「イノセンス=魂の純潔」の時代・神道と天皇(100)

選挙結果が出た。ひとまずその総括をしておかないといけない。
自民圧勝、立憲民主躍進……まあ、マスコミの想定内におさまった。
台風が来なかったら、もう少し違った結果になったのだろうか。
いずれにせよ、選挙戦後半から選挙当日まで、お祭り気分が盛り上がるような天候ではなかった。選挙なんかただのお祭りで、けっきょく右翼たちだけがお祭り気分で、立憲民主の支持者たちにとっては「めでたさも中くらい」というところだろうか。たぶん台風のせいで、立憲民主党議席獲得数もマスコミが想定した上限を突き抜けることはできなかった。投票に行こうか行くまいかと迷っていた無党派層の足が止まってしまった。
政策がどうのということなど民衆にとってはよくわからないことで、この結果によって日本人が右傾化しているともいえない。半分以上の無党派層といわれる人たちのほとんどは右翼でも左翼でもないし、今日まで右翼だった人が明日には左翼になるかもしれない、というのが日本人なのだ。
政治家やインテリの右翼や保守だと自認している人たちだって、どこまで日本列島の伝統を深く心得ているか、とてもあやしい。右翼だろうと左翼だろうと、現在の時代状況から生み出されるただの自意識過剰の人種ばかりではないか。
たとえどれほど右翼や保守であることを声高に標榜しようと、彼らはただの時代の落とし子であって、きちんと伝統引き継いだ嫡子だとは、とてもじゃないが思えない。その自意識過剰は品がないし、そんな人間を生み出すのが日本列島の伝統であるのではない。
今どきは、ネトウヨ小池百合子安倍晋三をはじめとして、品性下劣な右翼がなんと多いことか。
まあさしあたって生活に困らない人が半数以上いる世の中なのだから、このままの自民党政権のほうがいいのだろう。そいう人たちに「困っている人たちを助けたい」という気持ちが芽生えてきて、はじめて反自民が半数以上になる。またワーキングプアの若者たちだって「助けたい」とか「助け合いたい」という気持ちはあまりなく、そんなことをしていたらよけいに貧乏になってしまうと思っている。彼らには人と出会ってときめき合うという体験が乏しく、なかばもうあきらめている。おそらくそうやってネトウヨになってゆくのだろう。彼らはもう、ときめき合うよりも、人を憎み倒すことでしか自分を支えられなくなっているし、人を憎み倒すことは今どきの右翼の真骨頂なのだ。
新自由主義の社会は、人と人を分断させる。人と人のときめき合う関係が希薄になってゆく。そういう状況からネトウヨが生まれてくるわけで、彼らは新自由主義(の安倍政治)を賛美しつつ、そこからますます追いつめられていってもいる。たとえワーキングプアであっても、自分の陣地を持つために右翼の陣地に参加するしかない。リベラルとは自分の陣地を持たないで誰もがときめき合い助け合おうとする思想であり、人とときめき合うことができない嫌われ者はそんな不安定なところには立てない。
安倍晋三小池百合子だって、人とときめき合うことができない嫌われ者のまま自分の陣地をつくる駆け引きの技術を磨いてここまで生きてきたのだ。小池百合子は今回失敗してしまったが、安倍晋三はなお成功しているのだから、とうぜんネトウヨたちの信奉を確保することになる。
右翼だろうと左翼だろうと、嫌われ者は自分の陣地をつくって生きるしかないし、かなしいかな今どきは嫌われ者がのさばっている世の中なのだ。枝野幸男はそこに風穴を開けようとしたわけで、風穴を開けなければ民主主義に未来はない。
人を憎み倒さないと生きていられないなんてとても不幸なことだろうし、すでに心を病んでしまっている。ただ、病んでしまっているものどうしが集まれば、それを自覚しないですむ。そこは、嫌われ者が嫌われないまま団結してゆける陣地なのだ。そうして、自分たち以外を徹底的に憎み倒し排除してゆく。
ネトウヨだけではない、右翼そのものが異質な他者を憎み排除しようとする自意識過剰の衝動を強く持っているわけで、小池百合子安倍晋三もつまるところ同じ人種なのだ。
