」心でもある。そうやって日本列島の職人は、どんなささいな部分もゆるがせにしない仕事をする。彼らは「清純な魂」の持ち主であるがゆえに、けっしてあきらめない。たとえばネジとかベアリングの玉とか、現在の世界のハイテク製品は日本人の職人の仕事なしには成り立たない、などともいわれている。
「清純な魂」を問うことは、人間性の自然・根源を問うことであると同時に、究極のかたちを問うことでもある。つまりそれは、もっとも高度な思想の問題でもあるのだ。
「清純な魂」に対する「遠い憧れ」を失って政治オタクの権力亡者に成り下がった今どきの右翼政治家など、僕はぜんぜん信用しない。もちろん正義・正論を振り回していい気になっているインテリやネトウヨたちだって同じ人種に違いないのだろうし、そういう連中ばかりがのさばる世の中になってゆくのだろうか。
まあそれでも、日本列島の歴史の風土性としての「清純な魂」に対する「遠い憧れ」を基礎にした文化は生成し続けてゆくに違いないわけで、世の中には魅力的な人とブサイクな人の二種類がいる。ブサイクな人ばかりがのさばる世の中になっても、魅力的な人はきっとどこかにいる。
天皇は、根源的には「日本国の象徴」ではなく「清純な魂の象徴」なのだ。こんなことは世の右翼だって知っているはずなのに、どうして彼らは政治オタクになり、権力の亡者になってしまうのか。

誰も「清純な魂」の持ち主にはなれない。「清純な魂」に対する「遠い憧れ」を持つことができるだけだ。
しかし今どきの右翼には、その「遠い憧れ」がない。なぜなら彼らは、自分が「清純な魂」の持ち主のつもりでいるからだ。少なくとも、持ち主であるかのように振る舞うことになんの後ろめたさもない。鈍感なのだ。鈍感だから、そんなふうに思い込むことができる。
「清純な魂」とは何かと切実に問う心があれば、誰もそれが自分の中にあるとは思えない。
清純なものに対する感動が希薄だから、正義・正論に執着するようになる。そうして宗教に転んだり、政治オタクになってその党派的排他的思想を主張したりするようになってゆく。
欧米のインテリや芸能人のほとんどが政治的であるのは、宗教が機能している社会だからであり、正義・正論が最上位の社会だからだろう。
政治も宗教も、、正義・正論を最上位に置いている。
しかしこの国の歴史的な精神風土においては、正義・正論よりも「清純な魂」のほうが上位に置かれてきた。権力社会が政治や宗教の正義・正論で動いているのはとうぜんとしても、民衆の社会においては、政治や宗教に覆い被さられながらも、その下でつねに「清純な魂」を祀り上げる習俗が維持されてきた。この国の歴史においてそういう下支えがあったから天皇制が維持されてきたのであり、宗教は戒律がどんどん削られ変質してきた。まあそうやって浄土真宗が生まれてきたわけで、それは最澄から親鸞にいたる高僧の系譜によってつくられてきたというよりも、日本列島の精神風土が生み出したのであり、民衆の「清純な魂」を祀り上げる習俗から生まれてきたともいえる。けっきょくのところ民衆に対して説得力を持つかたちで浄土真宗になっていっただけのことで、親鸞だって日本列島の精神風土に沿って思考していただけなのだ。
正義・正論よりも大切なものがあるという思想というか思いが、浄土真宗を生み出したのだし、天皇制が守られてきた。

いずれメッキははがれる……のかどうかはわからないが、小池百合子安倍晋三は、清純さすなわち人間的魅力がなさすぎる。そりゃあ権力社会の遊泳術においては並々ならぬ能力があるのだろうが、それだけで押し切れるわけでもなかろう。今のところ民衆の不満や欲望を吸い上げることに成功しているのかもしれないが、最終的にはどんなキャラクターにせよ人間的な魅力が問われてくる。
金で囲われている女だって、相手の男としての魅力を見ていないわけではない。
誰だって他者の人間的魅力に気づく感性を持っているし、誰だってそこのところを試されて生きている。
嫌われ者がどんなに正義・正論を振り回しても、それだけで愛されたり尊敬されたりできるわけではない。嫌われ者ばかりの集団ならそれが通じても、広い世間に出ればそうはいかない。言い換えれば、嫌われ者ばかりの集団なら、嫌われ者のほうがまわりと仲良くすることができる。さらに言い換えれば、どんなにいい顔しても、いずれはメッキがはがれる、ということだ。
好かれるように自分を主体的に演出すれば、あるていどはもくろみ通りになる。しかし人間なら誰だって心の底に「清純な魂に対する遠い憧れ」を持っているのであり、けっきょくはその憧れによってときめいたり幻滅したりという「反応」をしている。
現在の文明社会は見せびらかし合うことが主流の構造になっているとしても、人間性の自然においては人と人は「反応」し合っているのであり、「反応」できる人こそ魅力的なのだし、その「反応」仕方にときめいたり、「反応」のなさに幻滅したりしている。
つまり人間社会の普遍性においては、自分を忘れて「反応」しときめいたりかなしんだりできる人こそ魅力的な存在であり、最終的には、「反応」を失って自分を魅力的に見せようとばかりしている、その主体性が幻滅の対象になる。
人は魅力的な存在になることができると同時に、けっして魅力的な存在にはなれない。魅力的な存在に「反応」することができるだけであり、「反応」することができる人こそ魅力的なのだ。
したがって、「反応」を失って魅力的な存在であろうとすればするほどブサイクになってゆく。

