べつに生きていたいわけでもないが・神道と天皇(109)

神道の「かみ」とは「魂の純潔」のことだ。
ぐだぐだと行きつ戻りつして書いてきたが、やっとここまでたどり着いた、と思う。
荒ぶる神にも「魂の純潔」はある。
人類普遍の「魂の純潔に対する遠い憧れ」が「かみ」という概念を生み出した。
ここでいう「人類普遍」とは「原始的」ということでもある。
原初の人類は二本の足で立ち上がることによって「魂の純潔に対する遠い憧れ」に目覚め、それにせかされて地球の隅々まで拡散していった。
住みよい土地を求めて拡散していったのではない。より住みにくい土地より住みにくい土地へと拡散していったのであり、「べつに死んだってかまわない」という「荒ぶる魂」と世界や他者に他愛なくときめいてゆく「魂の純潔」がなければそういう現象は起きなかった。
べつに「目的」があって拡散していったのではない。なりゆきに流されながら、そのつどの「荒ぶる魂」と「魂の純潔」がはたらいていただけだ。
人間は「目的」がなくても生きられるのであって、「目的」が人間を生かしているのではない。
「生きる目的」などというものはなくてもかまわないのが人間なのだ。
なんのために生まれてきたのかとか、なんのために生きるのかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
「魂の純潔に対する遠い憧れ」が人を生かしている。
人は、「目的」などなくても生きられるようにできている。いいことなんかなくても、生きていれば何かと出会って心が動く。すなわち「反応する」ということ、「反応する」ことが生きることだ。
生きものに生きようとする衝動(本能)などというものはない、「反応する」心や体を持っている、というだけのこと。
べつに生きていたいわけでもないのに、心や体は、避けがたく反応してしまう。
生きていたいわけではないが、死にたいわけでもない。そんな「目的」など持っていない。この生は、それで成り立つようにできている。心も体も環境に「反応」して生きてしまう。心は、「目的」を持っていない方が、より深く豊かに「反応」する。
深く豊かに「反応」することができるものが、人と人のときめき合う関係を生きることができる。なんのかのといっても人が生きることや集団をいとなむことはときめき合う関係を持つことの上に成り立っているわけで、それが人類史のはじまりであり究極であるのではないだろうか。
人類は、べつに進化発展という「目的」を持って歴史を歩んできたのではない。ときめき合う関係を生きたことの「結果」として進化発展してきただけだ。

人類の生態の本質は、ときめき合う関係を生きることにある。少なくとも原始時代の歴史はそのように流れてきたのであり、氷河期明けの「文明制度」の発生ともに競争原理・闘争原理の社会へと変質していった。しかし四方を海に囲まれた日本列島は、とにもかくにも1500年前まではそんな文明制度の洗礼を受けることなく歴史を歩んできたわけで、それまでは人と人が他愛なくときめき合う関係を生きる原始時代をそのまま発展洗練させてくることができた。
まあ日本列島においては、1500年前の国家制度の発生とともに権力社会では競争原理・闘争原理を生きるようになっていったが、しかしそのときにはすでに原始的な他愛なくときめき合う関係を生きる社会構造がそれなりに高度に洗練発展していたわけで、したがって民衆社会にはいぜんとして原始的な人と人の関係が残されてゆくことになった。そういう状況から、国家運営のために輸入された仏教に対するカウンターカルチャーとして「神道」が生まれてきた。
神道は、原始的な人と人が他愛なくときめき合う関係を生きる習俗作法として生まれてきた。仏教という宗教に対する「非宗教」として生まれてきた。
神道は、生きることなんか他者とのときめき合う関係があればそれでいいのだ、という原始的なコンセプトで生まれてきただけなのだ。そしてそういう気分は、現代人だって誰もが心のどこかしらに持っている。
神道の本質は、宗教ではない。どこからともなく人が集まって来て他愛なくときめき合う祭りの習俗が進化発展して生まれてきただけなのだ。
人が集団をつくって生きるということの根源は、人と人が他愛なくときめき合うということにある。他愛なくときめき合っていられるなら生きられるし、死んだってかまわない。
人類の歴史は、「もう死んでもいい」という勢いとともに進化発展してきた。その勢いは、他愛なくときめき合う関係を生きることによって生まれてくる。
競争原理や闘争原理の上に成り立った文明社会においては人と人のときめき合う関係が薄くなってしまう構造になっていて、そこから戦争や対立やいじめやヘイトスピーチなどのさまざまな病理現象が起きてきているのだろう。競争原理や闘争原理から、生き延びようとする自我の肥大化が生まれてくる。
「もう死んでもいい」とは、消えてゆこうとする衝動であり、快楽とは自我の消失体験にほかならない。自分を忘れてときめいてゆくのだ。
自分への執着というか自我の肥大化が世の中をおかしくしている。ほんらいそれでは集団は成り立たないのだが、それによって集団を成り立たせているのが文明社会なのだ。
権力者の支配しようとする欲望(=自我の肥大化)と、かんたんに支配されてしまう民衆の他愛なさ(=自我の薄さ)が相まって、ファシズムの社会が生まれてくる。だから、ヒットラー東条英機などの権力者が責められても、ドイツや日本の民衆を責めることはできない。
かんたんに支配されてしまう他愛なさは世界中の誰の中にもあるし、それこそが「魂の純潔に対する遠い憧れ」なのだ。

