ゆるキャラの魂・神道と天皇(98)

10月14日の新宿駅前における立憲民主党の街頭演説会の人だかりはほんとうにすごかった。あの狭いスペースに7〜8千人は集まっていたともいわれている。保守政党のようなあらかじめ動員をかける組織の力を持っていないし、しかもべつに前々から準備をしていたわけでもなく二日前に急に発表されたイベントなのだから、ほとんどの人はたんなる世間の風のなりゆきだけで集まってきたのだろう。
都市では、何かのはずみでものすごい人だかりが生まれてしまう。もともと起源としての都市はそうやってどこからともなく人が湧いて出てくるように発生してきたのであって、ひとつの家族とか親族がそのまま大きくなっていってできたのではない。
それにしても、人気スターのコンサートイベントでもあるまいし、生まれたばかりの小さな野党のただの政治演説を聞くというだけのために、どうしてあんなにも集まってきたのだろう。
彼らは何に引き寄せられていったのだろう。
やっぱり、ふだんは政治に無関心でも、誰もが心の奥底で「民主主義とは何だろう?」という問いを抱えていて、そこを刺激されたのだろうか。つまり、「この世の中はいったいどうなっているのだろう?」ということ、そういう思いはそりゃあいつの時代も誰の中にもあるし、今どきはそのことの「わからなさ」がいつの時代にもまして大きいのかもしれない。
政治演説に関心が集まる世の中が幸せな世の中だとはいえない。もともと日本列島は無党派層が五割の、政治なんか政治家が勝手にやってくれ、という思いが本音の歴史を歩んできたわけで、とにもかくにも枝野幸男立憲民主党は、その無党派層を呼び寄せたり立ち止まらせたりしたのだ。
たぶん、たまたま歩いていてつい立ち止まって聞いてしまった、という人がたくさんいたのだろう。
それほどに「民主主義とは何だろう?」という問いが深く切実に沈潜している時代であるらしい。これは、世界的にそうなのだ。

「民主主義とは何だろう?」問えば、この国のインテリたちはきっと自信満々にああだこうだと答えてくれることだろう。そして、「何だろう?」と問うている民衆は愚かだというのだろうか。
しかしたぶん、欧米のインテリの多くは答えを探しあぐねているのが現状に違いない。なぜなら実際にそういう世の中になってしまっているのだもの。移民問題や経済格差など、さまざまな不具合が生じてきている世の中で、民主主義が健全に機能しているとはとてもじゃないが思えない。まあそういう事情があるにせよ、深く切実に考えているものほど「何だろう?」と問うているのであり、切実さを持たない凡庸なインテリ・プチインテリばかりが呆けた顔をしてわかったようなことをいいたがる。
民衆は、インテリのように意識的に考えるということはしないが、無意識的には、それが現状においては解決不能のやっかいな問題であることをちゃんと察知している。
おそらくこの国だって、民主主義が機能不全に陥っている部分はけっして少なくないのだろう。
たとえば、非正規雇用が増えていることには、法制度の問題だけでなく、経営者のモラルが著しく低下しているということにも一因があるにちがいない。社員にしてやろうという心意気というか愛がない。好景気の企業の内部留保が史上最大になっているというのも、足手まといの社員や下請け企業を平気で切り捨てられるからだろうし、儲けた分だけ税金を払おうとする心意気も愛もないのだろう。
なんのかのといっても、心意気や愛がなければそういう制度を改善するのは難しいのだ。人間性の自然が「闘争原理」や「競争原理」の上に成り立っていると考えるのなら、世の中はそうなってゆくに決まっている。正義や正論が大きな顔をしている世の中なら、そうなってしまうに決まっている。
たとえ不合理でも、人と人が他愛なくときめき合う関係は大切だという心意気や愛がなければ、民主主義なんか成り立たない。枝野幸男はそういって立ち上がったのだし、多くの民衆がその声を聴こうと新宿駅前に集まってきた。
そういう心意気や愛、すなわち「魂の純潔」こそが人間性の自然なのだということに気づかなければ、民主主義なんか成り立たない。そしてこのことが非現実的なたんなる感傷かというと、じつはそうではないのだ。人はまさにこの二つの人間観のあいだを揺れ動きながら生きているわけで、どんなに正義・正論に納得しても、それでも根源的な人間性の自然としてそうした「魂の純潔」という不合理なものを抱えてしまっている。

