政治の世界は複雑で気味が悪い・神道と天皇(93)

立憲民主党」のツイッターのページのフォロワーの数がものすごい勢いで増え続けて政党ナンバーワンに躍り出て、今や自民党よりも多いのだとか。はたしてこの勢いを投票日まで維持できるかというところが試金石なのだろうが、それだけの刺激的な話題を提供し続けることができるだろうか。
その点「希望の党」は、感心するくらいつねにマスコミの話題を提供し続けている。しかしじっさいのフォロワーは立憲民主党の十分の一にも満たなくて、おもな政党間では最下位らしい。こんな状態で、風が吹いているといえるだろうか。急ごしらえの政党だからツイッターで盛り上げる組織の態勢が整っていないということもあろうが、風が吹いていれば勝手に盛り上がってゆくわけだし、テレビがやいのやいのと騒いでいるだけで、もしかしたらブームはもうとっくに終わっているのかもしれない。知らないのはマスコミばかりで、民衆はとっくに冷めてしまっている。
プロレス用語でいえば、小池百合子が「ヒール(悪玉)」で、枝野幸男が「ベビーフェイス(善玉)」という対比ができつつある。まあ民衆はそんな図式で眺めているだけで、希望の党に投票するつもりなんかさらさらない。最後に投票箱のふたを開けたら、希望の党議席獲得数は立憲民主党の半分だった、ということにもなりかねない。最初の勢いはどこへやら、雪崩を打って人気が下降していっている。
「ベビーフェイス」という言葉には、「処女」というニュアンスもある。「純潔な魂」すなわち「処女性」、けっきょくそういうものが人の心を揺さぶる。
民衆にとっては、政策のことなど、極端ではないかぎり、たいした問題ではない。それが、日本列島の精神風土であり、自分が思い描いた政策プランを候補者に託すのではなく、魅力的な候補者を選んでいるだけなのだ。政策のことなんかよくわからない。人としての魅力のほうが気になる。政策で選ぶことができるほど政治に対する親近感はない。
インテリの中にも「政治なんか複雑で気味が悪い」と思っている人がたくさんいるのが、この国の歴史的な精神風土なのだ。そういう意味で小池百合子希望の党が登場してきた今回の選挙は、無知な民衆にも「政治なんか複雑で気味が悪い」ということをよくわからせてくれたということにおいて、それなりに意義があるのかもしれない。
その「複雑で気味が悪い」ということもひとつのホラーとしておもしろく興味深いと感じる人も多いのかもしれないが、おもしろいからといって希望の党に投票するというはずもなく、最後の最後はうんざりして見捨てるのだろう。

右翼であれ左翼であれ、政治オタクの世界は、小池百合子のような人間が生まれ育ってくる土壌を持っている。
ようするに自意識過剰のために、ときめき感動するという体験ができなくなっているのだ。そこから、あのような権謀術数に長けた人間が育ってくる。権謀術数の世界では、ときめき感動してしまったら負けなのだ。つねにポーカーフェイスでいなければならないし、それがより高度になるためには、ただ無表情でいるのではなく、つねに作為的に表情をつくり続ける技が必要になってくる。女のくせに女を武器にできなければ、一流の権謀術数家とはいえない。小池百合子にそういう才能があるということは、ときめき感動する心を持っていないということを意味するわけで、それはつまりこの国の伝統である「清純な魂」に対する「遠い憧れ」を持っていないということだ。誰よりも右翼であるのに、誰よりもこの国の伝統を身体化することに失敗している。まるで冷徹なアラブやユダヤの商人みたいなところがある。
べつに小池百合子だけではないが、政治オタクというのは、どうしても自意識過剰で党派的排他的なところがある。
今回は小池百合子がいかに腹黒い人種かということが浮き彫りになった、と多くの右翼が自分だけは清廉潔白のような顔をして彼女を批判しまくっているが、彼らだって同類だろう。われわれ第三者からすると、小池百合子のおかげで、今どきの右翼がどのような人種かということの一端が少しわかったような気がしている。彼らは、今どきの自意識過剰で党派的排他的な人種の先頭ランナーだ。人間に対しておそろしく鈍感で、みずからの「けがれ」の自覚を基礎にした「清純な魂」に対する「遠い憧れ」というものがまるでない。
「保守」というのなら、今どきのあまたの右翼よりも立憲民主党枝野幸男のほうがずっと日本列島の伝統を身体化している。今回彼に新党立ち上げを決意させたものが、「清純な魂」に対する「遠い憧れ」でなかったと、いったい誰がいえるのか。
僕は、立憲民主党の政策や理念というようなものの是非のことなんかよくわからない。だが、この俗悪な政治イベントの最中に突然「清純な心意気」のようなものがあらわれたということはひとつの事件であり、それだけで十分だ。それを彼がどこまで表現し、民衆がどこまで感じることができるかということは、政治嫌いの僕でさえひとまず見届けてみたいと思わせられる。
枝野幸男という人が清純だというのではない。彼の性格など知らない。ただ、この現象には人の世界における「清純な魂に対する遠い憧れ」があらわれている、といいたいのだ。そこに、この現象の普遍性があるわけで、さしあたって彼の人格とか政策・理念は問う必要がない。彼だけでなく、ともあれ「清純な魂に対する遠い憧れ」を共有しながら立憲民主党という新しい集団が形成されていったのだし、これこそ日本的な集団を成り立たせている根本的なメンタリティなのだ。
ネトウヨたちは、立憲民主党に風が吹くことを警戒し打ち消そうとして、さっそくあれこれけなしまくっているが、それが正しいとか間違っているとかということはどうでもいいのだ。悔しかったら、そして自分たちこそ本物の日本人だといいたいのなら、自分たちもそのような「清純な魂に対する遠い憧れ」を共有してゆくという体験をしてみろという話で、日本列島にはそういう体験ができる文化的な風土があるのだ。

