芋虫の性欲と神性・神道と天皇(148)

「原初、女は太陽であった」と誰かがいった。日本列島の精神風土の伝統は「処女性」としての「女性原理」にあり、そこから「天皇」が生まれてきた。
戦前回帰志向の今どきの右翼は「大和魂」とか「ますらをぶり」というようなことをさかんに言い立てるが、そんなものが日本列島の精神風土の本質ではないし、それによって現在のこの国の状況が改善されるとも思えない。
また、「右傾化」などといわれて久しいが、このままますますそうなってゆきそうな状況でもなく、少しずつ潮が干きはじめているようにも感じられる。とうぜんだろう。日本列島の伝統は、彼らのいうようにはなっていない。彼らは、わかっていない。
たとえば「草食男子」という現象は、「大和魂」や「ますらをぶり」とはなんの関係もないだろうし、しかしたしかにそれが現在の若者たちの傾向でもある。彼らには、「ますらを」になりたいというようなプライドとか上昇志向といった変な自意識など持っていない。
もしかしたらこの先、現代のこの国の政治の歴史は安倍政権の登場によって右翼の退潮がはじまった……というように総括されるのかもしれない。
知識人であろうとなかろうと、右翼的な思考や行動の限界と醜さが露出してきている。

右翼的な思考の限界について考えてみる。
YOUTUBEでもっとも有名な右翼プロパガンダの番組といえば『桜チャンネル』だろうか。そこでの数年前の映画紹介の座談会で、当時話題になった若松孝二監督の「キャタピラー」という戦時中のことを描いた作品について語り合われていて、彼らの戦争観が垣間見られた。
まあ若松監督は一種のアナーキストだから、右翼的な視線からはどうしても批判的になる。
あらすじは、戦争で両手両足を失った兵士が何かのはずみで「軍神」として祀り上げられ、故郷に帰ってきて妻に介抱されながら終戦までの余生を送る、という話なのだが、この監督らしく、妻がその「芋虫」のような体になった夫と要求されるままにセックスをする場面が衝撃的で、妻を演じた寺島しのぶはベルリン映画祭で最優秀女優賞をとり、おおいに話題になった。
まず、四肢を失った男がどんなに精力が旺盛な存在かということは、『五体不満足』の乙武洋匡氏のスキャンダルで証明されたし、そのとき女たちはほんとうに「神」とセックスしているような恍惚を覚えるらしいということが分かった。それを若松監督はすでに見抜いていたし、この座談会の評者たちは、ただ気味悪いだけの「奉仕」にすぎない、としか見ていなかった。また彼らはこのような不幸は何も戦争を持ち出さなくても交通事故でも代替できるだろうと語り合っていたが、そうではないのだ。
気味悪さなんか、ひと月で慣れる。それが女だ。乙武氏の本は、空前のベストセラーになった。買ったのは、ほとんどが女だ。
というわけで映画の主人公の女は、最初は貞淑な軍神の妻として我慢しいしいかいがいしく世話をしているのだが、だんだんセックスの快楽に目覚めてゆく。
しかしこの軍神は、戦争によるPTSD によってしだいに勃起不全に陥ってゆき、それとともに女の心もしだいに狂気の様相を呈してくる。セックスの快楽だけが貞淑な妻を演じることのよりどころだったのに、それがもはやかなわない。女は別にインテリではないが、やはりそこで「神とは何か」とか「戦争とは何か」といういわば不条理の問題と無意識のうちに向き合わされていたのであり、男の不安や恐怖や罪悪感のPTSDに呼応するように錯乱状態に陥ってゆく。戦争という舞台がなければ、この狂気はリアリティを持ちえない。
女は、役立たずになったことの見せしめとして、亭主をリヤカーに乗せて炎天下の村の通りに運んでゆき、置き去りににしてしまう。亭主を見た村人は、生き神様として拝んで通り過ぎる。かわいそうじゃないかといって手を差し伸べるというようなことはしない。これもまた、ひとつの狂気にちがいない。
そうして戦争が終わったとき、みんなが悲嘆にくれている中で、女と村の変わり者の男だけが「ああこれでさっぱりした」と高笑いする。
で、座談会のインテリたちは、この態度も嘘っぽいと批判する。それまでは誰もが戦争に邁進していたのだから、底知れぬ虚脱感や虚無感に浸されるのが真実であり、当時の日本人はみなそっだったという。
何いってるんだか。だから、あなたたちのような時代に踊らされるような俗物はそうやって虚脱感や虚無感に浸されればいいさ。しかしこの女は、生々しい戦争の本質と向き合い追い詰められて生きてきたのだ。もうこれでインポテンツになってしまった亭主から解放されるのだ、と思って何が悪い。

