鬱陶しい・神道と天皇(103)

現在のこの国は、欧米諸国と違って、必ずしも右傾化しているとはいえない。そうなるような歴史の伝統にはなっていない。
なるほど明治維新から太平洋戦争の敗戦までの約百年は国ごと国家神道の右翼思想に染められてしまったが、戦後になってたちまちそれを捨ててしまったのは、もともとそういう伝統ではなかったからだ。
そして唯一残ったのが、「天皇を祀り上げる」ということだった。
天皇制と右翼思想は、また別のことなのだ。このことはこれまで何度も書いてきたが、どこまで書ききれたかは自信がない。
とにかく日本列島の民衆は、基本的には「政治」も「国家」も好きではない。できることなら、そんなことは忘れて生きていたいと思う。
今どきの論客は、左翼であれ右翼であれ、良いナショナリズムと悪いナショナリズムというようなことをいっているが、もともと日本列島の伝統にナショナリズムなどというものはない。だから、明治になるまで国歌も国旗もなかった。
今どきの右翼たちは、戦後の左翼的風潮を「日本人が日本人としてのアイデンティティを失っていた時代」などと評しているが、それでも日本人は日本人だったのであり、その証拠に天皇を祀り上げる心はけっして失わなわなかった。
ナショナリズム天皇を祀り上げることは同一ではないのであり、同一にしてしまったのが明治維新というか、大日本帝国憲法であり教育勅語だった。
現在でもこの国には、無党派層が5割以上いる。彼らは、政治にも国家にも関心がない。このような状況で、どうして「右傾化している」といえるのか。
小池百合子希望の党が失速したのも、失言がどうのということ以前に、国民の右翼に対する拒否反応に触れてしまったからだろう。国民のほとんどは、小池百合子日本会議とつながるゴリゴリの右翼思想の持主だということを知らなかった。都知事選以来ずっと自民党と対決してきたいきさつから、おそらく保守中道というようなイメージを抱いてはずで、彼女自身も「私はフェアウェイのど真ん中だ」といっていた。
右翼思想も、まあカルト宗教みたいなものだ。だから「保守」と言い換えて耳障りをよくしようとしたりするが、彼らほど世の中を変えようとしているものたちもいない。彼らは革命家なのだ。彼らは右翼思想に賛同するものでなければ許さない。世の中を右翼思想で塗りつぶそうとしている。ファシズムは彼らの本能のようなものだ。彼らは、日本人の心や文化が多様であいまいで混沌としたものだということを許さない。

嫌われ者は正義・正論で武装して自分を正当化しようとする。アイデンティティの不安を生きる彼らはもう、自分の正当性を確かめることでしか自分を支えるすべがない。ひととときめき合うことができるのならそんな目的を持つ必要もないのだが、できないのであれば、正義・正論を共有してゆくというか正義・正論を押し付けてゆくことでしか他者との関係(=集団)をつくれない。彼らには、誰もが自分のことなど忘れて他愛なくときめき合っている集団はつくれない。
現在の世界で右翼が増えているということは、他者にときめくこともときめかれることもできなくて、人と人の関係が分断されてしまっていることを意味する。ネトウヨの多くは、ふだんの生活場面で孤立してしまっているものが多い。彼らは、他者に承認されたがっているし、何より自分で自分を承認するためのよりどころを切実に欲しがっている。そうやって既成の正義・正論に取りついてそれを振りかざそうとするし、既成の優勢な勢力集団に潜り込もうとする。ネトウヨ自民党が好きだ。彼らは裸一貫の存在として立つことができないわけだが、裸一貫の存在でなければ他者とのときめき合う関係はつくれないし、すでに他者とのときめき合う関係の中にあるものは裸一貫の存在として立っている.
世間では「承認願望」は人間の本性だという意見もあるが、もともと人はすでに他者とときめき合い承認されている関係の上に存在しているのであり、わざわざ欲しがらねばならないのはひとつの病理にほかならない。
ネトウヨだけではない、この世の右翼ほど他者の承認を欲しがっているものたちもいないし、彼らほど他者から嫌われているものたちもいない。彼らはこの世の正義・正論の場に立つことによって自分を支えようとしているわけだが、その自分を支えようとすることが病理なのだ。
すでにときめき合っているものは、すでに支え合っている。根源的には、人は他者に承認されている存在であって、承認されたがっているのではない。
まあ、自分を支えようとする前に他者を支えようとしろよ、という話であり、他者を支えることによってしか自分を支えるすべはないのだ。つまり、自分なんか捨ててしまうというか忘れてしまうことによってしか自分を支えるすべはない、ということ。それがときめき合うことであり、そうやって人類の世界に「祭り」というイベントが生まれてきた。その原始的な「祭り」の盛り上がりこそが、人と人が助け合う関係の集団が生まれてくることの基礎になっている。
現代は、人と人のときめき合う関係が希薄になり、社会が分断されてしまっている。そのようにして世界の右傾化が進んでいるのだろうし、世界中が今、それを克服するすべを模索している。

