醜悪な思想・神道と天皇(104)

今回の選挙の結果はひとまず民意が示されたのだというが、投票率50パーセントで何が民意か。投票に行かなかった50パーセントの人の心は民意ではないとでもいうのか。その人たちをむりやり投票に行かせたら、まるで違う結果になるかもしれない。無党派層が投票した党は、立憲民主党が3割で、自民党が2割だった。まあ、台風がやってきたし、野党はごたごたしてしまったし、いろんな偶然が重なってたまたまそうなってしまっただけだろう。避けがたい歴史のいたずらだった、ということはいえても、そうそう安直「民意だ」などといってもらったら困る。希望の党立憲民主党を足した比例得票数は、自民党よりも多かった。それだって民意だろう。
いったい「民意」とは何かという問題は、単純な議席数だけではすまない側面がたくさんある。
自民党過半数を取ったといっても、日本人の過半数自民党支持者だということを意味するわけではない。この国では、右翼でも左翼でもない無党派層がいちばん多いのであり、それを「サイレントマジョリティ」という。
政治オタクの右翼なんか、ほんとにうっとうしい。彼らは、人をさげすんだり憎み倒したりすることばかりしている。そうしてこの国を右翼ばかりの社会にしてしまいたがっている。それは、傲慢であると同時に右翼以外のものたちを怖がっている心理でもあり、ある種の不安神経症(強迫観念)なのだ。嫉妬、と言い換えてもよい。なぜなら右翼ではないということは、嫌われ者ではない、ということでもあるからだ。
彼らは他者を洗脳しようとする。まあそうやってみずからの正当性を確認したいのだろうが、なぜ「あなたのことが知りたい」と問いかけることができないのか。
右翼というカルト宗教、まったく気味悪い。
宗教とは、洗脳する装置なのだ。

全共闘運動の学生たちはマルクス主義という宗教を信奉していたし、現在の右翼たちは国家神道という宗教を信じている。
そしてこの社会では、「宗教の自由」などといいながら、宗教が何か人間性の自然・本質に沿ったものだと合意されている。
どうしてこんなにも宗教に甘いのだろう。
まあ、文明社会そのものがすでに宗教的な構造を持ってしまっているからだろうか。
宗教を否定したら現在の世界は成り立たない、ともいえる。
文明人は、誰もが多かれ少なかれ宗教的な観念を抱えてしまっている。
しかしやはり、宗教はひとつの不自然であり、病理なのだ。
信心しているからといってえらそうな顔をされても困るし、世の右翼の多くも同じような人種なのだろう。自分が優秀な人間であるつもりの右翼や宗教者はけっこう多い。
信仰はひとつの病理だし、宗教者であろうとあるまいと、文明人なら誰だってそうした自意識過剰の病理的な傾向を抱えてしまっている。
日本列島の仏教の歴史は、仏教を解体してゆく歴史だった。仏教を解体するとは、自意識を解体するということだ。そのようにして、仏教伝来から500年後の中世には、禅や浄土真宗が生まれてきた。
また神道は、アンチ宗教として仏教伝来のあとに生まれてきた。そのとき人々は、仏教が提示する「神の裁き」を信じなかった。日本人は、宗教者に「神の裁き」を示されても、じつは心の底で「なんのこっちゃ」と思っている。どんなに宗教者を偉いと崇めても、いざとなったら「神の裁き」など無視するのが日本人なのだ。
たとえば罪を犯して警察に追われている息子から「かくまってくれ」とすがりつかれた母親は、進んで受け入れることも多い。日本列島では、正義よりも情が優先される。
正義・正論を吐く宗教者や知識人や政治家は、おおいに尊敬されつつも、じつはもろ手を挙げて愛されているというわけではない。日本人は、いざとなったら「神の裁き」も「正義・正論」も無視し、情を優先する。そうやって終身雇用制が守られてきたし、そうやってたとえ不合理だとわかっていても憲法第九条を守ってきた。それは、たとえ憲法違反とわかっていても自衛隊の軍備拡張が許されてきたということでもあるし、この国の精神風土はまあ、それでいいことになっている。
