おバカなギャルを侮るな・神道と天皇(106)

今どきの「かわいい」の文化における「ロリータキャラ賛歌」を、どう考えればいいのだろう。
それは、「魂の純潔に対する遠い憧れ」の問題ではないのか。つまり、その問題に対して大人たちよりも若者のほうがずっと切実だということを意味しているのではないだろうか。
ロリータ趣味とか処女崇拝なんか、もともとは男全般の趣味だと相場が決まっていたのだが、この「ロリータキャラ賛歌」は女たちも熱心で、むしろ女たちのほうがより切実だともいえる。だから少女たちの「ロリータ・ファッション」が登場してきたのだし、その延長として「AKB」や「ベビーメタル」や「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」の人気が世界中に広がっていった。
現在の「ロリータキャラ賛歌」は、男だけの趣味ではないし、世界中に広がっているムーブメントでもある。
そしてここでの「ロリータ=処女」という概念は、セックスを経験したかどうかということが問われているのではない。さっさと結論をいってしまうなら、「魂の純潔」の表象として賛歌されているのだ。
ジェンダー・フリー」などという言葉があるが、男か女かということを問わないのなら、その先の最終的な問題はどこにあるのか……そういう人間としてどうなのかという問題として「ロリータ=処女性=魂の純潔」ということが世界中で問われるようになってきたのだろう。もはやこのことを問わなければ民主主義に未来はないという段階にさしかかっている。
人と人のときめき合う関係のない社会で「非正規雇用」や「派遣切り」をなくそうとしても、もはや無理な話なのだし、しかしそういう関係がなくなってしまったというわけでもない。そこに立って、若者たちによる「ロリータキャラ賛歌」が生まれてきた。
またたとえば、フランスにやってきたイスラム移民が素直に宗旨替えをしてキリスト教のフランス人として溶け込んでゆくのならともかく、イスラム教徒のままイスラム教徒の社会をつくりながらそれをそのまま拡張してゆくというようなことをされたら、そりゃあ先住のフランス人だって右翼的になってしまう。人と人のときめき合う関係なんか生まれてこないに決まっている。
あのユーゴ民族紛争だって、もとはといえば移住してきたイスラム教徒にどんどん国土を蚕食されていったことにあるのだろう。
「宗教の自由」とは、いったいなんのだろう。イスラム教は、宗教の自由の名のもとに、世界中で紛争の火種になっている。イスラム教自身だって、シーア派スンニ派で殺し合いも辞さない対立をしている。
宗教の自由などといっていたら、世界の民主主義に未来はない。イスラム教だろうとキリスト教だろうとユダヤ教だろうと仏教だろうとヒンズー教だろうと、宗教によって民主主義が確立されることはない。
日本列島に宗教対立がないのは、民衆の伝統的な意識として宗教そのものを換骨奪胎してしまっているからであって、宗教の自由の名のもとに宗教を止揚しているからではない。
宗教の自由の名のもとに宗教対立が激化する。宗教の自由は、けっして平和的なスローガンではない。
今さら宗教をなくすことはできないのかもしれないが、せめて宗教を換骨奪胎する文化を持たないことには、人と人が他愛なくときめき合い連携してゆく民主主義に未来はない。

宗教に執着されたら、人と人の関係にならない。
宗教においては世界の仕組みはあらかじめ決定されているのだから、それを信じてしまえば、世界や人に対して驚きときめくことはない。宗教は人を鈍感にする。鈍感になったものどうしを家族のようなひとかたまりにしてしまう機能を持っているからこそ、ひとりひとりのときめき合う関係は希薄になるというか必要がなくなるわけで、そのかたまりの外の相手とときめき合う関係はさらに生まれない。むしろ、外の相手を排斥することによってかたまりの絆が強化されてゆく。
宗教とはひとつの党派性であり、そこにおいて宗教と政治の本質は矛盾しない。そして矛盾しないから、政治は、宗教によって党派をつくられることを嫌う。政治だって、世界の仕組みをあらかじめ決定したところでなされている。
みんなが世界の仕組みなんかわからないという場に立った「ひとりぼっち」の存在になってこそ、はじめて誰もがときめき合う社会になることができる。おそらくそこにこそ民主主義の未来があるわけで、それはつまり、誰もが右でも左でもない「無党派層」になるということだ。
無党派層とは、世界の仕組みなんかわからないものたち、世界の仕組みを決定しないものたち、そうやって世界の「あはれ・はかなし」を思うものたちのことだ。
世界の「あはれ・はかなし」を思うとは、世界をつくった神とか死後の世界とか、そういう世界の仕組みを思わないということ、そういう宗教心の薄さこそが日本列島の精神風土であり、そこにこそ人と人がときめき合い支え合う民主主義の未来があるのかもしれない。
人と人がときめき合い支え合うことなしに民主主義の未来があるはずがないのだし、世界中が今、そういう未来を模索しているのではないだろうか。
そのための「魂の純潔に対する遠い憧れ」であり、そのためには宗教を換骨奪胎してゆくしかないのではないだろうか。