また、虚脱感や虚無感に浸された日本人たちも、そのあとさっぱりと過去を忘れて生きはじめたのであり、今どきの右翼のようにいじましくその無念と汚名を修復しようとしていったのではない。
そのとき日本人は、正しかろうとそうでなかろうと、とにかく新しい国をつくろうとしていったのであって、帝国主義を取り戻そうとしたのではない。
「けがれ」を洗い流そうとするのは、日本列島の伝統ではないか。「無惨な敗戦」という「けがれ」の自覚があったから左翼思想が台頭したのであり、もともと「無主・無縁」が基本的な集団性のコンセプトである民衆社会においては、たとえそれまでの帝国主義とは対極の思想であっても、それほど大きな抵抗感はなかった。そして占領軍のアメリカはそのことを本能的に恐れていたから、天皇制を存続させた。
国家神道帝国主義こそ、日本列島の伝統にそぐわないものだった。戦後の歴史は明治以来のそれをきれいさっぱりと洗い流そうとしてはじまったのだが、占領軍がさせてくれなかった。だから自民党は、今でもアメリカの庇護なしには存続できないのではないかという不安を抱えている。
日本列島の住民なら、誰もが心の底では、集団性や人と人の関係の基礎は「無主・無縁」にあると思っている。帝国憲法父権制なんか、伝統でもなんでもない。少なくとも民衆社会の伝統においては、夫婦であれ親子であれ、その関係はよその国以上にカジュアルになっている。また、大人の社会と若者や子供の社会との関係も、支配従属の関係ではなく、たがいに独立しつつ連携してゆくのが古代以来の伝統なのだ。権威主義である右翼や帝国主義が時代を主導して民衆を洗脳してゆくと、このカジュアルな関係が壊れてしまう。権力社会は大和朝廷の発祥以来そんな権威主義的な集団性の文化で成り立ってきたからそれでもいいが、民衆社会はそれだけではすまない。明治以来の民衆は、この権力社会の集団性の文化の圧迫を受けながら歴史を歩んできた。
まあ明治維新によって、権力社会ははじめて「宗教」という民衆社会を洗脳してゆく手段を獲得した、ともいえる。国家神道は宗教ではないというたてまえを取りつつ、それは紛れもなく宗教だった。宗教とは、「規範=法」によって人びとを洗脳・支配してゆくシステムのことだ。

この座談会には西部邁氏も参加していて、「男とは命を懸けて妻や子を守る気概を持った存在であり、それによって妻や子から愛されるのだ」というようなことを語っていた。これなど、まさに右翼的「父権主義」の思想以外の何ものでもないだろう。
しかし西部さん、そんなことはあなたのたんなる幻想なのですよ。そのていどの思考で男としての人間的魅力やセックスアピールを語ってもらっては困る。人が人を好きになるとかときめくということは、もっと複雑で奥深い問題なのだ。
ますらおぶり」がどうとかこうとかというようなことばかりいっているあなたたち右翼系保守主義者たちは、生きられないこの世のもっとも弱いものが神のような存在になるということについての思考回路を持っていない。彼らの、そういう浅はかさがよくわかる座談会だった。
この国には、生きられないこの世のもっとも弱いものを神として祀り上げる伝統がある。そこのところを考えないとこの「キャタピラー」という映画を語ることはできないわけで、これはたんなる反戦映画ではないし、エロ映画というだけでもなく、そういう「神とは何か?」という問題が隠されているから、ドイツの映画通のインテリに受けたのだろう。絶対神のイメージで思考している欧米人にとっては、何か意表を突かれるような思いがあったのだろうか。
それにしてもこの座談会のメンバーたちは、神道の「かみ」についてどの程度考えているのだろうか。あの芋虫のような男が神=軍神として祀り上げられてゆくことにはとても深い意味があるということに、彼らは何もわかっていない。世のオピニオンリーダーを自認しているインテリのくせに、それを、ただ気味悪いだけの醜悪な存在としてしか解釈できない思考の底の浅さはあきれるばかりだ。右翼こそ日本的な神概念の異質性・原始性を誰よりもよくわかっている存在であるはずなのに。
男は、手足をもぎ取られることによって、神として純化し昇華されていったのだ。そうしてそれはもう、そのころの日本人の共通認識だった。日本列島には、そういう伝統がある。
柳田国男は、「一つ目小僧の妖怪のイメージは、生贄が神に近い存在になるために片目をくりぬかれていた習俗に由来している」などといっている。この国の伝統においては、障害者は神に近い存在であり、その究極としての芋虫男が神になったということはわからないでもない。
若松監督はさすがだなあ、と僕は思う。
それに比べて今どきの右翼は、日本列島の伝統の本質を何もわかっていない。
西部氏はこの国の戦後社会に絶望していたといわれているが、「人間とは何か」ということも「伝統とは何か」ということも、彼らが考えるようなものではないのであり、彼らの思う通りになるはずがない。