われわれは政治オタクなんかじゃない・神道と天皇(105)

現在のこの国が右傾化しているとか、ことに若者はそうだとかとよくいわれているが、そんなことはありえない。
この国のマジョリティはいつだって右でも左でもなく、無党派層という、いわば政治そのものに興味がない人たちであり、だからいつだって権力者の勝手な振る舞いを許してしまってきた。
この国の民衆は政治意識が低く、権力に対するチェック機能がちゃんとはたらいていないから、権力者が堕落するとどんどんだめな社会になってゆくし、権力者がむやみに堕落しない社会構造も持っている。
何はともあれ、いささかなりとも「魂の純潔に対する遠い憧れ」が息づいている精神風土の歴史を歩んできた。
近ごろは若者が右傾化して自民党支持だといっても、そんな状況は何かのはずみでかんたんに逆転しまう。それがこの国の伝統であり、いつの世も、政治オタクなんか、若者だろうと大人たちであろうと、ほんの一部にすぎない。
若者の投票率が40数パーセントで、そのうちの半分は、内部留保という言葉の意味も憲法第九条に何が書いてあるかということも知らない。
もしもこの国の右でも左でもない無党派層をまるごと取り込める政党ができたら、自民党=右翼の天下なんかあっという間にしぼんでしまう。無党派層は、共産党だって許すし、なりゆきで自民党右翼になびいてしまうこともある。
無常感ということだろうか、ネトウヨの心の中にだって、明日はどうなるがわからないという日本的無党派層的な無意識は息づいている。

右翼とは「私は日本人である」というアイデンティティが欲しくてたまらない人たちであり、ところが日本列島の伝統としての無常感においては、そうしたアイデンティティなど持たない無根拠の「あはれ・はかなし」の感慨とともにある。つまり、日本人は日本人であることの根拠=アイデンティティなど持っていないのであり、持っていないところで生きようとするのが日本人なのだ。
右翼ほど日本人の伝統から遠い日本人もいない。
日本人は、日本人としての誇りなんか持っていない。自分=この生に正当性の根拠(アイデンティティ)など求めえないところから「あはれ・はかなし」の感慨が浮かんでくる。この宇宙にたったひとりで置き去りにされた存在として立ち、その途方に暮れた感慨とともに世界や他者に他愛なくときめいてゆきながら生きはじめるのが日本人なのであり、そういう感慨は誰の中にもあるではないか。あるからこそその感慨を生きようとする人もいれば、あるからこそそれに耐えられなくて「私は日本人である」というアイデンティティに必死に執着してゆきもする。
日本人は世界でもっとも認知症になる率が高い、という統計があるのだとか。
そうだろうな、と思う。「あはれ・はかなし」を生きる民族であるがゆえに、それに耐えられなくて心を病んでしまう確率も高くなる。まあ現在は、耐えられなくさせてしまう社会構造になってしまっている。耐えられなくてもその「無常」を受け入れ耐えるしかない民族なのに、現在は耐えられない人間をむやみに製造してしまう社会構造になっている。そうやって安倍晋三小池百合子のようなゴリゴリの醜悪な右翼がのさばる社会構造になっている。
もしも現在の右翼の政治オタクと無党派層とどちらが認知症になる確率が高いかという統計を取れば、きっと前者の方が圧倒的に多いに違いない。
ネトウヨとひと口にいってもワーキングプアの若者から百田尚樹のような中高年の有名人まで年齢層はさまざまだろうが、レイシストである彼らはみな認知症予備軍なのだ。彼らのいうことが正しいかどうかということなどどうでもいい。とにかくみな一様にこの国の伝統であるはずの「あはれ・はかなし」の無常感を身体化していないから、その「姿・たたずまい」が卑しく下品なのだ。
正義・正論を手に入れたからといって、認知症にならなくて済むわけでも、その「姿・たたずまい」が美しくなるわけでもない。
まあ三島由紀夫だってそうだが、右翼の政治オタクなんて、自分が日本人であることに執着しているがゆえに日本人てあることに失敗している人たちなのだ。彼らは、無常ということが何もわかっていない。わかりたいのなら、自分=この生に正当性の根拠など求めるな。自分が日本人であることは背負うほかない運命ではあるが、自分=この生の正当な根拠になっているのではない。自分=この生の正当な根拠など持たないまま生きるのが、日本人なのだ。こういうのを世間ではニヒリズムというらしいが、そうではない。それはたんなる「他愛なさ」であり、気取っていえば「魂の純潔に対する遠い憧れ」にほかならない。