あえていってしまうなら、われわれ日本人にとって「憲法」という「神の裁き」など、いざとなったら無視してしまう対象でしかない。何しろ、仏教の戒律をことごとく骨抜きにしてしまった民族なのだ。
憲法第九条はそれなりに美しく捨てがたい文言だし、自衛隊の軍備が世界最先端のレベルを目指しているのなら、それもまためでたいことだ。そして、それでもわれわれは、戦争のない世界を夢見ている。
この国には「神の裁き」が機能していない。敬虔な信仰者など、ほとんどいない。いざとなったら「神の裁き」よりも「情」を優先する。しかしそれは、愚かだからではない。神や国家による「裁き=法」など当てにしなくても、民衆自身による集団をいとなむ作法を洗練・発達したかたちで持っている、ということだ。
無知なじいさんばあさんは弘法大師親鸞をしんそこ偉いと崇めているが、そのじつ弘法大師親鸞の教えの通りに生きているわけではない。宗教に矛盾した村の習俗はいくらでもある。たとえば「黄泉の国」という概念など、もっとも非宗教的な言い習わしのひとつだろう。日本列島の住民は、宗教(=神の裁き)以前の生きる作法を、すでに縄文時代以来の歴史の伝統として高度に洗練・発達したかたちで持ってしまっている。
無知な村びとの習俗が、すでに宗教を超えてしまっているのだ。
四国のお遍路は、無知な民衆が高度で切実な実存感覚としての「旅のかたち」を追求することによって生まれてきた習俗であって、真言宗の教えに従っているのではない。人が生きているということの問題は、たかだか宗教や政治だけで解決するわけではない。
四国をお遍路することは弘法大師と二人で旅することだ、という言い習わしなど、真言宗の教えにあるわけではないだろう。これは、死者は極楽浄土に行く、という仏教の教えを無視している。弘法大師のような聖人でも極楽浄土にはいかない。死者の霊は今なお幽霊のように空中に漂っており、人は死者とともに生きている、という思考というか実存感覚なのだ。

日本列島では、宗教意識が希薄だからどんな宗教も他愛なく受け入れてしまう。そうやってオウム真理教をはじめとしてさまざまなカルト宗教に洗脳されてゆく。
また、かんたんに洗脳されてしまうからこそ、宗教を宗教以外のものにしてしまう。
戦国時代から江戸時代にかけてキリスト教が広がっていったのは、それだけ既成の宗教が宗教のかたちをなしていなかったからかもしれない。
日本人の宗教に対する他愛なさといい加減さは、いったいなんなのだろう。
江戸時代のキリシタン弾圧といっても、神道や仏教と対立したというより、幕府が、あっけなく洗脳されてゆく民衆のあまりの他愛なさや、たとえば宣教師から中国や東南アジアへの「からゆきさん」という人身売買やスパイ行動などやりたい放題にやられてしまっていることに対する苛立ちや危機感を持ったからだろうし、それによって鎖国政策が本格化していった。ようするに、ヨーロッパ人の侵略姿勢があまりに差別的でえげつなく、日本人が宗教的にも文化的にもあまりに他愛なかったからだろう。
キリスト教の宣教師は、あんがい傍若無人なところがある。信仰心がいいかげんだからではない。信仰しきっているから尊大になる。仏教の僧侶だって同じで、聖職者になると、自分では意識しないまま人や世の中を見下す癖がついてしまう。
坊主の説教なんか、たいていの場合、ろくなもんじゃない。
信仰というのは、ほんとにたちが悪い。信仰などいいかげんな方がいいし、いいかげんなのが日本人だ。

日本列島の歴史においては、宗教戦争といえるようなものはない。それだけ宗教そのものが本格的ではないからだろう。平安時代以降の「僧兵」はそれぞれの寺院がそれぞれの地域の政治権力集団として活動していただけのことで、戦う相手は公的な支配権力であって、他の宗教集団というわけではなかった。
江戸時代のキリシタンが決起した島原の乱にしても、幕府と戦ったのであって、仏教や神道と戦ったわけではない。
17世紀のヨーロッパではカソリックプロテスタントかということで「30年戦争」という深刻な事態が起こった。
