感想・2018年8月28日

<時代>
その人の一生を支配している人格は、おおむね幼児期の通過の仕方、思春期の通過の仕方によって決定されているらしい。
過ぎてしまった時間はもう戻らない。今さら、ああであったらとかこうであったらといってもはじまらない。
自分は貧乏の家の生まれで、顔かたちはブサイクだし頭も悪いし、親だってろくな人間じゃなかった……たとえそうであっても、人はその事実をひとまず受け入れて生きてゆく。いいも悪いもない、事実を事実として認識し受け入れる、それだけのこと。しかし、事実を事実として正確に認識し、率直に受け入れてゆくことが、ときにはきわめて難しいことになったりする。それをする前に、その事実はよいとか悪いとかと裁いてしまう。それは、ひとつの思考停止だ。そんなことをしていたら、事実を正確に認識し率直に受け入れる地平に永久にたどり着けない。
この国は過去の時代をどのように通過してきたか。その通過の仕方を、よかったとか悪かったとかと裁いてもしょうがない。とにかくそのように通過してきたのだ。よいも悪いもない。その事実を正確に認識するだけのこと。しかしそれは、けっしてかんたんじゃない。
今どきの右翼の論客の多くは、戦後社会の左翼的な歩みは間違っていた、という。そんなことをいったって、この国はひとまずそのように歩んできたのだし、日本人としてそのように歩んできたのだ。それが日本人なのだもの、その事実を否定して日本人の何がわかるというのか。日本人はかくあらねばならないと語る彼らには日本人とは何かという問いがないし、日本人とは何かということがまるでわかっていない。
日本人は、日本人とは何かと問う民族で、だから、ひっきりなしに日本人論が登場してくるし、外国人に指摘されてああそうかと納得したりする。
日本人であることをよくわかっていないのが日本人なのだ。
フランス人は、フランス人はこうだ、といっても、フランス人はかくあらねばならない、という言い方はあまりしない。
日本人であることがよくわかっていないから、日本人はかくあらねばならない、というような言い方ができる。わかっていたら、そんな言い方ができる余地はない。勝手な妄想で日本人を語ってもらっては困る。
終戦直後の廃墟のような都市には、「パンパン」や「オンリー」と呼ばれる娼婦がたくさんいた。このことを、西部邁をはじめとする右翼たちは、日本人としての誇りや道徳は地に堕ちた、というようなことをいっているのだが、日本列島には江戸時代の吉原の花魁のように娼婦を神のように祀り上げる伝統があるから、娼婦になることにそれほどハードルは高くない土地柄なのだ。
現在の女子高生の援助交際や女子大生のフーゾク嬢のアルバイトや人妻の不倫だって、「パンパン」や「オンリー」とそうちがいない。
「パンパン」や「オンリー」は戦後の焼け跡の女神だったのであり、復員兵士をはじめとするたくさんの男たちが、生活費などそっちのけで彼女らを抱きたがった。何しろもともとプロフェッショナルの娼婦ではない普通の女なのだから、そういう新鮮な魅力もあった。彼女らのその決断は、嵐の海に飛び込んでいった古事記オトタチバナヒメのようでもあり、ステレオタイプ儒教的道徳観に閉じこもってそれを裁いている今どきの右翼インテリたちのいじましさよりずっと高潔で日本的である。
とにかく敗戦直後のこの国の民衆を支えていたのは、「もう死んでもいい」という勢いでこの生から超出してゆくことだったのであり、それが戦争で死んでいったものたちへの供養の手向けだった。
あんなにもひどい敗戦を体験したのだから、生き残ったことの疚しさのようなものは誰の中にもあり、生き延びるための「生活」よりも、その喪失感を癒すことが先だった。
この国の戦後復興は、生き延びようとする欲望によってではなく、喪失感を癒す「娯楽」とともにはじまった。歌謡曲、映画、相撲や野球などのスポーツ観戦等々、今以上に娯楽文化が盛り上がっていた。「パンパン」の文化だって、そのひとつだったのだ。
戦後復興のエネルギーは、娯楽文化の盛り上がりにあった。政策云々ではない。娯楽は、人の心をこの生の外の異次元の世界へと解き放ってくれる。その解き放たれた心で人と人はときめき合う。
政府が何かをしてくれたのではない。何はともあれ人々が助け合いながら戦後復興がはじまったのだ。
「世界の終わり」は、人の心をこの生の外へと解き放ってくれる。生き延びる未来や新しい世界なんか夢見ない。その「もう死んでもいい」という勢いを共有しながら人と人の心がつながってゆくことのダイナミズムが、戦後復興の契機になっていった。
終戦直後の人々は政治なんか当てにしていなかった。民衆どうしの連携でなんとかしようとしていた。戦争未亡人や戦災孤児の救済に真っ先に乗り出していったのは、政府ではなく民間人だった。権力社会から下りてくる政治制度とは別の、民衆自身による自治の文化を持っているのが日本列島の伝統である。貧乏人は貧乏人どうしで助け合いながら戦後の窮乏を潜り抜けていったのだ。
基本的に日本人は、国家や政治制度などというものを信じていない。現在だって、無党派層や無関心層や選挙に行かない層が分厚く存在している。そういう意味で日本列島の伝統はアナーキズム(=無政府主義)にある。アナーキズムとは、民衆どうしの連携でこの生や集団をやりくりしてゆこうとすること。だから、戦後にいち早く左翼思想が台頭してきたのは、日本列島の伝統そのものの現われだったといえる。今どきの右翼がどれほど声高に「それは間違っていた」と叫ぼうとも、それが日本人ほんらいの思考だったのだ。
今どきの右翼なんか、日本列島の伝統をなんにもわかっていない。
現在のこの国では、いまだに「戦後は果たして終わったのか」という議論を相も変わらず繰り返している。終戦直後に左翼化していった日本人はともあれ日本人そのものとしてその時代を通過してきたのであり、その事実を事実そのままとして総括することを、今どきの右翼たちの騒々しい強迫観念が阻んでいる。