夢見る能力・神道と天皇(99)

小池百合子だろうと安倍晋三だろうと大学教授のインテリだろうと、右翼なんて、どこかから拾ってきた知識をもてあそび振り回して正義・正論ぶっているだけなのだ。その正義・正論しか吐けないところに彼らの限界がある。
正義・正論は、つねにどこかから拾ってきた知識として生み出される。自分の頭でものを考えることができない人間が、正義・正論を吐くのだ。どれほど偏差値が高かろうと、彼らは、自分の脳みその汗と血を振り絞って考えるということができない。
この前大蔵省出身のある右翼系コメンテーターが、「半年たっても決定的な証拠が出てこない森友・加計問題を選挙の争点に持ち出してくるなんてまったくナンセンスだ。その問題はもう終わっているのであり、野党の連中は頭悪すぎる」とえらそげに語っていた。
だったら、この世の迷宮入りする事件には犯人など存在しないのか?そういっているのと同じではないか。隠し切り逃げ切ればなかったことにしてしまえるのが常識の役人の世界で生きてきた人間のいいそうなセリフだ。
役人だろうと政治家だろうと一般企業だろうと、権力に寄生している人間たちが好き勝手なことをして甘い汁を吸っているということは国民の誰もが知っているのであり、多くの人は、やるからには徹底的にやってもらいたいと思っているさ。
森友・加計の問題は終わっている、と思っているというか思いたいのは右翼の連中だけで、国民の半分以上はそうは思っていない。けっきょくうやむやで終わってしまうのだろうな、とあきらめかけているとしても。

右翼系のインテリにとってこの世の中は権力を持っているものたちによって動いているわけで、だからそういう「パワーバランス」を計算すれば世界情勢もすべて予測できると思っている。
もしも世界が、この先もずっと権力者たちのパワーゲームだけで動いてゆくのなら、彼らの数学的予測の能力は有用にちがいない。彼らにあるのは、現在の世界で起きている表面的な事象を数値化して計算・分析する能力だけで、世界の人々が今何を思って生きているのかというようなことに対する想像力などはまるでない。
彼らに民主主義の現在はどうなっているのかとか未来はどうなるのかということを聞いても無駄なのだ。彼らの予測能力は、世界が権力者による数値化できるパワーゲームだけで動いているかぎりにおいてのみ有効なわけで、パワーゲームなど必要のない世界すなわち戦争のない世界を夢見る能力などはまるでない。まあ、予測能力があるだけで、「人間とは何か?」と問うてゆく能力なんかない。
彼らの思考というか知能は、観念的に既成の情報を処理することができるだけで、人間性の自然としての「夢見る=飛躍する」想像力がいちじるしく欠落している。つまり、人間なんか闘争原理と競争原理だけで成り立っていると思っているのだ。思考が薄っぺらでものごとを表面的にしかとらえられない彼らの脳みそでは、その向こうの本質・自然に思いを馳せるというか探求してゆく能力はない。彼らの思考はおそろしく複雑だけど、おそろしく薄っぺらだ。そういう脳みそのはたらきに対して僕は、気味悪いとは思うが、べつに尊敬はしない。
たとえそれが一万年先だろうと百万年先だろうと、人は、戦争のない世界に向かう道筋を夢見ている存在なのだ。そしてそれを夢見て構想できるのは名もない民衆であり、右翼のインテリや政治家は、永遠のパワーゲームにおいてしか人類の未来は構想できない。
ことに現在の世界は、統治・支配に熱中する権力志向の観念と戦争のない世界を夢見る人としての普遍的な思いとの二つの潮流をはらみながら動いている。
だから、世界がまるごと右翼化してしまうことにはならない。イギリスもアメリカも、まるごと右翼化することができないで迷走しているではないか。