枝野幸男は、「おたがいさまで人と人が支え合う社会をつくろうではありませんか」という。べつに目新しい言葉ではないが、泣かせるセリフだ。これこそが、民主主義を成り立たせるための普遍的本質的な課題にほかならない。なぜなら人類は、直立二足歩行の開始から文明国家の発生まで、そうやって歴史を歩んできたのだ。
世間的にはべつに目新しいセリフではないが、政治の世界では誰もいわなかった。
そして彼は、こうもいう。
「今までの政治家は、いかに民衆を統治するかということばかり考えてきた。しかしそうじゃないことがわかった。政治家は民衆とともに何ができるかと考えないといけない」と。
おたがいさま、ということ。もう、「大衆に迎合した愚民政治はよくない」などと気取っている場合ではない、政治および社会を変える力は大衆にこそある……と彼はいっているのだ。そしてじつは、このことを彼よりも先にいっている政治家がいた。
あのJ・F・ケネディは、大統領就任演説で「親愛なるアメリカ市民諸君、アメリカがあなたたちのために何ができるかを問うてくれるな、あなたたちがアメリカのために何ができるかを問うていただきたい」といった。枝野幸男がこの有名な演説を意識しているのかどうかは知る由もないが、いわんとするところは同じなのだ。大衆のために何をしてやるかではない、政治は大衆を信頼し愛するところからはじまる、といっているのであり、そこにおいてトランプのポピュリズムや今どきの右翼思想とは一線を画している。
ケネディがいたころの1950年代後半から60年代前半、この国の戦後復興が軌道に乗り始めた時代であるが、世界的にもあのころの人類は今よりも純情だった。人と人のときめき合う関係が他愛なく豊かに機能していた。ポピュラー文化が愛らしく花開いている時代だった。アメリカではプレスリーコニー・フランシスアメリカの青春を歌い、日本列島では三橋美智也美空ひばり島倉千代子らとともにいかにも日本的な「演歌」というジャンルが確立してゆく時代だった。映画でいえば、アメリカでは西部劇、日本列島では時代劇が全盛だった。つまり、人々が「魂の純潔」とともにお祭り気分で生きられる時代だった。
もちろんあのころに戻れるはずもないが、人が「魂の純潔」に対する遠い憧れなしに生きらられることもないのだ。

選挙の結果のことは、さしあたってどうでもよい。
僕はただ、立憲民主党の出現という現象について考えたかっただけだし、78人しか候補者を立てていない立憲民主党がどんなに大躍進しても政権争いができるわけではない。
枝野幸男立憲民主党は政治家として筋を通した」などとよくいわれるが、それだけの問題ではない。それもあるかもしれないが、それだけではない。それは、われわれが「民主主義とは何か?」ということを考えさせられる現象になっているのであり、彼らはそれを問うて立ち上がったのだ。
貴種流離譚」とか「判官びいき」などといっても、枝野幸男はべつに眉目秀麗な貴公子然とした風貌を持っているわけではないし、由緒正しい血統の世襲議員でもない。
見た目の彼は、なんだか小さな町工場のオヤジのようなただの「ゆるキャラ」にすぎないのだし、本人もそれを自覚している。よくいえば「昭和の匂い」を醸し出しているということだが、まあそれだけで、しかしそれでもなんだか時代のヒーローであるかのように見られたりしている。
ともあれ枝野幸男が「ゆるキャラ」であるのは見た目だけのことではなく、その演説が知的にも感性的にも「魂の純潔」を感じさせることにもある。
まあ枝野幸男が立ったということもさりながら、その演説の格調高さにみんなが驚き感動したということもあり、それは一見一聴の価値がある、と思った。
ゆるキャラ」とは「魂の純潔」であり、「魂の純潔」とはすなわち「みそぎ」なのだ。だから日本全国に広まったのであり、「魂の純潔」に対する遠い憧れは、日本列島の伝統にほかならない。そしてそれは人類普遍の伝統でもあり、現在の民主主義を成り立たせるためにどうしても必要なものでもある。
日本列島は世界で最初に資本主義すなわちバブル経済の崩壊を体験したからこそその克服に向かう先頭ランナーになっている、ともいわれている。
資本主義の崩壊を克服することは、民主主義の崩壊を克服することでもあるらしい。世界は今そういう崩壊の危機の時代を迎えているともいわれているわけだが、そんな状況において現在の日本列島への外国人観光客がこんなにも増え続けているのは、景観や文化の魅力をはじめとして町の清潔さや治安のよさなども含め、そこに資本主義=民主主義の未来を見ているからかもしれない。
世界がそういう不安の時代を迎えているから右翼が台頭する……ということかもしれないが、世界および国が右翼思想でひとつになるということは不可能なのだ、ということも露呈してきている時代でもある。かつての帝国主義の時代ならともかく、現在の民主主義の社会においては、右翼思想が台頭すれば必ず社会が分断される。今やこれは、例外のない法則なのだ。
自分たちは絶対的に正しいと思い込んでいる右翼たちにすれば、右翼思想を持てない連中なんかぜんぶ排除してしまえばいいということになるわけだが、右翼が台頭すればするほど右翼の醜さが露呈してきて、社会が分断され、右翼がマジョリティになることは永遠にないのだ。
今回の衆議院選挙は、右翼の醜さが露呈してきた選挙だ、と僕は思っている。現在の民主主義社会においては、右翼が台頭してくればけっきょくそういうところに行き着くわけで、そんな状況の反作用として枝野幸男立憲民主党がブームになっているのだろう。
右翼は、のさばればのさばるほど醜さを露呈してしまう。異質な他者を排除してのさばろうとする、そのことが醜い。彼らは、自分を忘れて他愛なくときめいてゆくということができない。そのことが醜いのだし、そんなことばかりしていて民主主義に未来はない。

