右傾化なんかしていない・神道と天皇(102)

若者の右傾化……今回の選挙でも若者の4割は自民党に投票したといわれている。しかしだからといって、それでそのまま「若者は右傾化している」といってしまえるのだろうか。そんなことをいってもその数字は若者の6割は反自民に投票した、ということもあらわしているのだし。さらには若者の投票率が4割だったということは、6割が「政治なんか興味がない」と思っていたということだ。したがってその数字にはあまり意味がない。
まあ、右翼とか左翼というのは政治オタクの世界の話で、ほとんどの若者が政治そのものに興味がないのだ。そりゃあ、選挙戦がそれなりに興味を引くイベントであるとしても、それはJリーグでどこが優勝するかとか、あるいはAKBの選挙で誰が一位になるかということとさして変わりないことで、彼らは「時代」ということに興味があっても、政党のせいで世の中がよくなったり悪くなったりするということをあまり信じていない。
選挙に行った若者が4割でその中の4割だから、100人中の16人すなわち全体の1割6分にすぎない。投票率が8割でその中の4割だというのならともかく、投票率が4割の中のそのまた4割というのなら、たいした数字ではない。
若くなるほど投票率が低い。若者の6割は選挙に行かなかった。
多くの若者が「政治なんかややこしくて気味が悪い」と思っている。それは健康なことだし、若者が政治に関心を持たねばならない世の中はけっして健康だとはいえない。
「政治なんかややこしくて気味悪い」というのは、日本列島の伝統なのだ。
安倍晋三は権力ゲームの天才で、政治が権力ゲームで終始しているかぎり、投票率が上がることはない。日本人はとくに権力ゲームに対する拒否反応が強い。今回の選挙でも、無党派層の8割は自民党に投票しなかった。無党派層にかぎれば、立憲民主党に投票した人のほうが多かった。
無党派層は、無党派層であるがゆえに、いつもどこに投票するか迷っている、彼らは、べつに投票に行きたいわけでもないが、行かないと後ろめたいから行っているだけなのだ。おそらくこの国の無党派層は、選挙に行かなかった人も含めて、6〜7割はいるに違いない。
無党派層の半分を取り込んで選挙に行かせることができたら、基礎票が1割の小政党でもかんたんに自民党に勝ってしまうことができる、という計算になる。
ではそんな日本人をどのようにすれば政治に参加させることができるかといえば、政治を権力ゲームではなく人と人が助け合うためのシステムだと提示することができるか、ということにかかっているのだろう。
競争原理にしたがって「あなたの得になりますよ」といって支持を取り付けようとする政党に対して、「みんなで助け合う社会をつくりましょうよ」という訴えが多くの民衆の心を動かすこともある。今回の立憲民主党の躍進は、そういうことを証明した。
政治が人と人が助け合うためのシステムであるのなら、民衆だってよろこんで参加する。枝野幸男はたぶん、そういうことに気づいていて、そういう内容の演説をしていた。だから、座右の銘は何かと聞かれて、「和をもって貴しとなす」と答えた。

100年前にアメリカのことを指して、競争原理だけで成り立っている社会はいずれ破綻し病んでゆく、といったヨーロッパの経済学者がいるらしい。
権力ゲームに勝つということは、なにも政治の世界だけのことではない。金儲けだってひとつの権力ゲームだし、最近のネット社会では「ド正論」なる言葉が流行っていて、世のインテリたちが正義・正論を競っていることもまた権力ゲームという病理以外の何ものでもない。
この社会で生きることは、他人との競争に勝って生き残ってゆくことか。つまり、そういう権力ゲームをすることが人間性の自然であるのか。そうだと思い込んでいるものが、政治オタクになってゆく。
しかし、この社会で生きることは人と競争することではなく人と助け合うことだと考えるなら、人間性の自然は権力ゲームをして生き残ることだとは思えないし、権力ゲームの政治なんかどうしようもなく薄気味悪いものでしかない。
人と人が助け合うことは、たがいに「いつ死んでもかまわない」という覚悟をしつつ相手を生かそうとすることの上に成り立っている。人は、人間性の自然において、他者を生かそうとする衝動を持っている。
この生は「必ず死ぬ」という前提の上に成り立っている。それは、「いつ死んでもかまわない」という無意識が先験的にはたらいていることを意味する。「いつ死んでもかまわない」ということは、根源的には生き延びようとする衝動など持っていないということであり、「競争はしない」ということだ。
飯を食うことは、空腹の鬱陶しさに身もだえすることによって起きてくるのであって、生き延びようとするのではない。息をすることは、息苦しさにに身もだえする身体現象であり、生きることは「生きられなさに身もだえする」ことであって、「生き延びようとする」ことではない。命のはたらきは、生き延びようとしなくても息をしてしまうようにできている。だから、意識不明の植物状態になっても息をしている。われわれだって、寝ているときにもちゃんと息をしている。
人が人であるかぎり、誰の中にも「いつ死んでもかまない」という無意識の感慨が息づいている。それは、人は人間性の自然において助け合う存在である、ということだ。人間は、助け合わないと生きられないような弱い存在であり、だからこそ無際限に大きな集団をつくることができるようになってきた。人間の集団性の基礎はそういうところにあるわけで、権力ゲームを生み出す闘争原理や競争原理にあるのではない。闘争原理や競争原理にあるのなら、東日本大震災で人々が粛々と助け合っていったということなど起きていない。