文明人は、人間という存在が競争原理や闘争原理の上に成り立っていると信じ込まされているために、自分の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を見失ったまま生きている。まあ、それによっては競争原理や闘争原理の上に成り立った文明社会の構造は語れないわけだが、彼らは、文明社会の構造を解き明かせばそのまま「人間とは何か」という問題も解き明かせると思い込んでいる。
はたして人間とはそんな存在だろうか。
「人間とは何か」という問題が競争原理や闘争原理で解き明かせると思っているから、世の人類学者も、「人類は原始時代から戦争ばかりして歴史を歩んできた」とか、「人類の知能は生き延びようとする衝動=欲望とともに進化発展してきた」というような愚にもつかないことをいいだす。それは、文明社会の歴史であって、人類700万年の歴史ではない。そうして、たとえ文明社会の中にあっても人は、競争原理や闘争原理では説明がつかない心の動きというか文化生態を持っている。
つまり「魂の純潔に対する遠い憧れ」という問題を抜きにしては普遍的な人間性は説明がつかないのだ。
人間が戦争や人殺しをすることにだって、無意識のレベルにおいては「魂の純潔に対する遠い憧れ」ははたらいている。
生きることに価値を置いて執着することよりも「生きることなんかどうでもいい」と思うことのほうが魂の純潔であったりする。戦争や人殺しであれ、自分の命をなげうって他者の命を救うことであれ、どちらも「生きることなんかどうでもいい」という無意識の上に成り立っているわけで、それが生きものとしての普遍的な命の取り扱い方なのだ。
生きものの命は、「生きることなんかどうでもいい」というかたちではじめてはたらき出すようにできている。生きることは命のエネルギーを消費するいとなみであり、死に向かういとなみなのだ。生きようとしていたら、命のエネルギーを消費することなんかできなくなってしまう。
「えいやっ!」と力を入れて重いものを持ち上げるとき、必要以上のエネルギーを消費してしまおうとする衝動がはたらいているわけで、それもまた「もう死んでもいい」という勢いの、ひとつの「魂の純潔に対する遠い憧れ」にほかならない。まあそうやって人類は、進化の限界を次々に乗り越えてきた。
いや、どんな生きものにおいても、「もう死んでもいい」という勢いがはたらかなければ「進化」ということは起きないわけで、人間はそういう勢いがとくに強い生きものなのだ。そうやって人は殺し合いをし、命を投げ捨てて献身してゆきもする。
生きものの命のはたらきは、妙な生命賛歌や本能論だけでは説明がつかない。
誰の中にも「もう死んでもいい」という「魂の純潔」が宿っている。
人類が生きられないという理由でその土地を逃げ出すような生きものであったら、原始人が地球の隅々まで住み着いてゆくということは起きなかった。「もう死んでもいい」という勢いで、より住みにくい土地住みにくい土地へと拡散していったのだ。
そして、津波がいつかまた襲ってくるとわかっていてもその土地に住み着いていられるのもまた、人間的な「魂の純潔に対する遠い憧れ」のなせるわざだともいえる。

