愛らしい民主主義・神道と天皇(101)

たしかに現在のこの国では嫌中・嫌韓の気分は広がっているが、全体の政治意識が右傾化しているともいえない。
もともと日本列島の民衆に主体的な政治意識などないも同然であり、何かのはずみでかんたんに変わってしまったりする。敗戦の次の日からあっけなくアメリカ民主主義になびいていったし、なびいていったが骨の髄までそれに浸されたわけではない。日本人に身体化した政治意識などないのだ。
まあ今どきは、政治オタクはおおむねそうだが、とくに右翼はネトウヨをはじめとして声高で党派的排他的な傾向が強いから目立っているだけのことで、ほとんどの若者は選挙に行かないのだし、「政治なんか興味がない」というのが本音だろう。
「日本人の政治意識は外国のようにもっと成熟しなければならない」というが、「政治の世界は複雑で気味悪い」と思うことはそんなに不健康なことだろうか。「知らない」から「興味ない」ですんでいるが、知ったら「嫌悪感」が強くなるだけかもしれない。ロシアや中国のようなシビアな政治ばかりしている国では、そういう政治の現実にさらされてうんざりしている若者がたくさんいるのではないだろうか。
この国でも、安倍政権になってから、政治意識が高くなる若者とうんざりしている若者と二極化してきた。
知れば関心が高くなるというものではない。現在の知的レベルの高い若者がみな政治に関心が高いというわけではない。知的レベルが高いからこそ「政治の世界なんか複雑で気味悪い」と思ってしまう。この国は歴史的にそういう精神風土なのだ。

新古今集藤原定家は、「紅旗征戎(=政治のこと…注)わがことにあらず」といった。このセリフを、一般的には、藤原一門の貴族でありながら政治の世界では出世の見込みがなかったから痩せ我慢でそういったのだと解釈されているが、ともあれ日本列島は今も昔もそういう言い方が通用する社会であり、政治なんかに興味がないのが日本列島の伝統であり、だから芸能文化を豊かにはぐくんでくることができた。
また、だから権力者は勝手なことばかりしてきたが、同時に武士という役人階級はみずから襟を正すたしなみを持つという伝統も江戸時代まではあった。それは、武士自身にも「政治というのは複雑で気味悪いものだ」という意識があったからだ。明治以降の近代化とともに役人の意識がいささか様変わりしてきたとしても、日本列島の歴史全体を通しての日本人の精神風土においては、「政治というのは複雑で気味悪いものだ」という合意が通奏低音として流れている。
だから枝野幸男は「永田町の権力ゲームとは一線を画した政党でありたい」といったし、それが無党派層といわれる人たちの心に響いた。今や無党派層も政治に興味を持たないと民主主義は成り立たなくなっているのだろうし、権力ゲームなんて複雑で気味悪いという合意を取り戻さなければ政治家や役人の純情(=たしなみ)は取り戻せない。
大切なことは「権力ゲームに勝つ」ことではなく「政治家の純情を取り戻す」ことだ……これが安倍晋三枝野幸男との違いであり、支持率が低下している安倍晋三としては枝野幸男の人気に対する嫉妬はきっとあるに違いない。だから、選挙開票の席でも、あまり笑わなかった。俺にだって政治家の純情はあるといいたいだろうし、同時にその勝利が民意というよりも権力ゲームの結果であるということは、彼自身がいちばんよくわかっていた。
嫌われ者ほど「自分は好かれている」といいたがるし、そのことを疑ってもいる。