人と人は、ときめき合い助け合う関係になりたくて、集団をつくってゆく。あるいは、避けがたくときめい合い助け合う関係になってしまうことによって、集団が生まれてくる。現代社会は、そういう人としての本能的な生態がスムーズに生成してゆくような構造になっていない。しかしわれわれは、東日本大震災のときにそういう集団性をよみがえらせた。それが日本列島の伝統だからだ。
まあ、助け合うよりも、現代のように競争を優先していった方が社会は繁栄する。繁栄するが、人間性の自然と矛盾しているから、さまざまな社会病理が生まれてくる。競争とは権力ゲームであり、権力社会の病理が民衆社会まで波及してきたのが、現在の民主主義社会であるのかもしれない。
今どきは「自由競争」だの「自己責任」だのといって競争原理が極まった社会だからこそ、助け合う関係に対する願いも切実になる。
現在の競争社会を謳歌しているというか競争社会から踊らされている右翼系のオピニオンリーダーたちは、今回の選挙で「おたがいさまで助け合う社会をつくろう」といってブームを起こした立憲民主党政権交代の期待を担うような大きな政党になる可能性など皆無だというが、はたしてそうだろうか。投票率が7~80パーセントということが起きれば、自民党の天下などあっという間に吹き飛んでしまうのだし、日本人であるかぎり「おたがいさまで助け合う」というフレーズは誰の心にも響く力を持っている。それは、たんなる感傷ではない。そこにこそ普遍的な人間性の自然があり、その関係に対する願いは名もない民衆ほど切実に抱えている。
つまり、そうした「サイレントマジョリティ」を目覚めさせたら、現在の右傾化現象も自民党政権もかんたんにこけてしまうのであり、右傾化しているように見えるだけでけっして実体ではない。
現在のこの国のサイレントマジョリティは、けっして右傾化しているわけではない。半数以上がむしろ、憎しみというルサンチマンの上に成り立っている右翼思想に対する拒否反応を持っている。
人と人が助け合うことは、ときめき合うことであり、人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有してゆこと、それは、たんなる感傷でも、むずかしい倫理道徳のことでもない。誰だって素敵なことやかわいいことに他愛なくときめいてゆく心の動きを持っている、というだけのことだ。

右翼の政治オタクというのは、どうしてあんなにも異質な他者を憎み倒し排除しようとするのだろう。この国の多くの民衆は、そのことにうんざりしている。はっきりいって、政治に関心が薄いことのほうがずっと健康的だし、そこにこそこの国の伝統がある。
「右傾化している」なんて、大嘘なのだ。右であれ左であれ、この国の政治オタクなんて1割か2割のことで、大多数の国民は「政治の世界はややこしくて気味悪い」と思っている。なのにマスコミはいまだに永田町の権力ゲームをおもしろおかしく報道することに終始して、現在の国民の意識の深層に分け入って問うてゆくということはしないまま、そこのところは評論家の勝手な思い込みによる発言をそのまま垂れ流している。
自民党議席数が3分の2になったからといいって、「右傾化している」という証拠にはならない。
まあ「保守化している」ということはいえるのかもしれない。それは、意識するにせよしないせよ、日本人はやっぱり日本人だという生態になってきているということであり、若者の「かわいい」の文化だってひとまずそういう現象なのだ。
しかしそのわりに日本列島の歴史とか伝統という問題がきちんと把握されていない、という情況もまた一方では存在している。
右翼であれば日本列島の歴史や伝統をちゃんとわかっているかといえば、まったくそういうことではなく、まるでわかっていない右翼がたくさんいるし、そうした右翼によってたくさんの誤った歴史観や伝統観がはびこることにもなっている。
とくに右翼の国家神道礼賛によって、もともとそんなものではなかったはずの神道の起源と本質が見失われている。
神道の歴史は、国家権力に組み込まれていった流れと、それとは別の民衆自身の集団性によってさかんになってきた流れとがある。
で、日本的な文化とか精神の根源的なかたちとは何かと問うたとき、今どきの右翼よりも「かわいい」の文化にときめいている若者たちのほうがずっとそれを身体化してそなえているし、「ジャパンクール」といってそれを称賛する外国人もまたその「根源的なかたち」を見ようとしている。
国家神道に執着する右翼だけが、まるでわかっていない。
日本列島の伝統は、政治オタクに観念的なヘリクツよりも、政治に無関心なものたちの他愛ないときのほうがずっとよく身体化してわかっている。そしてこれは、未来の民主主義の問題でもあるのだ。
現在の民主主義はもう、政治制度だけではどうにもならないところまで来ている。人々の意識が変わらなければというか、人間性の自然が競争原理や闘争原理にあると思っているかぎり、格差は広がるばかりでうまくいくはずがない。
今やもう世界の民主主義は、知識人や政治家の観念的な計画にたよるのではなく、民衆の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を掬い上げ共有してゆけなければどうにもならないのであり、もしかしたら日本列島はその先頭ランナーになっているのかもしれない。
話が飛躍しすぎるといわれそうだが、人類は原始時代から戦争ばかりしてきたとか、10〜5万年前のアフリカのホモ・サピエンスが世界中に拡散して先住民と入れ替わっていったという説だってつまるところ競争原理の上に成り立っているわけで、そういう「人間とは何か」ということが何もわかっていない愚にもつかない議論をしているかぎり、民主主義に未来はないのであり、そういう学者たち寄り他愛なくときめき合っている名もない民衆の方がずっと「人間とは何か」ということがよくわかっているし、その「他愛なくときめき合う」というところにしか民主主義の未来はないのだ。
時代の空気に踊らされているだけの頭の悪いインテリが多すぎる。
あなただって赤ん坊には他愛なくときめいてゆくし、向こうだって他愛なくときめいてきているではないか。それだけのことだし、それだけのことにこそ人間性の真実がある。