政治オタクというのはけっきょく、ひとつの現象に対して「どうなるのだろう?」というニュートラルなスタンスで見守るということができない。彼らは、盲目的に執着してゆくか、逆に意地悪く裁いて排除してしまおうとするかの、どちらかの態度しか取れない。それは、他者との関係性に失敗している、ということだ。
今どきの右翼というのは、まあ大人のインテリだって同じだ。彼らは、暑苦しい執着心と恨みがましい警戒心に凝り固まって、水のような関係を生きることができない。つまり、日本列島の伝統の思考作法としての、あいまいさの混沌に身をまかすということができない。
日本列島では、小池百合子のように、相手の「あいまいさの混沌に身をまかしてしまう思考作法」すなわちそういう「清純さ」に付け込んで相手を罠にはめてゆくという権謀術数に長けた詐欺師がどうしても生まれてきてしまう。外国人ならこんな見え透いた罠なんかにはけっして騙されないが、日本人はあきれるくらい他愛なくはめられ転がされてしまう。
契約社会が伝統である外国人なら、最初から「はっきりしてくれ」と確認を取ろうとする。しかし日本人は、良くも悪くも、なんとなくの話のなりゆきであいまいなまま受け入れてしまうところがある。それが日本的な「阿吽の呼吸」などという習俗になっているわけだが、民進党代表の前川誠司は、小池百合子のこの習俗を逆手に取った手法によってみごとに転がされてしまった。
「それくらいのことはいわなくてもわかるだろう」ということ、前川誠司は、そういう阿吽の呼吸の人間関係の文化が高度に発達した京都育ちで、頭がいいからこそ小池百合子のような人間にかんたんに転がされてしまう部分を持ってしまっていた。
そして人に対して心を動かされるということのない小池百合子は、子供のころからそういう権謀術数を学ぶことができる右翼的政治オタクの世界で育ち、もともとそういう才能がひといちばい発達している。権謀術数の英才教育を受けて育った、ともいえる。
まあここまでの人情のかけらもないような小池百合子のふるまいはほんとに「複雑で気味悪い」ものだが、「サイコパス」だというほどでもなく、きっとよくある「人格障害」の一種なのだろう。そこがやっかいなところで、彼らはみごとにこの社会にはまり込んで生きているし、まわりも「違う人種だ」と突き放してしまうことができない。

ともあれ右翼的政治オタクの世界ほど、日本列島の伝統から外れた気味わるい人間を生み出しやすい。今どきの右翼的政治オタクたちは、自分は小池百合子とは違う、と思わないほうがいい。彼らは、多かれ少なかれ小池百合子のような人間に対する鈍感さを共有している。彼らは、自分たちは「清純な魂」を所有していると思い込んでいるわけで、だからこそそれに対する「遠い憧れ」がない。そして、そう思い込んでいるから、他者の「遠い憧れ」に付け込んで他者を説得したり裁いたりする思考や行動を本能的にそなえている。自分には他者の「遠い憧れ」の対象がすでにそなわっている、という自覚=うぬぼれがあるから、他者を転がすことにも非難することにもなんの後ろめたさもない。
自分は人格障害の薄汚れた人間だという思いがあるからこそ、人は「清純な魂」に対する「遠い憧れ」を抱く。右翼の政治オタクたちにはそういう自覚がないから、やっかいなのだ。彼らは、人を裁いたり罵ったり憎んだりすることを、けっしてやめようとしない。その免罪符として彼らは、自分のお気に入りの相手に対する暑苦しいほどの執着を持っていて、それを「清純な魂」だと思っている。それだってとても不自然で病的な心の動きなのだが。
この前、都議会での小池百合子の表情がずっと映し続けられているYOUTUBEの画面を見たのだが、一瞬たりとも隙を見せることなくみずからの表情をつくり続けているようすがみごとにあらわれていた。他者に対する警戒心がものすごく強く、つねに他者を転がしてやろうと狙い続けている人間だということが、よくわかった。
現代社会は避けがたくそういう人間を生み出してしまう構造を持っているわけだが、しかしそれは、日本列島のの伝統を体現している姿ではけっしてない。
まったく、右翼ほど日本列島の伝統から遠いものたちもいない。もしも彼らが伝統の体現者だというのなら、それは権力者の伝統であって、民衆の伝統ではない。彼らの精神は、権力者の政治的宗教的な傾向にすっかり冒されてしまっている。
まあ、世界中の現代人がそうした病的でややこしい自意識過剰の傾向になってきているのかもしれないが、それでも人が人であるかぎり、他愛ない「清純な魂に対する遠い憧れ」は世界中の誰の中にも息づいている。そして今回の選挙で立憲民主党に向かって風が吹くとすれば、それはきっとそういう問題なのだ。
日本列島の民衆は、けっして政党や候補者の政策・理念を第一に投票するのではない。なんのかのといっても、「清純な魂に対する遠い憧れ」すなわちそういう「心意気」を見せてほしいのだし、自分の中の「清純な魂に対する遠い憧れ」に響いてくる演説が聞きたいのだ。
だからときには、候補者と女房が聴衆に向かって土下座をするとか、そういうお涙頂戴の見え透いた芝居をしたりすることもあるのだが、それが日本的な文化の基底のかたちなのだからしょうがない。
日本人は、正義・正論を欲しがっているのではない。そしてそれは、政治や宗教に従順でありつつ拒否反応も同時にある、ということだ。
それは、なんだか複雑で気味が悪い。だからこそ、お涙頂戴の猿芝居でも、その気味悪さに対するひとつの「みそぎ」として許してしまう。
人が生きることはある種の贖罪みたいなものかもしれないわけで。