一方古代の日本列島では、新しい宗教である仏教をすんなり受け入れていった。そうしてそれを契機にして神道が生まれてきたわけだが、両者か共存できたのは、神道がもともと本格的な宗教のかたちをなしていなかったからだろう。
宗教ではないのだもの、古代の神道は、仏教のライバルではなかった。まあ、今でもそうだともいえる。
平安時代の文書には仏教を輸入する際に神道と仏教が呪術の能力を争ったという記述があるらしいが、それは大和朝廷内部の、仏教が必要だという蘇我氏とそんなものはいらないという物部氏のたんなる権力闘争であって、宗教戦争ではなかった。そのときはまだ神道などなかったのであり、仏教伝来以前にアマテラスの信仰などなかった。もしあったら、天皇もアマテラス信仰も、物部氏とともに滅ぼされている。
神道と仏教が争ったのではなく、蘇我氏物部氏が権力争いをしただけだ。日本列島の歴史に神道と仏教の争いなどない。「神仏習合」なんて、こんないいかげんな宗教姿勢もない。
日本人が他の宗教に寛容なのは、基本的に信仰心が薄いからであって、べつに上等な信仰を持っているからではない。
明治維新廃仏毀釈にしても、それによって仏教徒の氾濫なんか何も起きなかった。そのとき民衆のほとんどは、仏教でなければならないとも神道でなければならないとも思っていなかった。そうして権力の庇護からこぼれ落ちた多くの小さな神社が消えていった。だから、日本人の心のふるさととしてのそういうさびれてゆく神社を守ろうという運動が起こったくらいだ。
明治政府は、天皇神道を支配の道具として利用しながら、神道天皇ほんらいのかたちをひどく変質させてしまった。
今どきの右翼は、明治維新から戦前までは神道天皇が正常に機能していたと考えているらしいが、そんなのは大嘘であり、彼らは神道天皇の歴史的な本質を何もわかっていないし、彼らほど神道天皇を冒涜しているものたちもいないのだ。いやまあそれはこの国の支配権力の伝統であり、神道天皇に対する認識は、起源以来つねに支配権力と民衆のあいだではまったく異質だったし、民主主義の今どきは、ただの民衆でも権力者のような意識で神道天皇を認識している。
神道はや天皇は、国家や個人を生き延びさせるための装置であるのではない。国家においてであれ個人においてであれ、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」を深く豊かに生ききるための装置であり、その結果として国家や個人が生き延びるかどうかということはもう日本人のあずかり知らないことだ。

国家神道がなぜ神道として本質的ではないかといえば、もともと神道は国家を運営するために生まれてきたものではないからだ。
古代の大和朝廷は、国家を運営するために仏教を輸入した。
そして民衆は、仏教の死生観や世界観とは異質な民衆自身の死生観や世界観に沿って神道を生み出していった。
国家が、民衆を働かせて効率よく税を徴収してゆくためには、民衆に生き延びようとする欲望を持たせる必要があった。そのための戒律と救済を示しているのが仏教だったわけだが、民衆は、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」の他愛なくときめき合い許し合う関係のカタルシスを生きていた。そういう「お祭り気分」をどうしても手放せないまま、気がついたら仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道を生み出していた。
そのとき民衆は、国家の運営には興味がなかった。なぜなら異民族に侵略されたことのない土地柄で、国家という単位を意識するはずがない。彼らには国家にたよるべき理由がなかった。とりあえず仏教は受け入れたが、仏教だけではすまなかった。
そしてそれは国家を意識しないものであるがゆえに、国家の庇護が必要なものになっていった。なぜなら、庇護がなければ、弾圧されるからだ。原初的な神道国家神道へと変質してゆくのは避けがたいなりゆきではあったが、それは神道としての本質を失ってゆくことでもあった。国家を運営するための神道だなんて、自己矛盾以外の何ものでもない。
起源としての神道は、国家を運営するためのものでも、生き延びるためのものでもなかった。
