たましい・神道と天皇(94)

小池百合子劇場の幕はとっくに下りてしまっていると思えるのだが、テレビのワイドショーはまだまだ引っ張るつもりらしい。
巷の関心はもう、そこから離れてきている。
風は、煽るものと煽られるものがいて吹いてくる。選挙期間の小池百合子は、都政そっちのけで日本中を演説行脚するのだろうか。
安倍首相は、地方の候補者から「イメージダウンになるから来ないでくれ」などといわれたりしているし、街頭演説の場ではいろんなヤジが飛んだり反対のプラカードが躍ったりしているらしい。
テレビは「すっきりと三極に分かれた」といっているが、自民・公明と希望の党との違いはよくわからない。二極ではないのか。
昨日の党首討論でも、「安倍・小池・山口対枝野」という構図が際立っていた。そして三人は感情的で凡庸な物言いが目立ったのに対して、枝野幸男の発言には、あくまで論理的でしかも清潔な人情味があった。
こんな場面があった。安倍晋三小池百合子山口那津男、維新の会松井一郎日本のこころ中野正志の右翼五人組が共産党志位和夫の発言に対して寄ってたかって集中砲火を浴びせていた。右翼というのはこういうことをするのかと、あぜんとした。ネトウヨの視聴者たちは大いに喜んだのだろうが、これではただのいじめではないか。正義・正論の旗を立てれば何をやってもいいという、まあ、そうやって思わず本性があらわれる、ということだ。
まったく、この連中は人間の品性というものをなんと考えているのだろう。日本人としてのたしなみ、といいかえてもよい。こんなブサイクな本性をさらして、よく右翼とか保守を名乗っていられるものだ。
枝野幸男だけが、見かねて助け舟を出していた。
たぶん、枝野幸男の株が上がった討論会だった。世の右翼たちはそうは思いたくないだろうが。
まあ、右翼というのは自分を正当化するために何がなんでも人に因縁をつけたい人種なんだな、ということがよくわかった。
小池百合子安倍晋三も同じ穴のムジナにちがいない。右翼なんてけっきょくそんな人種なのか、とあらためて思わせられた。彼らはなぜあんなにもいいカッコしいで党派的排他的なのか。彼らの雛型であるネトウヨがそろいもそろって人に対して執拗・病的に因縁やいちゃもんをつけることばかりしているのも、なにがなんでも自分の正当性を守ろうとする強迫観念でもあり、そうした自分に対する執着から離れたニュートラルな思考も豊かなときめきもないのだ。

選挙においては、「政策」よりも「人情味」のほうがもっと大切なのだ。
右翼という政治オタク、政治オタクがそんなに偉いのか。右翼は本質的に権威主義的差別主義的な傾向を持っている。また彼らはつねに意図的作為的で、人間性の自然である、「清純な魂に対する遠い憧れ」を見失っている。
「他愛ないときめき」こそ人間的な知性や感性の基礎であり、またそれを失ったら人間的な魅力もない。
人間なんか愚かでもかまわないのだ。正義・正論に執着するお利口な政治オタクが偉いというわけでも幸せだというのでもない。
いわゆる「浮動票=無党派層」の「愚かな」といわれる民衆は、候補者の政策の細かい違いなど問わない。人としての「姿=たたずまい」の違いを問う。選挙が人気投票だということは、候補者だって自覚している。どんなにもったいをつけても、けっきょくのところAKBの選挙以上でも以下でもない。
正義・正論だけで当選できるほど甘くはない。最後の最後は、人の情に訴えるものが必要になってくる。選挙の終盤になってくれば、候補者の声はみな、そういうせっぱつまった調子になってゆく。正義は勝つ、なんて、甘い甘い。
そりゃあ当選した当人は「正義が認められた」と自画自賛するが、投票した民衆は正義を認めたのではない。情にほだされたというか、無意識のうちにその候補者の姿がまとっている「清純な魂」の気配を見ようとしている。たとえ見誤って騙されてしまうことがあったとしても。