民主主義は人類の最終的な思想だといわれているが、おそらく民主主義の未来は「魂の純潔に対する遠い憧れ」を止揚してゆくことにある。
「魂の純潔に対する遠い憧れ」とは「他愛ないときめき」のことであり、それは思春期の少女にもっとも深く豊かに宿っている。
そして根源的には人格(=心理学)がどうのこうのといってもせんないことであり、人格(=自我)を取り払ったら、誰にだって「魂の純潔に対する遠い憧れ」はある。時と場合によっては、そういう表情や心映えになることは誰にだってあるのだ。善人だろうと殺人者だろうと、孫がかわいいというおじいちゃんの表情や心映えにどんな違いがあろうか。
人間性の自然・本質は、人格の問題ではないし、たんなる文明社会の問題に過ぎない競争原理や闘争原理で語れる問題でもない。誰もが共有しているところの、もっと深くピュアなかたちがある。人類史の起源論も究極の問題も、そこのところを問わなければ説明がつかない。
日本列島の神道はどのようにして生まれてきたかという問題は、人類の集団性すなわち民主主義の基礎と究極の問題でもある。
僕のような政治オンチには、現在の民主主義が抱えるさまざまな技術的な問題についてはわかるはずもないが、人間とは何かということの基礎と究極の問題を考えることなしには民主主義の未来も見えてこないのではないだろうか。それは、「どうするべきか」という問題ではない、「どうなっているのか」「どうなってゆくのか」という問題であり、おそらく意図的にどうこうできるという問題ではないのだと思える。
人類史の未来は、歴史の「なりゆき」が決定するるのであって、人類の思う通りになるわけではない。その「なりゆき」が「どうなっているのか」「どうなってゆくのか」ということに思いを巡らすしかないのではないだろうか。
現在の世界はユダヤ・マフィアと呼ばれる人たちをはじめとするさまざまな勢力の意図によって動かされているといわれるが、はたしてこれからもその通りに行くかどうかはわからない。その流れをせき止めることができるのは、民衆社会に宿る人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れを共有しながらおたがいさまで助け合う集団性」であって、人間性の自然を競争原理や闘争原理で考えているかぎり、いつまでたっても彼らにしてやられなければない。まあ、そうやってアメリカは今、収拾がつかなくなってきている。
この国だって、アメリカのジャパンハンドラーと呼ばれるグループや日本会議と結託する安倍晋三らの国家神道を標榜する右翼など、民衆を洗脳し支配統治しようとする勢力にいいようにやられてしまっている。

われわれは、おたがいさまで支え合う民衆社会を取り戻すことができるだろうか。世の中にはそういう心映えを持った人は少なからずいるのだが、民衆とはもともと洗脳されてしまいやすい存在だということがなやましいところで、洗脳されないですむだけのたしかな民衆社会をどうすれば取り戻すことができるのだろう。
仏教伝来のころの民衆社会には、権力の側から下ろしてくる仏教にまるごと洗脳されないですむだけの民衆自身の集団運営の流儀があり、そこから神道が生まれてきた。
われわれの民衆社会は、権力に洗脳されないですむだけのたしかな集団性を持つことができるだろうか。
われわれに必要なのは、権力の庇護ではなく、われわれ自身によるおたがいさまで支え合う社会なのだ。
現在の世界で必要な政治家は、民衆を庇護し支配する政治家ではなく、民衆から庇護される政治家なのだ。
この汚れきった世界の生贄になろうとするような政治家はいるだろうか。そんな政治家がいるはずもないが、それでも人は、人間性の自然としてそんな庇護せずにいられない対象を「いるだろうか?」と永遠に問い続けている。掌の中の傷ついた小鳥のような……。
あの選挙戦の最中の枝野幸男が握手作戦で群衆の群れの中に飛び込んでいったとき、「カッコいい!」という声が上がっていた。あんなブサイクなおじさんのどこがカッコいいのかという話だが、たしかにあのときの彼には、永田町の権力ゲームに抗して「この世界の生贄」になろうとするような気配が漂っていた。現在の彼も同じかどうかは知る由もないが、少なくともあのときはそうだったし、それは、群衆から離れた選挙カーの上で演説するだけであたふたと去っていった安倍晋三の態度とは好対照だった。

この世界の魅力的な人はみな、どこかしらに「生贄」のような悲劇的な気配を漂わせている。
「かわいい」とは、「この世界の生贄のような気配」のことだ。「AKB」も「きゃりいぱみゅぱみゅ」も「初音ミク」も「巫女」も「舞妓」も、すなわち「思春期の少女」とは、そういう気配を漂わせている存在なのだ。
「生贄」とは、この世とあの世の境目に立っている存在のこと。たとえば「初音ミク」の声や立体映像はそうやって存在と非存在の境目から出現しているわけで、ことにこの世界とうまく和解できない若者たちは、その生と死の境目の「幽玄=あはれ・はかなし」の気配にこそ、救いと癒しを汲み上げている。
初音ミク」の登場は、けっして日本列島の伝統とは無縁ではないのであり、それはまた人類700万年の伝統でもある。だからその「かわいい」の魅力が、欧米人にもわかる。
人類の民主主義は今、そういう「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有しようとする段階にさしかかっている。
人の心や命のはたらきは、生と死の境目に立つことによって活性化する。そうやって人類はこの700万年の歴史を歩んできたのであって、心や命のはたらきの安定と秩序を目指してきたのではない。
思春期の少女は、人類普遍の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を表象している。そして、この国の天皇の起源の問題も、そこにこそある。
起源としての天皇は、思春期の少女=巫女だった。