宗教など知らないものにだって世界観や死生観はある。仏教伝来のときの民衆はすでに仏教とは異質な世界観や死生観を持っていたし、それは、仏教によって吸収されるようなかたちのものではなかった。そうしてそのあとの「神仏習合」の社会状況によって神道も仏教もそれぞれ変質していったわけだが、両者が合体してひとつになるということはついになかった。このあたりが日本的なところで、そのとき仏教は多くの戒律がどんどん骨抜きになってゆきながら宗教としての本質から逸脱していったし、神道は呪術的な要素を加えながらなんだか宗教であるかのようなかたちになっていった。いずれにせよ、どちらもすでに宗教の本質から逸脱していたから共存してくることができたのだろう。
対立しない宗教なんか宗教ではないのだし、対立する左翼を叩いていい気になっている右翼なんかまさに宗教であり、けっして魅力的でも日本人的でもないわけで、「なんだかなあ」というしらけた感想しか浮かんでこない。

右翼思想なんか、しょせんは宗教でしかない。
政教分離といっても、実質的に宗教から分離された政治など、この世のどこにもない。
政治家にしろ評論家にしろ、彼らが語る政治理念はたんなる宗教としての信仰であったりする。文明人はもう、知らず知らず宗教的な思考の罠にはまってしまっている。
政治は宗教から切り離されて存在することができるか?
マルクス主義はただの宗教だというのはよくいわれることだが、民主主義とか平和主義とか、この世のすべての「主義=イズム」は宗教であるともいえる。
現代社会におけるお金は神だともいえる。まあ、ホリエモンはそういっている。
「神に代わってお仕置きよ」というのはどこかで聞いたことのあるセリフだが、アメリカはそういう心理でイラク北朝鮮に戦争を仕掛けるのだし、これはもう文明発祥以来の普遍的な心理だともいえる。
宗教は、文明社会が避けがたく背負ってしまっている現在なのだ。文明人にとって宗教はひとつの「けがれ」であり、だからこそそうした状態に対する「みそぎ」の願いも切実になる。
文明人は、宗教に対する親密さと拒否反応のあいだを揺れ動きながら生きている。
リチャード・ドーキンスのように「宗教は妄想である」と言い切ってしまえる人間はそう多くないが、それはたしかに真実であり、真実だと思いたくない人間も少なからずいる。たしかに真実だが、その宗教という妄想から完全に解き放たれて存在することができている人間などひとりもいない。
ただいえることは、「魂の純潔」は宗教のもとにあるのではなく、宗教すなわちいっさいの「主義=イズム」から解き放たれたところにあるということだ。われわれが完全に宗教から解き放たれてあることができないように「魂の純潔」を持つこともまた永遠にかなわないことであるのだが、それでも人は「魂の純潔に対する遠い憧れ」を失うこともまたけっしてない。まあ日本列島においては、そうやって「みそぎ」という習俗が生まれ、神道が生まれてきたのだ。
日本列島の精神風土においては、大陸諸国に比べると「魂の純潔に対する遠い憧れ」が切実で、つねに「みそぎ」を意識しながら歴史を歩んできた。
ネトウヨはもちろんのこと、今どきの右翼というのは、自分が「日本人である」ということのアイデンティティに病的なくらい執着している。それは「自分の正しさや清らかさは生まれながらにそなわっている」ということであり、つまり、「みそぎ」をしなくてもいいと居直っているのだ。「みそぎ」をしながら生きるという作法を失った(あるいは、捨てた)嫌われ者が、右翼という信仰にすがりついてゆく。
嫌われ者ほど、みずからの正当性=アイデンティティを欲しがる。そうやって人の心は病んでゆく。なぜ、自分のことなど忘れて他愛なく世界や他者にときめいてゆくということができないのか。それができなければ民主主義の未来はないし、もともと人はそのように他愛ない生きものなのだ。
右翼とはヘイトスピーチの温床であり、お偉い知識人であれただのネトウヨであれ、さかしらに正義・正論ぶっている今どきの右翼なんか、ほんとに愚劣で鬱陶しい。