原発反対のことで一時話題になった山本太郎というタレント上がりの政治家に興味はなかった。ただの素人のおっちょこちょいなのだろうと思っていた。
ところが、今回の選挙つながりでたまたま引っかかったYOUTUBEの画像を見て、それまでの先入観を改めさせられてしまった。
タレントの立場からいきなり転身して無所属のまま一人区に立候補し、あれよあれよというまに風を起こし、ただの泡沫候補だという下馬評をひっくり返して当選してしまった。
そのときネットの機能をうまく使ったからだ、などといわれていたが、じつはそれだけではなかったということが、今回よくわかった。
街頭演説が、圧倒的にうまいのだ。滑舌はもちろんだが、それ以上に人の心を揺さぶるような表情としゃべり方をする。
話のテーマは、リベラルの立場から現在のこの国の政治の世界はこのようになっているということを聴衆に報告する、というようなことだろうか。無作為に聴衆に質問させてひとつひとつそれに答えてゆくというかたちをとっているのだだが、ひとつの質問にたいてい勢いのままに10分くらいしゃべってしまう。答え方が誠実で、よく勉強していることがわかる。とにかく説得力がある。それは、話術が巧みというより、ピュアで熱っぽい雰囲気がその表情にもしゃべり方にも自然ににじみ出ている。大人の邪念がないというのか、一途でひたむきというか、つまり「清純な魂」の気配がある。ああ、この気配が「風」を起こしたのだな、と僕は思った。

政治家の資質とは、どのようなものだろうか。
権力闘争に有能であることはたしかにひとつの資質であるのだろうし、それによって権力の頂点に登りつめてゆく。しかし、それだけで政治の世界が成り立つわけでもないだろう。枝野幸男山本太郎のような政治家もいないと、政治の世界がうまく機能しないという部分もあるに違いない。
また、右翼であることがもっともこの国の伝統を体現しているともいえない。京都がもっとも革新的な土地柄であるように、革新的であるのがこの国の伝統なのだ。この国には、そういう「進取の気性」の伝統がある。
「進取の気性」とは他愛なくときめいてゆくことであって、党派的排他的になることではない。したがって政治オタクの右翼になることは、きわめて非日本的なのだ。日本人の進取の気性は、日本人であることに誇りを持たない。日本人であることを忘れて、世界の輝きに他愛なくときめいてゆく。
右翼は、日本人であることを誇りに思っているその観念性のぶんだけ、日本的無意識的な、世界の輝きに他愛なくときめいてゆく「清純な魂」を失っている。そして「清純な魂」とは、他愛なくときめいてゆく「進取の気性」のことだ。
断わっておくが、ここでいう「魂」とは「無意識」というようなニュアンスであって、宗教的な「霊魂」という概念を指しているのではない。まあ、「たましい」と平仮名で表記した方がいいのかもしれない。
枝野幸男山本太郎も「たましい」を持っている気配を漂わせている。その気配が薄くなってくることもあるが、少なくとも今のところはそういう気配が漂っているように見えるし、右翼たちはその気配におびえてそれを打ち消そうと「左翼」だの「反日」だのというレッテルを貼って必死に因縁をつけてゆく。打ち消さないと自分たちの正当性が揺らぐし、彼らは必死に自己の正当性にしがみついて生きている。
今をときめく安倍晋三小池百合子小泉進次郎……この三人の演説する姿に共通しているのは、つねに自分の表情をつくっている、ということだ。彼らはもう、一瞬たりともそれを忘れない。その、カッコつけてばかりいる自意識過剰の気配に「清純な魂」は感じられない。
いっぽう枝野幸男山本太郎が演説しているときの表情には、ふと自分を忘れて意識が世界に憑依してしまっている、という瞬間があらわれる。彼らの「たましい」には、無防備で他愛ないときめきがある。そしてじつは、それこそが日本列島の伝統なのだ。
それに比べたら上記の三人の姿なんか、近代合理主義が生み出す戦後的自意識過剰の病理的観念にすっかり冒されてしまっているようにしか見えない。
日本列島の民衆の伝統においては、正義・正論を振り回してうぬぼれることも他人を裁くこともしない。