魂の純潔・神道と天皇(97)

選挙序盤における各党の議席獲得数の予想が出た。それによると、希望の党が新しく奪うであろうと予測された議席数がけっきょくもとの自民党のところに戻った、というだけの結果になっている。
ただこれは、投票率によって変動があるからその通りに行くかどうかはまだわからない。
投票率が低ければ野党は苦しく、既得権益を守ろうとするものたちに押し切られてしまうのだろう。
なんといってもこの国のマジョリティは、選挙に行かない無党派層なのだ。
世の中が右翼だらけだというわけではない。
しかしまあ、大騒ぎしたわりには結果は平凡なところに落ち着きそうだ、ということだろうか。
この選挙は、そういうあまり意味のないものなのだろうか。
このブログでは、立憲民主党に風が吹けばそれなりに意味のあることだと書いた。それは、たんなる判官びいきとか、そういうこと以前に、この国の伝統であると同時に人類普遍の伝統でもある「魂の純潔に対する遠い憧れ」の問題である、といいたいのだ。
性善説でそういうのではない。
生きものはほんらい、「もう死んでもいい」という勢いを持たないと生きられないのであり、そこから生きはじめる存在なのだ。原初の人類はそういう勢いで二本の足で立ち上がって歩きはじめたのであり、命のはたらきとは「もう死んでもいい」という勢いのことだ、と言い換えてもよい。それを、ここでは「魂の純潔」と呼んでいる。
人は、「もう死んでもいい」という勢いで戦争をし、「もう死んでもいい」という勢いでおたがいに献身し合う集団をいとなんでもいる。
人の心の奥底には、「魂の純潔」に対する遠い憧れが息づいている。人類はそうやって「ゼロ」という概念を発見し、「神」という文明社会の諸悪の根源になっている概念を発見したりもした。
生きるなんて無駄なことなのに、どうしてわれわれ生きものは生きることをするのか。「魂の純潔」に対する遠い憧れ、すなわち「もう死んでもいい」という覚悟こそが生きてしまう勢いをもたらしている。生きることは死に向かうことなのだから、生きようとして生きることはできない。「もう死んでもいい」と覚悟することで、はじめて生きはじめることができる。これはもう、心のはたらきにおいても、身体的な命のはたらきにおいてもそうなのだ。そこからしか生きてしまう勢いは生まれてこない。言い換えれば、生き延びようとすればするほど、命のはたらきも心のはたらきも停滞し澱んでゆくのだ。
生きることはこの世のもっとも無駄なことであり、その「無駄なこと」に対する遠い憧れこそが人を生かしている。「魂の純潔」とは、「この世のもっとも無駄なこと」の別名なのだ。

ここでいう「魂の純潔」は、性善説とか性悪説とか、そういう次元の概念ではない。「魂の純潔」は、「生きる=善」という立場を持っていない。しかしだからこそ、「魂の純潔」に対する遠い憧れは、極悪人の中にもイスラム教徒の中にも中国人にも朝鮮人の中にも宿っている。
いやそれは、人類のみならず、生きものに普遍的な原理なのだ。
現在の世界は、先進国においても「民主主義の危機」が叫ばれている。世界中で、国家とか民衆社会というものをどのように運営してゆけばいいのかということが、わからなくなってしまっている。
世界のグローバル化が進めば、どこの地域においても、もはや同じ価値観やスローガンでまとまってゆくことはできない。
どうすればいいのか……?もっとも先に進んでいる国が、もっとも切実に問うている。これは、「哲学」の問題であるのかもしれない。
アメリカやイギリスは「トランプ大統領」や「EU離脱」というかたちのひとつのスローガンを選択したとすれば、ひとまず中道的な体制を選択しているマクロンのフランスやメルケルのドイツはもう、スローガンを持つことができなくて、スローガンを「問う」ということそれ自体が人々の選択し共有するスローガンになっている。
リベラルとは「問う」ことであって、すでに決定されたスローガンを振りかざすことではない、ともいえる。
もともとスローガンなど持たないのが人類の集団性の歴史だったわけだが、文明国家の発生とともにたとえば「異民族の脅威を克服する」等のスローガンに目覚めてゆき、現代のグローバル社会においてはもう、どんなスローガンも成り立たなくなってきた。
イギリスでEU離脱が決定され、アメリカではトランプが大統領になり、右翼やファシズムが席巻しはじめている、といわれたりしたが、フランスもドイツもけっきょく中道リベラルの路線を模索している。
欧米社会で移民排斥を叫んでも、すでに多くの移民が国民になっている現在の状況では、かえって内部の混乱や対立を起こしてしまう。フランスやドイツはもう、右翼思想だけではどうにもならないのであり、それがマクロンを大統領にした選挙現象だったのではないだろうか。いやアメリカだってトランプが大統領になって内部の混乱や対立が解消したわけではなく、かえって際立たせてしまった。トランプが大統領でいるかぎり、それはもうずっと続いてゆくのだろう。
EU離脱」も「トランプ選出」も、数字的には紙一重の差だった。近代国家はもう、内部で混乱や対立が起きる構造になってしまっている。
いまや世界中で、現在の民主主義や立憲主義はどうなってしまったのだろう、どうなってゆくのだろう、と問われている。そこのところでうまくいっている国など、どこにもない。政権を担当するものが「われわれの政策によってうまくいっている」と自慢すれば、必ず国民の半数からの反発に遭う。それはもう、この国だって同じなのだ。いよいよ右翼の天下だと思っていたのに、思わぬところから立憲民主党のブームが起きてきた。

