魂の演説・神道と天皇(95)

選挙がはじまった。
今どきの右翼が正義・正論を振りかざすことが、何ほどのことか。安倍晋三小池百合子なんか、どんなきれいごとをいっても、ただの自意識過剰のレイシストにすぎない。
なんとかファースト、などという自己撞着的な物言いがどうして説得力を持つのか、まったくわからない。自分であれこの国であれ、どうしてそこまで執着しなければいけないのか。自分にも国も執着が薄いのがというか、そういう執着を洗い流して「みそぎ」を果たしてゆくのがこの国の伝統であり、それによって人は世界の輝きに他愛なく豊かに深くときめいてゆくのだ。そういう「清純な魂に対する遠い憧れ」を共有しながらときめき合ってゆくのがこの国の集団性の伝統であり、そうやって選挙の風が吹く。
風は、小池百合子に吹くのか、それとも枝野幸男に吹くのか、どちらの存在(人間性)が人の心を揺さぶるのか……このことだって、この国の伝統や人間性の自然を問う問題にほかならない。

選挙では、演説の能力も試される。
何ごとにおいても場数を踏めば誰だってあるていどは上達するが、そこから先はもう才能の問題になる。上手な演説は誰でもできるが、聴衆の心を揺さぶる演説というのはそうそうお目にかかれるものではない。それは、たんなる話術だけじゃなく、声のよさや人格や教養まで試されるし、その場の雰囲気にも左右される。
安倍晋三の演説が聴衆の心を揺さぶるかといえば、たぶんそういう才能はほとんどない。。なんといってもその妙に甲高い声にセックスアピールがないし、いってることの内容も、唯我独尊の自慢話めいた話で終始しており、まあ「清純な魂」が感じられず、人格そのものにもセックスアピールがない。聴衆にヤジられたりプラカードを掲げられたりするのは、右翼の独裁者だからだということよりも、その演説が下品でセックスアピールがないからだ。
山本太郎枝野幸男の演説は、多くの聴衆心を揺さぶって、一部の野次馬など黙らせてしまう。
人は、「清純な魂」を前にすると、自分の穢れた心があぶり出されるような心地になってそうした下品な態度が取れなくなってしまう。彼らは「下品な魂=姿」をヤジっているのであって、話の内容はたいした問題ではない。どんなに正しいことをいっていても、あの甲高い声とドヤ顔を振りまくだけの下品でセックスアピールを持たない演説ではヤジられるほかないのだ。
安倍晋三の演説に知性も感性も感じられない。
山本太郎は知性なんか売り物にしていないが、豊かな感性というか人情味を、それこそ「清純な魂」として聴衆は感じてしまう。彼がほんとうにそれを備えているのかどうかということは、僕にはわからない。しかし、その場の聴衆にそう感じさせてしまうようなしゃべり方と表情を持っている。
まあ多くのネトウヨをはじめとする右翼たちは安倍晋三を大いに持ち上げているが、そんなことは彼らの世界でしか通用しない。そんなに立派でかっこいいのなら、ヤジっている聴衆が恥ずかしくなってしまうような格調高く「清純な魂」のこもった演説をして見せろよ、という話だ。
右翼という人種は基本的に自意識過剰で他愛なく世界の輝きにときめいてゆくような「清純な魂」を持っていないから、山本太郎枝野幸男のような演説の名手が彼らの世界から登場してくるはずがない。

三島由紀夫切腹の直前に市ヶ谷の自衛隊の二階のバルコニーに立って演説したときに下で聞いていた自衛隊員の多くがにやにやしてガムを噛んだりしていた、というのは有名な話だが、それは話の内容がどうのという問題ではない。自分に執着してわざとらしく顔やしゃべり方をつくっているだけでは聞くものの心を揺さぶることはできない、ということを証明しているだけなのだ。その気配はもう、なんとなく聴衆に伝わってしまう。自衛隊員がもっとも感激しやすい話題を語りながら、感激させることができなかった。
どんなに話の内容が立派で正しくても、語るものの人格が卑しければ聴衆の心を揺さぶることはできない。そこのところは、ちゃんと見られている。
ではどんな人格が聴衆の心に響くのかといえば、人格など持たないのがもっとも魅力的な人格であり、人格を持っているというそのことが卑しいのだ。
意識を自分から引きはがして聴衆に憑依してゆく、その「無心」の気配こそ聴衆の心を揺さぶる。自分を捨てて聴衆の心に飛び込んでゆく、ということだろうか。そういう勢いを持っているから、聞くものの心を揺さぶる。
政治家の演説というのは、自分をよく見せようとする自意識が透けて見えるから、どれもこれもなんだか鬱陶しい。よく魅せようとしなくても、意識が自分に貼りついているというか、自分の世界に居座ったまま、ぞっとするような冷たさとか傲慢さを漂わせている。とくに右翼は、安倍晋三小池百合子小泉進次郎も、一様にそんな気配を色濃く漂わせている。
小泉進次郎はたしかに若くてハンサムでかっこいいのだが、人々は、あの気取った表情に、いつもふてぶてしく自分の世界に居座っているようなぞっとする冷たさを感じないのだろうか。政治家なんかたいていそういう人種だといえなくもないのだが、それは、人間に対する鈍感さでもある。彼らには、山本太郎のような自分を捨てて聴衆の心に飛び込んでゆくような「ピュアな魂」は、とてもじゃないが感じられない。