文明国家だろうと宗教だろうと、正義・正論を掲げて戦争に突き進んでゆく。
戦争をしたがる国家は、右翼の理想であるところの、強大な権力によるトップダウンの政治システムを持っている。これが安倍政権のめざすところであり、戦争は権力の本能であるが、人間性の自然というわけではない。人々の心が戦争という一点に向かって収斂し、団結してゆく。その頂点に立てば、権力者にとってはこれほど心地よいこともないだろう。
民衆が国家の戦争を組織するということはありえない。民衆とは、戦争のない世界を夢見る存在なのだ。
戦争のない世界とは、人と人が争うのでも競うのでもなく、助け合う世界のこと。古代の日本列島は、道路や橋や港などのインフラ事業は、ぜんぶ民衆自身の連携協力によってなされており、国家権力は何もしなかった。つまり、民衆自身の自治のシステム(習俗)を持っていたということであり、それは、「助け合う」ことすなわち「戦争のない世界を夢見る」ことの上に成り立っていた、ということだ。
戦後社会の、戦災孤児や戦争未亡人の援助救済も、ほとんどが民間の篤志家によってなされていた。日本列島には民衆自治の伝統がある。それは、「戦争のない世界を夢見る」民族だということでもある。いや、世界中どこでも民衆とは本質的にはそういう存在なのだ。
権力者が戦争をしたがるだけのこと。それを人間の本性だといわれても困る。
人が猿としての限度を超えた集団の中に置かれた存在であるかぎり、誰だって多かれ少なかれ避けがたく権力をみずからの身にまとい、他者や集団の権力から圧迫されてもいるわけだが、それでも誰の中にも、人と助け合い人にひざまずき献身しようとする衝動が疼いている。
人は、戦争のない世界を夢見てしまう存在なのだ。そんなものはただの感傷だというのは勝手だが、夢見たらいけないという権利がいったい誰にあるというのか。それでも、じつは誰だって夢見てしまうのだ。
まあ民衆は「戦争のない世界を夢見る」存在だから憲法第九条がここまで存続してきたのであり、昨今の北朝鮮の脅威といっても、じつはあまり実感がない。良くも悪くも、じっさいに起きてからその気になるのが民衆の本性なのだ。民衆は、その本性において「いつ死んでもかまわない」という感慨を抱えて生きている存在だから、そんな心配はしない。だから、かなしいことに、東日本大震災もあんな大惨事になってしまった。「戦争のない世界を夢見る」存在だからそういうことになってしまうし、起きたら起きたで暴動を起こすこともなく静かにみんなで助け合っていった。
北朝鮮の脅威なんか、権力者が煽っているだけで、べつに民衆が「なんとかしてくれ」と騒ぎ立てているのではない。日本列島はそういう土地柄で、だから欧米のような核シェルターの備えがほとんどない。
民衆は、人間性の自然として「いつ死んでもかまわない」という覚悟を無意識のところで持っている。攻撃されないと思っているのではない。そのときはもうしょうがない、という覚悟を無意識のうちにしてしまっているだけであり、そういう覚悟なしに「戦争のない世界を夢見る」ことなんかできない。
助け合う存在である人間は、戦争のない世界を夢見る。

今どきの右翼に正義・正論を振りかざして偉そうな顔をされても、僕は尊敬なんかしないし、カッコいいとも思わない。
今回の選挙で最初は自民党の劣勢が伝えられた。それは、人々の目に自民党よりも希望の党のほうが魅力的に映ったからだろう。人々は安倍晋三という右翼の醜さに気づきはじめていたし、希望の党はもっとリベラルな党かと思った。
ところが(排除)するとかなんとか、安倍晋三と同じかそれ以上に右翼的な思想の持ち主であることがわかって、人々はいっせいに拒否反応を示した。
現在の右翼たちは、右翼思想はこの社会の揺るがぬ正義として圧倒的な支持と尊敬を集めているつもりでいる。しかし民衆の意識は、彼らがうぬぼれるほどには右傾化してはいなかった。そういうことが露出したのだ。
希望の党への風が収束して自民党に票が戻ったといっても、安倍晋三の支持率は依然として下がり続けている。
そして立憲民主党に風が吹いてきたといっても、「筋を通した」とか「判官びいき」というようなこと以前に、右翼に対する幻滅の受け皿になったということがある。民衆は、リベラルのなんたるかなんかわかっていない。右翼に対するなんとなくの幻滅があっただけだ。自分は正しいと思っていい気になっていることだってひとつの排除の論理であり、そういう態度に対してどことなく不純なものを感じた。つまりその自己正当化の論理によって社会が分断されていることを直感的無意識的に察知した。
日本列島は「けがれ」と「みそぎ」の文化であり、この生や自分に対する「けがれ」の意識なしには「みそぎ」が果たされる契機ははない。
この国においては、「自分は正しい」と思うことは、「みそぎ」の契機を喪失したひとつの「けがれ」なのだ。
右翼というのは「けがれ」を自覚していない。そこが気味悪いし、心はそうやって病んでゆく。人は、「魂の純潔」に対する遠い憧れとともにたえず自分の心をさっぱりさせようとしていないと、「けがれ」がどんどんたまってゆく。心や体が動くとはそういうことであり、この生のいとなみの基礎には「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいている。戦争をするとか悪事をはたらくといっても、根源的には、この生のいたたまれなさから急き立てられているのであり、そこから逃れてさっぱりする状態に引き寄せられている。腹が減っていることの鬱陶しさは、飯を食えばさっぱりする。息苦しいなら、息をすればさっぱりする。この生はいたたまれないものであり、この生が充実するとはこの生をきれいさっぱり忘れてしまうことだ。
この生に執着すれば、死の恐怖が肥大化し、心はどんどん騒々しくなってゆく。「この生=自分」に執着しつつ、「この生=自分」の外の世界に対するときめきを失い、心が病んでゆく。
「魂の純潔」は、「この生=自分」をきれいさっぱりと忘れ、世界の輝きに他愛なくときめいている。とにかく、人が人であるかぎり、その本性として誰もが心のどこかしらにそうした「この生=自分」が消えてゆくことに対する親密な感慨、すなわち「いつ死んでもかまわない」という「魂の純潔」を持っているのであり、それを失うと心は停滞し病んでしまうのだ。
この世の中は、正義・正論だけで動いているわけではないし、そのように動かねばならないわけでもない。
人の心は、いつだって「正義・正論」と「魂の純潔」のあいだを揺れ動いている。だから枝野幸男の演説にたくさんの人が集まってきたのであり、そのとき人々は、そうした「揺れ動く心」に訴えかけてくる何かを感じていた。