世界は今、民主主義の未来のために、どうすれば人と人は他愛なくときめき合うことができるかと問うている。そしてそのことを問う人類の旅は今、「ジャパンクール」という日本列島の文化が先導している。
ゆるキャラ」は「魂の純潔」の象徴で、「かわいい」の文化は、世界中が共感できる文化でもある。
今どきの右翼に、日本列島の伝統である「魂の純潔」に対する遠い憧れはあるか……?ありはしない。これっぽちもない。今回の選挙で枝野幸男は、安倍晋三をはじめとする日本中の右翼に対して、まさにそのことを突き付けているのだ。
枝野幸男はこういった。
「こんなひどい政治の状況をつくってしまっていて、世界に対して恥ずかしくないですか、みなさん!」と。
彼はちゃんと世界の苦悩というか民主主義の苦悩を背負ってものを考えているのであり、安倍晋三をはじめとする右翼たちは、自分が枝野幸男よりも魅力的な存在たりえているといえる自信があるのか?まあ「ない」と答えれば少しはかわいげもあるのだが、何のためらいもなく「ある」と主張して恥じないところが、ますます醜いのだ。
日本人らしく、少しは「恥ずかしい」という心の動きを持てよ。何もかもわかっているつもりでいないで、「何だろう?」と問うこともしてみなさいよ。
世界中が今、民主主義とは何かと問い、苦悩し途方に暮れている時代なのだ。
なぜ答えが出ないかといえば、正義・正論では解決にならないからだ。その正義・正論それ自体が社会を分断させてしまっている。
正義・正論など忘れて他愛なくときめいてゆく「魂の純潔」がなければ、民主主義は成り立たない。
その主張がどんなに正しかろうと、右翼によって世界の平和や民主主義が実現するはずがない。あえていってしまうなら、右翼なんかただの戦争したがりで、他者を憎んで排除しようとすることばかりしているだけではないか。
彼らに比べたら、「AKB48」や「ベビーメタル」や「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」のほうが、ずっと世界の平和に貢献している。
世界はもう、闘争原理や競争原理ではどうにもならないところに来ている。
近代合理主義的な闘争原理や競争原理が人間の本性だという合意によってはもう国家という集団をいとなむことができなくなってきているし、じっさいそれは文明社会の避けがたい病理として生成しているだけのことで、人間性の自然・本質であるのではない。
人はその本質・自然においては、闘争も競争もしない、他愛なくときめき合い助け合うだけの存在なのだ。
世界中が今、どのようにすれば社会に「他愛ないときめき」を生成させることができるかと模索しているわけで、だから日本列島の「かわいい」の文化に関心が寄せられているのだろう。
どこの国だろうと、「かわいい」の文化を持たなければ、社会は活性化してこないのだ。
もちろんよりよき制度が必要なことはいうまでもないが、それだって人々の心というか意識の持ち方が整っていなければ変わりようがないし機能しようがないのだ。
もう誰とはいわないが、あんなブサイクな人間が大きな顔をしてのさばっているかぎり人類の民主主義に未来はないし、人の世があんなブサイクな人間ばかりになってしまうこともまたあるはずがないのだ。