現在の世界の人類にとっての民主主義は、彼方の希望の光であるとしても、「今ここ」にあるものではない。
国家や民族は、国家主義民族主義のスローガンによって守られるのではなく、そうしたスローガンを忘れたところで自然に形成されてゆく集団性の単位なのだ。それがもっとも自然でダイナミックに生成されている集団性から生まれてくる集団であるとすれば、壊れるものは壊れてゆけばいいのだし、そこにおいて見い出されてゆく集団性でなければならない。
これからは右翼の時代だといっても、右翼の時代になればなるほど、右翼の醜さが露呈されてくるではないか。「ネトウヨ」や「小池百合子」が右翼ではないはずがない。右翼とは、本質的にそういう人間を生み出す構造を持った思想集団なのだ。すべての右翼は、ネトウヨ小池百合子と別の人種であるのではない。少なくとも外部のものたちはそのように見ている。
安倍晋三枝野幸男よりも魅力的な人間だと思っている人は右翼以外にはほとんどいないだろうし、右翼の中にも思っていない人がたくさんいるにちがいない。彼らが人々の憧れの対象になれなければ、誰もが右翼になる世の中なんかやってくるはずがない。正しいかどうかということなどたいした問題ではないし、右翼思想が正しいといいたいのなら、まずあなたたち自身が魅力的な存在になれよ、という話なのだ。
なんのかのといっても人は魅力的なもの引き寄せられるのであって、われわれ民衆が正しいことにひれ伏すほど物欲しげな存在だとみくびってもらっては困る。われわれは、「もう死んでもいい」という覚悟とともに「魂の純潔」に対する遠い憧れを生きている。
「魂の純潔」すなわち「いつ死んでもかまわないという覚悟」は、倫理・思想の問題ではなく、「無意識」の問題であり、生きものとして生のかたちの「本質=自然=普遍性」の問題なのだ。
民主主義の存続・実現に必要なものは、「正義」ではなく、人としての(あるいは生き物としての)「普遍性」がどこにあるかという問題なのだ。だから、哲学的に考える必要があるわけで、「正義」なんか探していても、永久にその答えは見つからない。
今回の選挙で枝野幸男に注目が集まっているのは、その政治思想がどうのという以前に、われわれ民衆は今、彼の存在をきっかけにして「魂の純潔に対する遠い憧れ」が呼び覚まされる体験をしているのだ。
そしてそれはまあ大震災のときに多くの人の心が揺さぶられ、その感慨を共有していったのもようするにそういうことだったわけで、人類の集団性がダイナミックにはたらくのは、いつだって「魂の純潔に対する遠い憧れ」すなわち「感動」という体験を基礎にしているのだ。