前回、ゆるキャラは「魂の純潔」を象徴している、と書いた。へんてこな姿かたちのゆるキャラはナルシズム(自己撞着)を持つことの不可能性を負った存在であり、そのナルシズム(自己撞着)を持っていないところに「魂の純潔」がある。
「えだのん」というゆるキャラ枝野幸男には「どうだ、俺はカッコいいだろう」というナルシズムなんかない。その演説において、自分を捨ててひたすら聴衆の心に憑依してゆこうとしている。
「くまもん」や「ひこにゃん」だって、現代人が共有している病理としての「正義・正論」や「自己撞着」から解き放たれている存在として愛されているのだし、そこにこそ「みそぎ」という日本文化の伝統の本質がある。
人間なんか不潔でろくでもない生きものだが、だからこそ誰の中にも「魂の純潔」に対する遠い憧れがある。枝野幸男の演説には人の心のそういうところに響いてくる何かがあるわけで、なんであれ感動するというのは、そういう「みそぎ」のカタルシス(浄化作用)の体験なのだ。
人は必ずしも損得づくだけで行動しているわけではないということなんか当たり前のことなのに、損得の問題でかたずけられていることは多い。
われわれは選挙のとき、自分が生きてゆくのに役立ちそうな政治家を選ぶのか?
まあ、おおむねそういうことだとしても、必ずしもそれがすべてだとはいえない。
損得を度外視しても魅力的な人に一票を入れたい、という思いもある。
共産党なんか好きではないのだけれど、誰よりも誠実でひたむきそうな人だから一票を投じた……というようなこともある。無党派層の人は、だいたいそのような基準で投票することが多い。
枝野幸男の演説では「政治は、困っている人を助けるところからはじめなければならない」とか「現在の安倍政治のようなことばかりしていたら、世界に対して恥ずかしい。そう思いませんか、みなさん」などといい、べつに貧困層でもない人たちが拍手したりする。おそらくそのとき聴衆は、自分の損得のことなど忘れて自分の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を刺激されている。
安倍晋三が安定した階層の既得権益を守ることをアピールしているのに対して枝野幸男は、既得権益を持っていない人たちに国家の予算を回してゆくのが政治だ、それによっておたがいさまで人と人が助け合う社会になってゆく、と主張する。
たしかに安倍晋三のようなことばかりいっていたら、社会は分断されてしまうだろう。
そして枝野幸男の主張の根底には人と人のときめき合う関係に対する信憑があり、そのとき聴衆は、さしあたって自分の得にならなくてもその主張に感動して賛同している。そのようにして今回の立憲民主党の出現という現象は、現在の「右傾化」という社会の風潮に一石を投じてみせた。
今なお社会は、右翼たちがうぬぼれるほど「右傾化」しているわけではない。小池百合子は、そこのところを見誤り、つまずいた。「日本のこころ」という党は、1議席も取れないだろうという予測になっている。あたりまえだ。彼らは、何もわかっていない。右翼であることが、「日本のこころ」であるのではない。
現在の立憲民主党に対する風は、マスコミや知識人が想像・分析する以上に吹いていると思えるのだが、さてどうなることやら。あんがいさほどでもなかった、という結果になったらごめんなさい。しかしこれは、人の心の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」の問題だと思えてならない。