社会が分断されているとは、憎むとかさげすむとか、そういう自意識過剰の心の動きが社会に色濃くにじんでいる、ということを意味する。まあ、この5年間の安倍政治によってそういう傾向がどんどん進行してきているわけで、そのことに対する幻滅というか嘆きを掬い上げて立憲民主党への風が吹いた。

時代の無意識というか通奏低音はどこにあるか、と問うなら、今回の選挙は、「民主主義とは何か?」と問われる選挙でもあった。それは、現在の世界におけるもっとも大きく切実な問いであり、世界中が今、その答えを探しあぐねている。
今回の選挙最終日の党首演説イベントでもっとも大きな盛り上がりを見せたのは、なんといっても立憲民主党新宿駅前でのそれだった。盛り上がりの内容においても8000人ともいわれる集まった人の数においても、秋葉原駅での自民党よりもはるかに上回っていた。もしかしたらこの国の民主主義が新しく生まれ変わる歴史的なイベントだったのかもしれない、という評論家もいる。
このイベントを運営していたのはボランティアの若者たちで、立憲民主党の支持層は老若男女に広がっていたらしい。
まあ、ひとつのお祭りなのだ。
で、この祭りの主役はもちろん枝野幸男でその演説も大いに感動的で盛り上がったのだが、僕としてはもうひとり、司会をしていた若い女性が陰の主役としてとても気になった。
彼女はとくに美人というわけでもなかったのだが、その微笑む表情に、今までのフェミニスト市民運動家にはないとても新鮮なものを感じた。巫女のようだった。
「巫女のようだ」とは、よけいな自意識がまとわりついてない「魂の純潔」を感じさせる気配が見えた、ということだ。
フランスのボーボワールからはじまってこれまで欧米が主導してきたフェミニズムを象徴する女性像というのは、一様に近代合理主義を体現したような自意識の強さを持っていた。この国の市川房江から上野千鶴子にいたるフェミニストたちもみなその流れの上で活躍してきた。
その流れからいうと、あんな「巫女のような」無心で透明な気配を持った女性が市民運動に参加するようになったというのは、いかにも時代は変わりつつあるのだなあというものを感じさせる。彼女は、かつてのフェミニストのようなむやみに自分を主張するような気配はまるでなく、ただもう無心にこの世界の輝きに反応しときめいている。そういう生まれたばかりの子供のようなきらきらした表情をしていた。

ハリウッドのウィノナ・ライダーという女優がなぜ貴重かといえば、彼女は「アメリカのロリータ=巫女」として登場してきて、40歳を過ぎたいまだにそういう「イノセンス=魂の純潔」の気配を残していることにある。
十数年前に『ブリジッド・ジョーンズの日記』という31歳の恋多き独身女性を主人公にした映画が世界中の女性にもてはやされたことがあった。あの主演女優のㇾネー・ゼルウィガーにも、「イノセンス=魂の純潔」を感じさせる気配が漂っていた。
たしかに今、女のトレンドが変わりつつある。自意識を丸出しにした女は嫌われる。そうやって小池百合子のブームが去っていった。最初は「一途でひたむきな女」の「イノセンス=魂の純潔」を演じていたが、けっきょくは「自我の拡張」を生きる古いタイプのフェミニストと変わりないことが露呈されてしまった。そしてそれは、今どきの右翼の醜さが露呈される現象でもあったし、けっきょく右翼も左翼も「自我の拡張」においては同じ人種だったのかと気づかされる現象でもあった。。
だから枝野幸男は「右でも左でもない」と必死に訴えた。
歌手のマドンナはアメリカのフェミニズムを象徴する存在だろうが、20年前くらいからもうひとつの潮流が生まれてきた。男であれ女であれ今やもう、近代合理主義的な「自我の強さ」よりも「イノセンス=魂の純潔」を問う時代になってきている。そうやって日本的な「かわいい」の文化、すなわち女の中の「ロリータ=巫女」的なものが問われる時代になってきた。
「ロリータ=巫女」といってもべつに思春期の少女だけではなく、たとえ大人の女で男とセックスしまくっていても、心のどこかしらに「魂の純潔」を残している女が時代のトレンドになってきた。