10月14日の枝野幸男による新宿駅前の演説には、7〜8千人の聴衆が集まった。そして、感動して目を潤ませている人がたくさんいた。これがヒットラーのような目的を持った演説ならとても危険なことだが、ともあれそのときその場でそういう「集団性のダイナミズム」という現象が起きたのだった。
そのとき民衆は、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有していた。
枝野幸男は、「えだのん」などというゆるキャラのような愛称を与えられて、安倍晋三ほどの権威も小泉進次郎ほどのカッコよさも持ち合わせていないが、その演説は今、彼らよりもずっと豊かで確かな「感動」を聴衆にもたらしている。
安倍晋三小泉進次郎は民衆を統治している存在であり、統治している自分に満足しながら演説している。
それに対して枝野幸男は、聴衆の拍手によって自分の正当性やカッコよさを確認しているのではなく、自分を忘れてひたすら聴衆に憑依していっている。つまり彼自身が聴衆の拍手に感謝し感動しているのであり、ときどき間を置きながら、たしかにそのような表情をしていた。
彼の演説には、聴衆に対するリスペクトがある。それはもう、その言葉にも話しぶりにもあらわれている。そこが安倍晋三とは違うところであり、そこにおいて安倍晋三に挑戦していっている。安倍晋三が愚民政治を排しているとすれば、枝野幸男は逆に、愚民が政治をしなければならないのであり、それが民主主義だ、といっている。
感動させる演説というのは、話の内容だけでなく語り口や声の魅力も兼ね備えていなければならないのだろうが、それが少なくとも現在においては安倍晋三小泉進次郎をも凌駕しているというのは、ひとつの奇跡的な事件だともいえる。
民主主義の理想とは、おそらく「魂の純潔に対する遠い憧れ」を組織することであって、正義を組織することではない。
大震災のときの日本人の助け合う態度に対しては、ひとまず世界中から称賛が寄せられた。もしかしたら、そこに民主主義の可能性を探そうとした外国人もいたかもしれない。
枝野幸男の演説だって、具体的な政策や理念を並べながらも、ようするに「おたがいさまでみんなで助け合う社会をつくろう」と呼びかけているだけなのだ。そのことに多くの聴衆が感動している。
つまるところ街頭演説は感動させてナンボなのだし、感動させてくれるのなら、聴衆はどんどん集まってくる。「正義」を組織するのではなく、「感動」を組織すること、それを「民主主義」というのだろう。

人は、戦争のない世界を夢見る。
戦争のない世界が実現すれば、軍隊など必要ないだろう。憲法第九条は、ひとまずそういうことを詠っている。そりゃあ、現実問題として軍隊が必要なことは、誰だってわかっている。しかし、人が戦争のない世界を夢見たらいけないのか?「いけない」といえる人間がいるのなら前に出てみろ、という話なのだ。
戦争をするのは、人としての究極の自然なのか?原初の人類は、戦争をすることによって知能を進化させてきたのか、戦争をするために二本の足で立ち上がったのか?
僕がここまで考えてきた過程においては、戦争は文明世界の避けがたい必然であるとしても、人間性の普遍的な自然だとはいえない。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、戦争ができない猿よりも弱い猿になる体験だったのであり、それによって一年中発情している猿になり、その「ときめき」を踏み台にして知能というか知性や感性を進化発展させてきたのだ。
だから人は、戦争のない世界を夢見る。そこにこそ人間性の自然があるわけで、戦争のない世界を夢見ることは誰にも止めることはできない。すなわち、「魂の純潔」を夢見ることは誰にも止めることはできないし、それなしには人間的な知性も感性も存在しない、ということだ。
人は、避けがたく「魂の純潔」を夢見てしまう。それなしには民主主義の理想も成り立たない。
「万人の万人による闘争」といった西洋の哲学者がいたそうだが、文明世界が確かにそういう歴史を歩んできたとしても、そこに人間性の自然があるとはいえない。そういう歴史を歩みつつも、人としてつねに戦争のない世界を夢見てきたのであり、その想像力ととも学問や芸術を進化発展させてきた。
原始人が戦争ばかりして歴史を歩んできたということを証明できる人がいるのなら、僕と議論をしていただきたいものだ。
「闘争」や「競争」が人間性の自然・本質であるというのなら、他愛なく無際限に膨らんでいってしまう人間的な「集団性」は説明がつかない。
他愛なくときめき合いながらおたがいさまで助け合うから集団が無際限に膨らんでゆくのであり、そんな原始人の集団性が、われわれ現代人の「今ここ」においてもはたらいている。そうでなければ、戦争のない世界を夢見るはずがない。
戦争のない世界を夢見ることをやめたら、人が人であることの根拠を失ってしまう。
人が人であることの根拠として、憲法第九条が存在している。
人が人であることの根拠に火が点いて、枝野幸男立憲民主党のブームが起きた。そしてこのブームは、今どきの右翼がいかにブサイクであるかということを浮かび上がらせた。