恥知らずな日本人とは誰か・神道と天皇(107)

今回の衆議院選挙の際に民進党から希望の党に移った候補者たちのことを、マスコミの評論家も芸能タレントも口をそろえて「節操がない」というような批判をしていたが、そんなことをいうもんじゃない、と僕は思う。
彼らだって、他人にはうかがい知れない固有の人生とさまざまなしがらみを背負ってやむなくそうした人も少なからずいたのだろうし、ただ「小池人気を当て込んでなびいていった」とかんたんに片づけてしまうことはできない。たとえそうでも、それが悪いとか卑怯だともいえない。
もしも自分が当事者ならそうしなかったと、いったい誰がいえるのか。小池人気を当て込まないと当選がおぼつかない人に、それをするべきではないといえる権利など誰にもない。
ずるい人がずるく生きて、何が悪いのか。彼らにだって人の心はあるのだから、機会に恵まれれば誠実に生きることもできる。
みんなそれぞれ「こうしか生きられない」というところを生きている。
ただ、日本列島の民衆はどんなスキャンダルに対して拒否反応が強いかといえば、不倫の山尾志桜里は当選して「このハゲー!」の豊田真由子が最下位で落選したということは、たとえふしだらな不倫でも人恋しさの証しであるし、それよりも人に対する鈍感さとか憎しみを抱くことの方がより大きな不快感を覚える、ということだろう。
日本列島の歴史と伝統は、西洋のような契約社会ではなく、それ以前の暗黙の信頼関係というかときめき合う関係の上に成り立っているから、そういう人に対する鈍感さや憎しみをとても嫌う。
また、契約社会ではないし宗教に縛られてもいないから、かんたんに騙したり騙されたり支配したり支配されたりしてしまうわけで、法律違反ではないのなら何をやってもいいというようなことをしていたら社会が成り立たなくなってしまう。
まあ、そのおかげで、礼儀正しい民族だ、といわれたりもしている。

ややこしい人と人の関係のしがらみで希望の党に移ったのなら許されるのが日本列島なのだ。だからひとまず50人が当選したわけで、なのにマスコミは寄ってたかってそれを非難した。その態度は、おそらく民衆の心とかけ離れている。
希望の党の逆風は、あくまで小池百合子の「不人情」に対する幻滅にあるのであって、議員たちが希望の党に移ったことは、誉められないまでも「しょうがない」と半ば許されていた。それが、日本列島の「人情」なのだ。
で、許さなかったマスコミ人の賢さと許した民衆の愚かさとどちらに「人情=信頼=魂の純潔」があったかといえばもちろん後者に決まっているわけで、民主主義の未来にはじつはそれこそが必要なのだ。
民衆は愚かだ。民衆の心は移ろいやすい。それは、「政治=契約」のない社会を生きているからだ。民衆は、そのつどそのつどの「出会いのときめき=信頼関係」を生きている。
民衆の心が移ろいやすいのは世界中どこでもそうだろうが、とくに日本列島はその傾向が強く、だからかんたんに「右傾化している」と決めつけることはできない。今でもマジョリティは「無党派層」なのだ。
そして民主主義の未来の希望はその愚かさにあるのであって、今どきのインテリたちの小賢しい正義・正論にあるのではない。

