僕は右翼に幻滅している・神道と天皇(96)

現在のこの国における「右傾化」の風潮なんか、たんなるバブルにすぎない。
とくにこの国の民衆の政治意識は希薄だから、かんたんに右傾化したり左傾化していったりもする。
右翼の政治オタク、とでもいうのだろうか、ネトウヨと呼ばれる人たちは、右翼以外のものたちを激しく執拗に攻撃し排除しようとする。彼らは、異質な他者を認めない。その排他性は、他者を洗脳しようとする衝動であると同時に、自分もまた簡単に洗脳されてしまう存在だということでもある。
政治オタクだろうと宗教オタクだろうと、本能的に「洗脳」しようとする衝動を持っている。オタクの若者だろうと大人のインテリだろうと、政治意識が高いからといって、べつにえらいわけではない。その意識は「洗脳」されて育ってきたのであり、それだけ洗脳されやすいというか時代=世の中にに踊らされやすいというだけのことだ。自分が洗脳されやすいから、他人もかんたんに洗脳できると思う。そういう人間が政治の世界を目指し権力を握ることによって、ファシズムのようなことになってゆくのだろう。
まあ、今どきのネトウヨなんか、ようするにプチ・ファシストの集まりなのだろう。彼らがなぜ「ヘイトスピーチ」をしたがるのかといえば、それによって自分の正当化しているわけで、正当化せずにいられないほどの強迫観念を強く抱えてしまっている人たちなのだ。彼らが右翼以外のものたちを「反日」だの「パヨク=左翼」だのと執拗にののしるのはもう、ヒットラーユダヤ人に対するヘイトスピーチと同じなのだ。
現在の社会はいろんな面で「多様化」してきている、という。その「多様化」に耐えられなくて右傾化してゆく。「多様化」を生きるためには「進取の気性」が必要で、そうした何ごとにも他愛なくときめいてゆく好奇心がなければ耐えられない。
世界のグローバル化の潮流がいいのか悪いのかわからないが、右翼はそれを嫌う。そうやって「アメリカファースト」だの「都民ファースト」だのという。鈍感で反応できないから、そうなってしまうのだ。
右翼は、誰もが他愛なくときめき反応し合う社会を怖がっている。右翼思想がいちばんで、右翼思想以外は認めない。
しかしこの国の伝統においては、いちばんの思想なんかないのがいちばんであり、そうやって「進取の気性」がはぐくまれてきた。
われわれは、彼らのような人に鈍感な嫌われ者になってまで右翼になりたいとは思わないし、たとえ自民党が300議席取ろうとも、この国の大多数が右翼思想の持ち主になってしまっていることなどありえないのだ。
現在のこの国が右傾化しているからといって、右翼が日本列島の伝統を体現しているというわけではない。彼らは、なんにもわかっていない。だが、わかっているつもりの思い込みは人一倍強いから、知ったかぶりする態度だけは威勢がいい。そうやって思考が停滞し澱んでしまっている。彼らには「何だろう?」と問いつつ驚きときめいてゆく心の動きが薄いから、何ごとに対してであれ「気づく」という体験がない。つまり、日本列島の伝統である「進取の気性」がない。
今どきの右翼は日本列島の伝統というものを何もわかっていない、という感想はあちこちから聞こえてくる。彼らよりも、何ごとにも他愛なく「かわいい」とときめいているおバカなギャルたちのほうがずっと深く豊かにこの国の伝統を体現している。つまり右翼たちは、観念的にお題目として「伝統、伝統」と騒いでいるだけであり、おバカなギャルたちはすでにそれを「身体化」している。
「伝統を身体化する」とはどういうことか、このことについてなら、僕だってそれなりにがんばってここまで考えてきたし、今どきの右翼のインテリから学ぶことなんかほとんどない。おバカなギャルのほうが、ずっとたくさんのことを教えてくれる。

人が貧しさから抜け出して何が得られるかといえば、国や世の中を恨んだり当てにしたりすることから解放されて身のまわりの世界や他者の輝きにときめいていられるようになる、ということだろう。貧しくてもそのようにして生きていられたらそれがいちばんなわけで、人が生きることに政治や国家に関心を持つことは本質な問題ではないのだ。
民衆が国家や政治に関心を持つのではない。国家や政治が民衆に関心を持つのだ。そこでわれわれは、国家や政治とどのような関係を結べばよいのだろう。
政治家が心意気を示してくれるなら、民衆だってそれにこたえる用意はある。そうやって税金を払ったり、選挙に行ったりしている。
とはいえ民衆は、その存在の仕方の本質において、右翼でも左翼でもないのであり、国家意識も政治意識もない。国家や政治がこちらに向かって下りてきたときに、はじめて意識する。左翼の風が吹けば左翼に投票するし、もともと国家意識も政治意識もないのだから、もっとしっくりするのは左翼でも右翼でもない風だろう。
「左翼」と「右翼」と中間の「リベラル」という色分けができるとすれば、「無党派層」は「リベラル」だといえる。
現在は右翼の声が優勢だという状況があるとしても、日本列島の民衆のマジョリティは「無党派層」であり、「リベラル」というサイレントマジョリティなのだ。
右翼の票が3割で左翼が2割で、無党派層というリベラルが5割。この5割は、風向きしだいで右に寄ったり左に寄ったり、あくまで無関心であったりする。
世の中は、右翼ばかりではないし、右翼が正しいのでも偉いのでもない。
右翼でも左翼でもない、何も言わない「無党派層」こそ、この国のマジョリティなのだ。彼らは右翼の空騒ぎに対抗するつもりなどないが、もしも彼らが目覚めたら、右翼だって吹き飛ばされてしまうだろう。
もちろん今回の選挙の結果は右翼改憲派の国会議員の数が3分の2以上になるのだろうが、いざ憲法第九条改正の国民投票になったら、彼らの思惑通りにいくとはかぎらない。
僕には選挙情勢のことなど何もわからないが、ひとつだけわかったことがある。それは、枝野幸男の演説は安倍晋三のそれよりも、論旨の内容においても語り口においてもはるかに拡張が高い、ということだ。
日本人は、いざとなったら生き延びるための「正義・正論」よりも、いつ死んでもかまないという覚悟の「魂の純潔」に殉じる。究極的には、日本が滅びても「魂の純潔」に殉じたいのだ。そうやって戦争をするし、そうやって憲法第九条を守る。おそらく枝野幸男だって、そういっている。
なんのかのといっても枝野幸男の演説は「魂の純潔」に殉じようとする覚悟を垣間見させてくれたし、今回の永田町の政治ショーは、多くの日本人の無意識に右翼思想に対する「幻滅」をもたらした。小池百合子はだめて安倍晋三ならよい、というような問題ではない。われわれは、右翼そのものの醜態を見たのだ。その「幻滅」はきっと、日本人の無意識の中に刻まれた。だから、枝野幸男立憲民主党に風が吹いている。
現在の右翼に「魂の純潔」に殉じようとする覚悟があることが見えるのなら、立憲民主党に風が吹くはずがない。民衆は、愚かなようでちゃんと見ている、というか愚かだからこそ見えている。
日本国憲法は、日本人の「魂の純潔に殉じようとする覚悟」をあらわしている。
右翼は、選挙に勝ったとしても、あんまりいい気にならないほうがよい。今回日本人の心の底に刻まれた「幻滅」は、いつか意識の地表に湧き出てくる。