日本人は新しもの好きで進取の気性が豊かな民族であるのは、たしかなことにちがいない。四方を海に囲まれた島国だからこそ、避けがたく新しいものや遠いものに憧れてしまう。もともと右翼的な国粋主義だけではすまない精神風土の伝統があるから、戦後にはその反動であっさりと左翼的な思潮になっていった。
現在だって、右傾化しているようで、じつはそれほどではない。ほとんどは右でも左でもない無党派層なのだ。進取の気性の民族なのだもの。
枝野幸男は、「右でも左でもない。そして上からの政治ではなく、下からの草の根の民主主義の社会をつくっていきましょう」と訴えた。
もしかしたら彼は、そのへんの凡庸な評論家が見るよりずっと深く確かに現在の状況を察知していたのかもしれない。つまり「人は根源において闘争・競争するのではなく助け合う存在だということを信じなければ、もはや民主主義の未来はない」という思いが切実にあって、民衆がそれに共感したのかもしれない、ということだ。
安倍政治によって世の中はどんどん闘争・競争原理に傾いてゆく。それによって得する人もいるが、とうぜん割を食う人もいて、世の中が活性化するというわけにはいかない、むしろ停滞し澱んでゆく。
おたがいさまで助け合うということが機能していなければ世の中は活性化しない。そのことが信じられなければ民主主義の未来はないし、人は根源・自然において信じることができる存在だ、と枝野幸男は信じていた。
安倍晋三が「自民党を支持すればこんなにも得することがありますよ」と説き、枝野幸男は「おたがいさまで助け合う社会にしてゆきましょうよ」と訴えた。それは、とてもシンプルであると同時に、とても高度な政治理念が隠されているのかもしれない。そして「ここからこの国の民主主義は新しいステージに踏み出した、と後からいわれるようにしましょう」といった。これはもう、青臭いともいえるひとつの志(こころざし)の宣言だろう。その「魂の純潔にに対する遠い憧れ」が民衆の心に響いた。
今回の選挙で枝野幸男は、少なくとも「無党派層」とか「選挙に行かない層」と呼ばれる人たちには必ずしも「あなたの得になりますよ」というメッセージが説得力になるともいえない、ということを証明してみせた。彼は、社会集団の健康な存在の仕方を問うてみせた。
早い話が枝野幸男の演説がかっこよかったとか感動したというだけのことで立憲民主党に投票したのかもしれないわけだが、それこそがじつは「自分の得になるから」とか「日本が安定・繁栄するから」という理由で投票することよりもずっと高度な政治的判断なのだ。
枝野幸男の演説だけは特別だった。自民党のようにあらかじめ組織的に人を集めたのではない。ほとんどは勝手に集まってきただけだったが、それでも自民党の街宣よりも聴衆が多かった。
損得勘定ではなく、ただ「みんなで助け合う社会をつくろう」といっただけで、それをただ感動したというだけで人が集まってきた。それはとても素敵なことだし、そこにこそ民主主義の未来があるのかもしれない。
民衆の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を揺さぶったということにおいて枝野幸男は、民衆がどんな政治演説に感動するかということに、ひとつのイノベーションを起こした。彼は、「民主主義の新しいステージに踏み出す」という志を持って演説をした。立憲民主党がこの先どうなってゆくかは知る由もないが、その演説に多くの人々が感動したという現象は、たしかに新しい何かを感じさせた。その「何か」をあえていうなら、「民主主義の新しい胎動」ということだろうか。

