東京の集団性にだって伝統的な洗練はある・神道と天皇(75)

東京の観光地といえば、原宿・渋谷・新宿・銀座・浅草といったところだろうか。
はじめて日本列島にやってきた外国人はまず、文化の多様性に驚く。その「混沌」に驚く。「秩序=神の裁き」の上に成り立った国で暮らす彼らは、「混沌」そのものが魅力的なことだとあらためて思い知らされる。
人類はもともと「混沌」を生きて歴史を歩んできたのだ。
宗教や共同体の制度性は、「混沌」を嫌う。しかし人は、「秩序」の中に閉じ込められたら、人間性の自然として息苦しくなる。そこで外国人は、この国はその息苦しさから解き放たれたところで街づくりをしている、と感じるらしい。
国家の自立と安全のためにはその息苦しさに耐えねばならない……世界のほとんどの国はそういう流儀で歴史を歩んできた。国境線が目まぐるしく変化する歴史を歩んできたヨーロッパはとくにそうだろう。
それに対して四方を海に囲まれたこの島国ではそういう「神の裁き」に閉じ込められた息苦しさとは無縁の歴史を歩んできたし、そういう息苦しさに耐えられない子供じみたところがある。その無邪気さに彼らは、新鮮な驚きと懐かしさを覚えるらしい。
この国においては、仏教の戒律など、どんどん有名無実になっていったのだ。
というわけで、現在の東京では、街はどんどん新しくなっているのに、古い文化としての寺や神社もあちこちにあり、超モダンなビルの傍らに小さなお稲荷様の祠があったりもする。その混沌、古い文化もそれなりに大切にするが、それに縛られているわけではない。宗教なんか「神裁き」としての規範でもなんでもない。たんなるファッションであり生活のいろどりにすぎない。
また、超モダンなビル群そのものが多種多様で混沌としている。そして原宿・渋谷を歩く若者たちのファッションが多種多様であることだって、そうした街の景色と照応しているわけで、外国人たちは、そんな若者たちのファッションを自国の街の中にそのまま移し替えてもそぐわないだろうことをちゃんと知っている。この国では集団性のコンセプトがまるで違う、と気づく。
ファッションの装いの本質と醍醐味は、街の景色に溶け込んでゆくことにある。原宿・渋谷の街には、若者たちに多種多様な装いをさせるような気配が漂っている。彼らがそんなバラバラの装いをしているからといって、みんな「個人主義」だともいえない。それ自体ひとつの「集団性」なのだ。
日本人は集団主義個人主義かというようなことをいってもしょうがない。そのバラバラなところが日本人の自分を捨てて集団に溶けてゆこうとする集団性であり、その溶けてゆき方に個人としてのセンスが試されている。

人間なら誰だって「集団性」を持っているし、人間が生きものであるかぎり「個体」として存在しているという意識はある。「個体」として存在していなければ体を動かせないのだもの。
外国人の集団性は、おおむね集団の「秩序」を目指している。しかしこの国のそれはけっして「秩序」を目指しているのではなく、「混沌」こそ集団のかたちであり、その混沌に身を置きながら、それぞれが「個人」として連携してゆくことにある。
外国人観光客は、日本人と欧米人のどちらが集団主義的傾向が強いかというような問題ではなく、集団性そのものの違いに驚いている。それはとても未来的であると同時に原始的でもあり、彼らはそこに新鮮さと懐かしさが混じったような驚きを体験している。
日本人は他者に対して無防備である。それは、集団主義的か、個人主義的か。そのとき日本人は「個人」であることも「集団」であることも忘れており、ただもう誰かと「連携」したがっている。
外国で暮らせば、避けがたく他者に対して警戒的になるほかない。それは個人主義的のようだが、だからこそ集団の秩序を希求する意識も強くなる。日本列島では、秩序などなくても集団が成り立つ。
日本列島にやってきた外国人は、集団性そのものの違いに驚く。その「混沌」というコンセプトに新鮮さと懐かしさを覚えている。