ある外国人が、「自分の信仰心のことを聞かれてポカーンとしてしまうのは日本人くらいのものだ」といっていた。それくらい日本人の信仰心というか宗教に対する態度はあいまいで混沌としている、ということだ。
まあ文明社会で宗教とは無縁に生きることはできない。社会はどうしても宗教に染められてしまう。しかしこの世界に日本人のような信仰心の薄い民族がいるということは、普遍的な人間性の自然においてはけっして宗教を信じることにあるのではないということを意味するわけで、日本列島はまあ、文明社会は宗教とは無縁に成立することができるかという、ひとつの実験の場になっている。
宗教とはこの生の救済原理であり、あの世がどうのといっても、本質的には現世的通俗的な装置なのだ。したがって生き延びるための競争原理や闘争原理を否定しない。宗教においては死後の世界すらも生き延びる先の未来だということになっており、それは「文明社会=共同体」の欲望でもある。
一方日本列島の伝統としての神道的世界観や死生観においては、「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということになっている。それは「死後の世界のことは思わない」という非宗教的な態度であり、「生き延びることなんか願わない=いつ死んでもかまわない」という態度だ。すなわち、そうやって「今ここ」がこの生のすべてだと思い定めて目の前の世界や他者に体ごと反応してゆくということこそ日本的な「無常」の伝統であり、それはまた普遍的な人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」でもある。
死後の世界を思うことなんか文明社会のただの制度的思考であって、ここでいう「魂の純潔」すなわち人間性の自然は「死後の世界を思わない」ことにこそあり、それが日本列島の「無常」の伝統なのだ。
だからこの国は現在においても、「政治のことなんかよくわからない」とか「政治なんかに興味はない」とか「政治なんかややこしくて気味悪い」という「無党派層」がマジョリティになっている。

宗教心があいまいで混沌としているこの国では、政治に対する意識もあいまいで混沌としている。であれば、ひとまず民主主義である現在のこの国で民衆を代表する政治家の意識もあいまいで混沌としているということになる。そしてそれは、けっしてネガティブなことではない。それだけ「政治的な思考のキャパシティが広い」ということでもある。
たとえば、ヘイトスピーチをするものたちは、それによって自意識が満たされ完結してしまっているから、それ以上の思考の展開がない。自意識があいまいで混沌としているものこそ、より豊かな思考の展開を持つことができる。
ゆえに、やれ右翼だ自民党だとヘイトスピーチをしたがる政治オタクよりも、政治意識があいまいで混沌としている「無党派層」や「無関心層」のほうがずっと豊かな思考をしているのだし、それが現在のこの国のマジョリティすなわち「民意」であり、その「民意」を掬い上げてゆく政治が間違っているとはけっしていえない。
今どきは上から下まで右翼的な政治オタクがやいのやいのと騒いで目立っている世の中だとしても、そこに「民意」があるとかんたんに決めつけてしまうことはできない。
たとえそんな世の中であってもこの国の地下水脈においては「魂の純潔に対する遠い憧れ」がたしかに流れ続けているわけで、そこから今どきの「かわいい」の文化が花開いてきたのだろうし、だから自分の宗教心のことを聞かれてポカーンとしてしまうのだろう。
その「ポカーン」としてしまう他愛ないところに外国人はうらやましいと思っているのだが、日本人はもう、日本人としての誇りのことを聞かれても、やっぱりポカーンとしてしまう。日本人としての誇りがどこにあるかということなどよくわからないのがもっとも本格的な日本人であって、そんなことを自慢げに吹聴している日本人なんか、まあ日本人として邪道なのだ。
「誇り」などという自意識は、日本的ではないのだ。そして日本人のマジョリティはべつに政治オタクでもなんでもないのだから、かんたんに「右傾化している」などといってもらっては困る。若者の幼児化などといわれている現代においては、おそらく若者の政治意識がいちばんあいまいで混沌としているのであり、だからいちばん目立つところにいる自民党に引きずられているだけかもしれないし、引きずられているからといって直ちに「右傾化している」とはいえない。
「右傾化している」などということは、若者たちの1割にも満たない政治オタクだけの世界の話なのだ。正確には「あいまいで混沌としている」というだけのこと。
大人だろうと若者だろうと、世の中が、ヘイトスピーチをして自己満足に浸っている人間ばかりであるはずがない。まあ誰だってそういうことをいいたいときもあるだろうが、誰だってそんなことばかりいいながら嫌われ者になったり心を病んでしまったりしているわけではない。
まあ総じて今どきは、大人たちよりも若者のほうがずっと深く豊かに「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っている。