アメリカは、いつまでたっても人間を競争原理・闘争原理の上で考えることしかできない。そこに現在のアメリカの停滞と病理がある。
ほんとにアメリカは進歩・進化しない国なんだなあと思わせられる。なぜ、進歩・進化しないかといえば、歴史=伝統がないからだろう。歴史=伝統こそが文化を前進させるのであり、アメリカはそのための土台がないという不安を抱えたままいつまでたっても新しいステージに踏み出せない。
現在のアメリカはユダヤ資本に支配された社会らしく、ユダヤ文化もイスラム社会も、つまるところ競争原理や闘争原理の上に成り立っている。
そしてこれは現在の民主主義の問題でもあり、人間の本質・自然を競争原理・闘争原理で考えているかぎり、もはや民主主義に未来はない。世界は今、民主主義のパラダイムシフトを迫られている。
勧善懲悪は、ユダヤ的複雑巧緻な権力ゲームの免罪符になっている。しかし競争原理・闘争原理である権力ゲームを肯定しているかぎり、たとえば銃社会を失くすことはできない。それは「人は闘争原理・競争原理の権力ゲームのない社会を夢見ることができるか」という問題であり、アメリカのような権力ゲームが無際限に正当化されている社会で銃を失くすことなどできるはずがない。勧善懲悪には銃が必要なのだ。
銃を失くすことができない社会で、核兵器廃絶など叫んでも絵に描いた餅でしかない。
そしてこの国もまた、権力ゲームが大好きな「日本会議」というロビーイスト団体の暗躍がどんどん活発化してきている。そうやって世界は右傾化してきているからこそ、権力ゲームのない世界を夢見る心もいよいよ切実になってきているわけで、そういう状況から「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」や「AKB」が登場してきて世界中でもてはやされている。
現在の世界の新しい女のトレンドは、女っぽいのでも、男以上の競争原理・闘争原理=権力ゲームの能力を持っているのでもない。社会の制度に汚されている存在である男にはない、「魂の純潔」を持っている存在としてイメージされている。だから、その答えのひとつとしてこの国の「ロリータ=かわいい」系のキャラの文化が受けるのだし、世界の民主主義の文化はもう、そういう方向にパラダイムシフトし始めている。
小池百合子は「魂の純潔」を演じてブームをつくり、もともと「魂の純潔」とは無縁の腹黒い女であることに気づかれ失脚していった。
「魂の純潔に対する遠い憧れ」なしに民主主義の未来はない。
たとえ世の中が権力ゲームの駆け引きで動いているものであるとしても、せめて自分の生活圏はそういうゲームとは無縁でありたいという願いは、そりゃあ世界中の誰にだってある。たぶん枝野幸男は、民衆のその願いに訴えて風を起こしたわけで、彼がAKBのファンであることはけっして偶然ではない。

まあ右翼だろうと左翼だろうと、権力ゲームに夢中になっている政治オタクなんて、みなそのような人種なのだ。
五十年前の全共闘世代の大学は政治的な空気が色濃く漂っていたが、革命を信じている政治オタクの学生なんかほんの少しで、じつはノンポリを決め込む学生のほうが多かったし、多くの民衆は彼らの行動を支持していたわけではない。
フランス革命ロシア革命が起きた西洋と違ってこの国の民衆には、権力者と権力ゲームをするという歴史と伝統がない。
政治とは権力ゲームであり、そのことに対する拒否反応はこの国の民衆の伝統なのだ。
この国の民衆は、いつの選挙でも、候補者の政策を吟味して投票行動をしてきたわけではない。選挙なんか、ただの人気投票だ。誰もが時代の「空気」にうながされて投票しているだけであって、気の利いた政治意識などというものは持っていない。
そりゃあ選挙なんかただの人気投票だし、民衆なんかただの愚民だ。しかしその愚かさは、政治や宗教による正義・正論よりももっと美しく崇高なものに対する遠い憧れを持っている、ということでもある。
人は「魂の純潔」に対して避けがたくときめき感動してしまう。それは、宗教や政治の正義・正論よりももっと美しく崇高なのだ。
この世でもっとも美しい「魂の純潔」を備えているのは生まれたばかりの赤ん坊だ。
人は、成長するにしたがってだんだん汚れてゆく。われはもう、死ぬまで「魂の純潔」を失ったまま生きるしかないし、死ぬまで「魂の純潔」に対する「遠いあこがれ」を抱いたまま生きてゆかねばならない。
「遠いあこがれ」すなわち「夢見る」ことは、存在そのものの喪失感から湧いてくる。そしてそれは、人が人であることの最後のよりどころでもある。
人は実現可能なことを計画する。と同時に、かなわないことを夢見る存在でもある。あなたがキリストになることもイチローになることもかなうはずはないが、夢見ることはできる。人は、鳥のように空を飛べたら、とあこがれ夢見る。
原初の人類は、木々の向こうの青い空に対する「遠いあこがれ」とともに二本の足で立ち上がった。
人は、戦争のない世界を夢見る資格と権利がある。
人は、人と人が助け合う世界を夢見る資格と権利がある。