国を思うことと人を思うことは、まったく別の次元の思考なのだ。国にとって人はたんなる将棋の駒だし、人はふだんの生活世界において国のことなど忘れてしまっている。この矛盾した二つの世界を両立させてゆくのが政治というものかもしれないが、右翼の政治家たちは国を第一に考えているから、どうしても人を将棋の駒のように考えてしまう傾向がある。言い換えれば、人に対して鈍感で人を将棋の駒のようにしか考えられないから、国という概念に執着してゆく。
人に敏感な政治家は、まず人のことを考えるから、右翼にはならない。彼は、自分のことを右翼だとも左翼だとも思っていない。
右翼というのは、人間性において何か不潔な感じがする。彼らは自分が正義のもとにあることを信じて疑わないから、人を洗脳しようとするし、できると思っている。そうして、声高で、人に因縁をつけることに勤勉な人たちだ。因縁をつけるということは、洗脳しようとすることでもある。相手が自分と違う考えであるのを許さないわけで、その心の動きは宗教戦争の動機でもある。右翼とは、ひとつの宗教なのだ。まあそんな、思い込みばかり強くてろくにものを考えない彼らの声高で攻撃的な勢いとともに、現在の右翼的な空気が醸成されてきた。
つまり現在は、右翼ばかりになっているのではなく、彼らによって「サイレントマジョリティ」の声がかき消されている時代であるのかもしれない。
右翼は、ろくにものを考えていないくせに、何のためらいもなく「あいつらはバカだ」と言い放つ。思い込みばかり強くて、しかも人に対して鈍感だから、かんたんにそういってしまえるのだ。
僕だって天皇神道やこの国の伝統のことをあれこれ考えてばかりいるのだから、まあ右翼みたいなものかもしれないが、彼らの語る正義・正論なんかなんの興味もないし、彼らが清廉潔白な人たちだと思ったことはさらさらない。

現在のこの国はほんとうに右傾化しているのか、という問題はたしかにある。
選挙のことに関していえば、「浮動票」とか「無党派層」とは「サイレントマジョリティ」のことであり、右翼でも左翼でもないそういう人たちこそ、今なおほんとうの多数派なのではないだろうか。
この国のリベラル層の票田は3割、という定説があるらしい。しかし半分は無党派層とか浮動票だという統計もある。とすれば右翼が3割で左翼が2割で中間のリベラルが5割だと図式も成り立つ。
時代はいつだって声高で排他的な右翼勢力に引きずられてしまいがちだが、何かのはずみでその勢いが雲散霧消してしまうこともある。この国はそういう精神風土になっており、それが終戦直後の右翼勢力の衰退であり、数年前の民主党政権の誕生だった。
この国の民衆は、基本的には政治意識も国家意識も持っていない。これがこの国の伝統的な精神風土であり、だから国の動きが右翼や左翼の政治オタクに引きずられてしまうほかない宿命を負っているわけだが、もともとこの国の民衆は政治意識も国家意識も希薄なのだから、右翼も左翼もないのだ。
「戦後左翼」とか「全共闘時代」といってもずっと自民党的な保守政権だったのだし、現在の権力機構はたまたま右翼勢力が優勢ななりゆきになっているとしても、それがそのまま民衆の意識を反映しているとはいえない。
民衆の政治意識などない、というのがこの国の精神風土の基本的なかたちであり、その他愛なさ、その混沌そのものを生きようとする心模様とともに、この国ならではの世界的に見たらちょっと風変わりな伝統文化が育ってきた。そして風変りであると同時に、それがもともとの人間性の自然でもあるのだ。

まあ世界中どこでも人々の非政治的な気分に政治が動かされることはあるわけで、どの党に向かって選挙の風が吹くかといえば、政策が正しいかどうかというようなこと以前に、単純にどの党が魅力的かという問題であったりする。そういう意味で演説の名手である枝野幸男がいるということは立憲民主党のスタートダッシュにとって幸運なことだったのかもしれない。彼の演説もまた、山本太郎と同じように、自分を捨てて民衆の心に飛び込んでゆく勢いを持っている。そしてそれはもう、「才能の問題なんだなあ」とつくづく思わせられる。YOUTUBEで検索してみるかぎり、少なくとも現時点においては彼の演説の魅力が群を抜いているわけだが、これからきっと右翼の嫉妬の対象として嫌がらせを受けることも多くなってゆくのだろう。それを振り払ってどれだけこの勢いのまま突っ走ってゆくことができるか。
改憲勢力が3分の2以上になることは確実だともいわれているが、立憲民主党が勢いを示せば、改憲勢力のがわにも国民投票まで持ってゆくことに対する躊躇が生まれてくる。
なんといっても、もしも今なお憲法第九条に賛成する層が半数以上いるとすれば、それは、「政治なんか知らない」という層に支えられているのであって、左翼が支えているのではない。
飛鳥時代の「十七条の憲法」が「和をもって尊しとなす」などというそらぞらしいことを掲げていたように、この国にとっての憲法は、人々の「清純な魂に対する遠い憧れ」のよりどころになっていればそれでいいのだし、それこそがもっとも大切なのだ。そういう「もう死んでもいい」という勢いの他愛なさこそがこの国の伝統であり、今どきの右翼にはそうした「清純な魂に対する遠い憧れ」がなさすぎる。
現在の右傾化という現象なんか、実体から離れたただのバブルかもしれない。
民衆の多くは、右傾化も左傾化もしていない。