国家であれ個人であれ、世界的に自我の拡張だけでは生きられない時代になってきた。自我の拡張がさかんな人間がのさばっている時代であるが、そんな時代の空気からこぼれ落ちていっている人間がどんどん増えてきているし、自我=自意識がまとわりついていない「イノセンス」が注目されるようにもなってきている。

アメリカには強いものが弱いものを助ける慈善団体の文化があるが、日本列島には団体ではなく人と人の直接的な関係としての弱いものどうしが助け合う文化がある。
強いものが弱いものを助けてやる文化もけっこうだが、それでは強いものと弱いものの分断は永遠に解消されないわけで、アメリカはそういう自己矛盾を抱えている。強いものは弱いものを助けながらますます強くなってゆき、ますます格差がはっきりしてくる。弱いものは強いものの免罪符として、永遠に弱いものとして据え置かれる。それが、アメリカの現在だろう。
アメリカにおいては、強いものを目指すことは正義であり、それは弱いものを助けることによって免罪される。
しかし日本列島には、そうした正義はない。
「助け合う」とは「ときめき合う」こと、弱いものでなければときめき合うことはできない。弱いものであることの嘆きからときめく心が生まれてくる。
強いものどうしは、より強いものになろうと競争する。強くなれない弱いものどうしは、弱いものであることの嘆きを共有しながらときめき合い連携してゆく。
弱いものであるとは、人間であるということであり、力がないとか金がないとかそういうこと以前の問題なのだ。
人間であることがそのまま弱いものであるということは、生きてあることの「いたたまれなさ=嘆き」を抱えている存在である、ということだ。息をするのは、息をしないと息苦しいからだ。息苦しさこそ、人間存在の基礎的なかたちにほかならない。まあ、それだけのこと。命のいとなみも心のはたらきも、そこからはじまる。人はそこから生きはじめる。
人間だけでなく生きものは基本的に「生きられない弱い存在」であり、そのことに対する本能的無意識的な自覚の上に、人と人の助け合う関係が生まれてくる。
つまり人が「イノセンス=魂の純潔」に惹かれるのは、そうしたこの生の基礎のかたちに由来しているのであり、もう本能的に惹かれてしまうのだ。
強さや幸せを目指す「自我の拡張」が正義になっている時代だからこそ、自我の薄い「イノセンス=魂の純潔」に対する遠い憧れが切実になってきてもいる。
野放図に「自我の拡張」に邁進してゆけば、いずれ心は病んでしまう。だからアメリカの大金持ちは慈善事業をする。大金持ちであり続けるためには、慈善事業が必要なのだ。言い換えれば、アメリカは慈善事業の文化とともに。これからもどんどん病んでゆく。彼らが銃規制をできないのは、「自我の拡張」の文化だからだろう。銃規制をできない国に核兵器の廃絶なんかできるはずがない。
トランプも安倍晋三小池百合子ネトウヨも、今どきの右翼なんか「自我の拡張」の勢いにブレーキがかからなくなって、すでに精神を病んでしまっている。
みんな病んでいるのだから、それでいいのか?
いやいや人の世は、それだけではすまない。世の中が病んでゆけばゆくほど、「イノセンス=魂の純潔」に対する遠い憧れも切実になってくる。それが、今どきの「かわいい」の文化の意味するところだ。
世界的に近代合理主義による「自我の拡張」の文化の病巣が露出してきた時代だからこそ、「かわいい」の文化すなわち「イノセンス=魂の純潔」が注目されてきている。であれば、日本列島はその先頭ランナーになることができるアドバンテージを持っているのかもしれない。
人と人が助け合うことは、「イノセンス=魂の純潔」に対する遠い憧れの上になりっている。
イノセンス=魂の純潔」に対する遠い憧れを失ったら、民主主義に未来はない。おそらく枝野幸男はそのことに気づいているし、世界中が気づきはじめている。まだまだ「自我の拡張」が幅を利かせる世の中であるとしても、人はけっしてその「遠い憧れ」を手放さない。
衆議院選挙最終日の新宿駅前で立憲民主党の集会の司会をしていたあの若い女性の表情には、たしかに巫女のような「イノセンス=魂の純潔」を感じさせる気配が漂っていた。