まあ、現在の政治の世界は権力ゲームが全盛であり、民衆はその恩恵にあずかったり損をさせられたりしながら暮らしているのだろうが、民衆の生活感情の上に成り立った社会はまたべつのさまのまま日々移ろい流れているわけで、権力ゲームというか競争原理や闘争原理の上に成り立った社会の動きに幻滅しはじめているのかもしれない。
右翼は権力ゲームが好きで、希望の党を立ち上げた小池百合子民進党希望の党への移籍を画策した前原誠司も権力ゲームの勝者になることをナイーブに夢想したのだろうが、けっきょくは民衆に幻滅される結果に終わった。
また安倍晋三も、どんなに右翼たちが持ち上げようと、民衆からはしだいに幻滅されつつある。
魅力的な人間であることを自己演出してどれほど人気者になろうと、最後は馬脚をあらわして幻滅される。それが「歴史」というものだろう。今回の小池人気の凋落はそういう教訓を残したわけで、安倍晋三だって、どれほど長期政権の記録を打ち立てようと、いずれ人々に忘れ去られる。
たとえ安倍政権に人気があろうと、安倍晋三というその人に魅力を感じているのは、今や政治オタクの右翼だけだろう。いや右翼の中にだってげんなりしている人は少なからずいるわけで、そういう政治家が人々の記憶に残るはずがない。
徳川家康はひとまず歴史に残ったが、国民的な人気があるとはいえない。
坂本龍馬西郷隆盛に「魂の純潔=清純な心意気」がほんとうにあったのかどうかはわからないが、何はともあれそういう印象がなければ人々の記憶には残らない。
どんな人間が魅力的かという基準は、時代によって変わってゆく部分もあれば、変わらない部分もある。いずれにせよ「魂の純潔」を感じさせない人間は嫌われ者になるほかないし、どれほど権力ゲームに熱心な人間であれ、人気者になりたい部分においては誰もが「魂の純潔」を自己演出している。というか、嫌われ者ほど「魂の純潔」を自己演出したがるし、すでに他者からそのように見られている人間はそれをすることに恥じている。
安倍晋三であれ小池百合子であれ、あまたの政治家もそうだが、自分で「誠実」とか「謙虚」などと平気でいえるなんて、恥知らずにもほどがある。それこそ「節操がない」のだ。それでも日本人か、と思う。

心の底にときめきを持っていない人間は嫌われる。どんなに正義・正論で自分をつくろい主張しても嫌われる。そうして最終的には、自分を主張すればするほど嫌われるという悪循環に陥る。
この国はとくに、正義・正論だけでは錦の御旗になりえない精神風土がある。深く豊かにときめくことができる資質は正義・正論を振りかざすだけでは証明できないし、その資質は、生まれたばかりの子供がいちばん深く豊かにそなえている。
まあ生まれたばかりの子供はまだ物心がついていないわけだが、そのあとの段階の人間においては、「処女=思春期の少女」の「一瞬の輝き=美」として現れる。その「一瞬の輝き」の奇跡に対する「遠い憧れ」を人類は共有している。
人は、「魂の純潔」を持っているのではない。「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っているのだ。そしてそれは、他者の中にそれを「一瞬の輝き」として垣間見る、ということだ。そのようにして「処女幻想=ロリータ趣味」が生まれてくるのであり、それは男も女も思春期の少女自身も持っている、ということだ。
というか、思春期の少女自身が、もっとも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っている。
つまり、自分を正当化できる資格を持った人間などこの世にひとりもいない、ということだ。
日本人は、自分や自分を正当化する根拠、すなわちアイデンティティというものを持っていない。だから、外国人から日本人の優れているところは何かと聞かれて、一瞬ポカーンとして口ごもってしまう。アイデンティティを問うことは、宗教国の慣習なのだ。だからパスポートに男か女かという「ID」を記入する欄がある。欧米人にとっては宗教も思想も国籍も性別もすべて「ID」の問題らしいが、宗教心の薄い日本列島には「アイデンティティ」という問題はない。
アイデンティティに相当するやまとことばはない。あえて探すとすれば、「あはれ」とか「はかなし」という言葉だろうか。つまり、アイデンティティが希薄なことがアイデンティティなのだ。
自分の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を、いったいどんな言葉で表せばいいのだろう。日本人は、歴史的根源的にはそこを問い合っている。
べつに、民進党から希望の党に移ったってかまわないさ。そんなことにいちいち上から目線で因縁をつけて裁くことが、そもそも日本文化の伝統を身体化することに失敗している証しなのだ。ちんけな正義・正論でさ。
まあ、今どきの右翼なんて、そういう人間の巣窟ではないか。