今どきは、政治家だけでなくインテリやマスコミだって「政治とは権力ゲームであり、権力ゲームに勝つことが正義だ」と思っているらしい。彼らはもう、生きることそれ自体が「世渡り」という権力ゲームだと思っている。
「世界の平和」とか「民主主義」というような問題が、はたして権力ゲームの技術だけで実現するのか。人間は戦争をする生きものだと思っていて、戦争のない世界がやってくるはずないし、戦争のない世界を夢見ることなんかなんの意味もない。
人間は本性的には戦争をしない生きものだということが証明され信じられて、はじめて戦争のない世界を夢見ることができる。戦争をすることが本性=自然であるのなら、どんどん戦争をすればいい。
政治は尊く価値ある仕事だとか、政治という権力ゲームについて語ることが知性や教養の証しだと信じられるのなら、戦争を否定する根拠はすでに失われている。なぜなら、戦争のときこそ権力ゲームは盛り上がるのだし、権力ゲームそれ自体が戦争以外の何ものでもない。彼らはつねに「権力ゲームとは何か?」と問うているだけで、「人間とは何か?」という問いなどない。彼らは「人間とは権力ゲームである」と信じて疑わないし、それをよりどころにして人間の本性がわかっているつもりでいる。わかっているつもりでいるから、「人間の本性とは何か?」という問いがない。というわけで、わかっているつもりの人間ほど何もわかっていない、という現在の状況が生まれている。
嫌われ者は、生きることも人にときめかれる(承認される)こともゲーム=駆け引きだと思っている。人が人を好きになったり好かれたりすることの不思議に対する感動なんか何もない。感動がないから問わないのだ。そうして、すべてはゲームだと居直っている。居直って、自分の知性や感性やときめく心の不足に見て見ぬふりしている。
それが嫌われ者の生きる道で、彼らにはこの世界の不思議=輝きに対する驚きやときめきという感動なんか何もない。
しかしまあ文明社会は、本質的に、下品な嫌われ者のほうが生きるのに有利な構造になっているわけで、有利に生きたければ「魂の純潔」なんかさっさと売り払ってしまったほうがよいし、売り払ってしまった人間がたくさんいる世の中だ。
人の心が病んでしまっているから、人間とは何かということを見失っているから、世の中がおかしくなってきている。民主主義の未来が見えなくなってきている。
人の心が病み、人間とは何かということを見失って民主主義の未来はない。しかしそれは、世の中がおかしくなっているのは歴史の必然でも人間の本性に沿ったなりゆきでもない、ということでもある。

世のインテリたちは「愚民政治=ポピュリズム」などといってすぐに民衆をさげすむことをしたがるが、政治を作為的な権力ゲームのレベルでしかとらえられないインテリたちこそ、人間とは何かということが何もわかっていないのであり、むしろ「政治の世界は複雑で気味悪い」といいつつ戦争をはじめとする権力ゲームのない世界を夢見ることができる「愚民」であることこそ大切なのだ。愚民のほうが、ずっと深く確かに人間の本性・自然を理解している。
「魂の純潔」に対する遠い憧れなしに、民主主義の未来はない。
インテリという賢者の作為的な構想によって世界が救われるのではない。
作為的な構想を忘れて歴史のなりゆきに身をまかせたときに、はじめて人間とは何かということが見えてくる。「愚民」は、ちゃんとその真実を見ている。
人は、他愛なく世界の輝きに驚きときめいてゆくときにこそ、この生の真実を掬い上げている。そこにおいて、はじめて戦争のない世界を夢見ることができる。
文明社会の中にいて、人としての自然のままに生きることはとてもむずかしく、文明社会は人としての自然を奪ってしまう。文明に踊らされて(毒されて)いるだけのインテリの思考では、「人間とは何か」ということの真実は見えない。そういう連中が賢者を気取って、政治ゲームのあれこれを得意になって語っている。
原初の人類は戦争のできない猿として二本の足で立ち上がり、原始時代という戦争のない歴史を歩んできた。
人類の戦争は、文明社会から生まれてきた。つまり、人の心が文明に毒されているかぎり戦争はなくならない、ということだ。文明社会に毒された思考しかできない彼らは、戦争をするのが人間の本性だという。彼らには戦争のない世界を夢見る能力も資格もない。
まあここでいう「魂の純潔」とは、文明社会に毒されていない心のことだともいえる。
世界を救うのは、インテリの知識や教養ではない。無知な庶民の心の中に宿る「魂の純潔に対する遠い憧れ」こそが民主主義の希望になる。まあそれなしに人類の未来はないということことくらい、じつはあたりまえすぎるくらいあたりまえのことであり、それが見えにくくなっている時代だからこそ、切実に気づかされる時代でもある。文明が発達しすぎた現在の世界はもう、そのことに気づかなければ民主主義が成り立たなくなってきている。
だから、「かわいい」の文化が、「ジャパン・クール」として世界中でもてはやされている。
「ジャパン・クール」とは、「魂の純潔」の表現である。
もしも人類に、「魂の純潔に対する遠い憧れ」としての「戦争のない世界を夢見る」権利と資格があるのなら、憲法第九条に「自衛隊」という文言を記してもらっては困るのだ。
戦争をしてもかまわないが、そういうことは法律の範囲で処理していただきたい。なぜならもしも永遠の未来に戦争のない世界がやってくるとしたら、そのときには軍隊は必要ないのだから。
枝野幸男は、選挙後のテレビのインタビューで、座右の銘は?と聞かれて「和を以て貴しとなす」と答えた。
今回の選挙は、枝野幸男をはじめとする日本人の一部が、「政治=民主主義とは『魂の純潔』に対する遠い憧れを組織することである」と無意識のところで気づく体験だったのかもしれない。
まあ、相変わらずマスコミは「政治とは権力ゲームである」というパラダイムではやし立てているわけだが。