日本列島において宗教は、「信仰」ではなく、たんなる生活習慣の作法にすぎない。
宗教とは神の存在を信じることだとすれば、日本列島では「存在」そのものを「あはれ」とか「はかなし」と見ている。
すべての「存在」には「外側」がある。「外側」があるから「存在」だとわかる。「私の身体」の外側のまわりには「空気(空間)」があるから、「私の身体が存在している」と思うことができる。
「外側」がなければ、「存在」は存在することができない。神がこの世界をつくったというのなら、神という存在の外側はどうなっているのか?
宇宙が存在するというのなら、宇宙の外側はどうなっているのか?さらにその外側もあるのか?さらにその外側……?そんなことを考えてゆくと、気が変になりそうになる。そうして「あはれ」とか「はかなし」というようなかたちでしか納得のしようがない。
色即是空、空即是色……という言葉もあるが、日本列島では、そうした二項対立の思考はしない。すべてをあいまいで混沌としたもの(=あはれ・はかなし)として納得してゆく。
よい人と悪い人がいるのではない、誰もが「あはれ・はかなし」として存在している。そう思い定めてときめき合ってゆく。
よいとか悪いというようなことを決めてもせんないことだ……これは、宗教的な態度ではない。
というわけで、キリスト教ユダヤ教イスラム教の「神」と神道の「かみ」とは同じではない。よく、日本列島ではそうした大陸の「神」も「八百万の神」のひとつとして受け入れている、などといわれるが、「神」と「かみ」は同じではないのであり、日本列島においては「神」もまた「かみ」でしかない。
日本列島の「かみ」は、たんなる「お話」というか「言葉」にすぎないのであり、「存在」ではない。
本居宣長は、古代人は古事記の神々を本気で信じていたというが、それは「お話」や「言葉」として信じていたのであって、「存在」として信じていたのではない。
日本人は「お話」や「言葉」を信じているのであって、「神」を信じているのではない。キリスト教ユダヤ教イスラム教の「神」だって、「お話」や「言葉」でしかない。まあ、あいまいで混沌とした「お話」や「言葉」でしかない。
いや、大陸の人々だって、そうした「神」をじつはたんなる「お話」や「言葉」として信じているだけであり、根源的には「神の存在」を信じることは不可能なのだ。だから欧米にだって、少なからず「無神論者」がいるのだろう。
「お話=物語」として「神が存在する」と思い込むことは可能だが、論理的にも無意識的にも、その「存在」を信じ切ることは不可能なのだ。
「信じる」とは何だろう?人間的な知性や感性の本質において、「信じる」というはたらきは成り立たない。すべてはあいまいで混沌とした「あはれ」で「はかなし」としかとらえようがない。
人間的な知性や感性は、最後の最後のところで「信じる」ということにつまずく。まあだから、学問や芸術の発展や移り変わりがある。

人は「魂の純潔」を信じているのではない。「遠い憧れ」を抱いているというだけのこと。
自分の中の「魂の純潔」を見出すことなんかできない。それは、乳幼児の段階を過ぎたときにすでに失って永遠に取り戻せないものであり、それでも他者の中にそのようのものを見たりする。他者の心なんかわからないからこそ、それを見たような気になってしまう。だから「遠い憧れ」なのだし、そうやって人と人はときめき合っている。こういうタッチは、世界の仕組みが神によってあらかじめ決定されていると信じている宗教者にはわかるまい。
宗教者は鈍感だ。宗教者になれば、ユダヤ人やイスラム教徒のようにしたたかになることができる。宗教心の薄い日本人になれば、避けがたく他愛なくなってしまう。
したたかさと他愛なさ、文明人の心は、この二つの位相のあいだで揺れ動いている。
他愛ないときめきを失って民主主義に未来はない。世界は今、他愛なさに回帰することを模索している。だから、ジャパンクールの「かわいい」の文化が注目されている。
どれほどご立派な知能や人格を持とうと生まれたばかりの子供のような「かわいい」存在にはかなわないのであり、人類は、他愛なくときめき合うことによって進化発展の歴史を歩んできたのだ。
おバカなギャルのロリータ・ファッションにだって切実な「魂の純潔に対する遠い憧れ」がこめられているし、現在は世界中に広がりつつある。当初それは、特殊な一過性の現象のように見られていたが、そうではなかった。アジアや欧米の少女たちも、そのファッションに飛びつくようになってきた。彼女らはそういう潮流、すなわち民主主義の未来を模索する世界的な潮流を先取りして登場してきた、ともいえる。
少女たちのラディカルで本能的な嗅覚は、世界の一歩先の気配(潮流)をとらえている。
たんなるサブカルチャーとしてのギャルファッションだけの問題ではない、民主主義の未来の問題でもあるのだ。
現在の世界の民主主義の問題はもう、作為的に政治や経済をいじるだけでは解決がつかない。高度に発達した文明社会の政治や経済や宗教に汚染された人々の「心映え」が変わらなければどうにもならない段階にさしかかってきている。
二本の足で立っている人間であるのなら、「魂の純潔に対する遠い憧れ」は世界中の誰の中にもある。「ロリータキャラ賛歌」は、現在の民主主義の海で溺れかかっている、そうした人間性の普遍・自然としての「心映え」を救出しようとするムーブメントでもある。