われわれは、無防備に他愛なく「反応」してゆくことができるかと試されている。人々がときめき合う社会はそこでしか成り立たない。そういう存在の象徴として人類は「処女」を祀り上げてゆくのだし、日本列島では「天皇」を祀り上げている。
人類の心の奥には「清純な魂」に対する「遠い憧れ」が息づいている。それはもう、中国人にも朝鮮人にも、アラブ人にもアフリカ人にもブラジル人にも、フランス人にもドイツ人にもアメリカ人にも息づいている。政治と宗教の観念さえ取り払えば、誰もが処女のように他愛なくピュアにときめき合うことができる。
政治や宗教の観念から解き放たれて他愛なくときめき合うという体験は誰もが人生の何かの場面で体験したことがあるのだ。たとえば、街の雑踏ですれ違う見知らぬ人に思わずときめくという体験だってある。言い換えれば人と人が他愛なくピュアにときめき合う体験は、政治や宗教の観念から解き放たれた心の上で起きている。
中国人や朝鮮人を憎悪する右翼たちがその根拠を誰も反論できない「正義・正論」として語ろうとも、たとえば中国・朝鮮からの留学生を受け入れた日本列島の高校の教室では、そんな政治的宗教的な観念から解き放たれたところでたがいに他愛なくピュアにときめき合っていたりする。そういうことを、ここでは「処女性」といっている。
国と国が和解し合う日が永久に来ないとしても、それぞれの国の若者どうしが他愛なくピュアにときめき合っている教室は、すでに存在しているのだ。まあこの国の民衆はもともと政治や宗教の観念が希薄だから、向こうからやってくる相手にも政治や宗教の観念から解放してやれるもてなしをすることが可能だが、逆の場合も必ず同じにいくとはかぎらないかもしれない。とはいえ、世界中の誰の中にも、党派的排他的な政治や宗教の観念から解き放たれて他愛なくピュアにときめいてゆく心の動きは息づいている。
おそらく、薄汚れた党派的排他的な憎悪の観念に凝り固まったネトウヨだって、心の奥のどこかしらに他愛なくピュアなときめきが息づいているに違いない。今さらそれを汲み上げるのが無理だとしても、そこにこそ人間性の自然がある。

小池百合子による党派的排他的な観念を組織して盛り上げようとする戦略は、はたして今回も功を奏するだろうか。彼女はリベラルを排除することが時代の風だと読んでいるのだとすれば、リベラルに風が吹かないとその勢いは止められない。
民衆の関心は、その政治的な動きが娯楽=エンターテイメントになっているところに集まってゆく。その政策プランが正しいかどうかということなどたいした問題ではない。政策のことは任せるために選挙をするのであって、こちらの思い描いた政策をやらせるための政治家を指名しようとしているのではない。政策プランなど持っていないのが民衆であり、なぜなら政策プランよりももっと美しく崇高なものに対する遠い憧れを抱いて生きているからだ。
マスコミのインテリは、政策プランの優劣で候補者の評価を訳知り顔で語っていたりするが、民衆にとってはそんなことはたいした問題ではない。その候補者の姿や行動が「ドラマ=エンターテインメント」になっているかどうかこそ問題なのだ。そこのところを小池百合子はよく心得ているし、枝野幸男はどこまでわかっているのだろう。政策プランのことなんか大した問題ではない。風が吹くかどうかは、かつて小池百合子がそうしたように、火中に栗を拾う人生最後の決戦に挑むのだという姿をどこまで民衆に示すことができるかなのだ。
民衆は、正しいものよりも、美しく面白いものに一票を入れる。
実際の議席獲得数のことはともかく、「希望の党」よりも「立憲民主党」のほうが注目されるようになるかどうか。それにはきっと、ネットの情報機能をうまく使いながらどれだけ一般市民の手弁当の参加を集められるか、ということなのだろうが、右翼のインテリたちは「たいした盛り上がりにはならない」といっている。
ともあれ安倍晋三の最初の目論見とは逆に「反安倍」の風が吹きはじめているらしい。自分が勝手に動いてしまった結果なのだから、自業自得だともいえる。そしてその風がそのまま希望の党に向かって吹いているとも思えない。
小池百合子の見え透いた野望はもう、ドラマ性を欠いて退屈になってきている。
現在のこの国の空気は、右翼が思うほどには右翼一辺倒にはなっていない。右翼が大きな顔をしてのさばっている、というだけのこと。なんといっても、その自意識過剰で党派的排他的な態度は、うんざりするほど美しくない。
かといってリベラルに向かって風が吹いているかどうかもわからないのだが、とにかく日本列島の伝統においては、政治や宗教の正義・正論をあまり信じていない。そんなことよりもっと大切で美しいものとして「清純な魂」に対する「遠い憧れ」があるだけなのだ。
そりゃあ起死回生の戦いに挑むことはドラマチックで美しいし、誰だって一生に一度はやってみたいに違いない。