誰もが好き勝手なことをしていることを「混沌」というのではない。それはただの「混乱」であり、誰もみずからの生の「秩序」を求めて「混乱」しているのだ。「秩序」を求めるから「混乱」する。
バラバラのまま調和していることを「混沌」という。「混沌」は、ひとつの「静寂」でもある。
たとえば渋谷駅前のあの大掛かりのスクランブル交差点で四方の歩行者がいっせいに横断してゆくことはまぎれもなくひとつの「混沌」であるが、それでも人と人がぶつかり合わないですんでいるのは、誰もが無意識のうちにそうならないような「連携」をしながら歩いているからだろう。日本人は、混沌を混沌のまま収拾してゆく。
誰もがみずからの生の秩序を目指す強迫観念から解き放たれている状態を「混沌」という。そしてそういう「生きられない」状態に浸されることによって、はじめて人と人の「連携」が生まれてくる。それは、みずからの生を忘れて他愛なく他者にときめいてゆくことであり、他者を生かそうとすることであり、誰もが他者を生かそうとすることによって誰もが他者に生かされている状況が生まれている状態にほかならない。
いやこれはべつに「修身・道徳」の問題ではない。このブログでは何度も書いているように、原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がったのであり、そうやって生まれたばかの子供のように他愛なくときめいてゆくところに人間性の基礎があると同時に、究極の「洗練」がある。
現在の原宿や渋谷を行く若者たちの服装は、コスプレありロリータありパンクありトラッドありと、誰もが好き勝手な装いを楽しんでおり、街はその「混沌」をそのまま「個性的で魅力的な」景色にまで昇華させている。こんな街は世界中のどこにもないし、それを見た外国人は「オーサム」とか「クール」といって驚く。宗教という規範を抱えてしまっている彼らはそこまで「混沌=無原則」の街づくりはできないし、その「混沌=無原則」に何かほっとするものを覚えている。「救い」と言い換えてもよい。
今や原宿や渋谷では、流行の盛衰などというものはない。みんなが同じ服装になるほどの盛り上がりも衰弱もなく、すべてはたえず新しいファッションによって上書きされてゆく。
そして最近ではもう、ひところのような高級ブランド志向ということも薄れてきて、たとえば平凡なユニクロの服に手を加えて面白くかわいいかたちにするということも、新しいストリートファッションのひとつになっている。それは、ある決められたかたちを「混沌」の中に投げ入れる作業であり、端正でエレガントにつくり変えるのではなく、あくまで面白くかわいい「混沌」を生み出すことにある。
うまく秩序をつくり上げてゆくことができないところにこそ、日本的な文化すなわち「かわいい」のセンスがある。

日本列島の精神風土は、縄文以来いつだって「混沌」を生きることにあった。戦時中だってじつは「混沌」を生きていたのだし、現在においてもその他愛なくときめき合ってゆこうとする集団性の正味においてはほとんど変わりがない。
混沌を混沌のまま洗練にまで昇華してゆく文化は、宗教を知らない民族でなければ生み出せないし、もともとそのための神道であり天皇であったのではないだろうか。
まあ宗教はこの生やこの世界の構造を語るものだが、それに照らし合わせて規律・規範が生まれてくる。しかし日本列島では、この生やこの世界の構造を語らない。この生やこの世界は、「出現」と「消滅」を繰り返すたんなる「現象」にすぎない、と考えてきた。
意識のはたらきは発生と消滅のバイブレーションであって、過去から未来に向かって飴の棒のように伸びているもの(¬=物質)ではない。心のはたらきは「気づく」ことと「忘れる」ことの繰り返しであり、「気づく」ことの鮮やかな驚きやときめきは「忘れる=消えてゆく」体験によって担保されている。無防備で他愛ないから、豊かに驚きときめくのだ。
この世界はひとつの「混沌」として出現し、やがて「消えてゆく」現象にほかならない。
生きられなさを生きているものにとってのこの生やこの世界は、確かな秩序を持った構造をそなえているものにはなっていない。
一方宗教は、この世界を神を頂点とする秩序の構造として説明する。しかしそれは、生き延びようとする欲望を持ったものが生き延びる能力を獲得してゆくことによって納得することであって、生きられなさを生きるものは、生き延びようとする欲望も生き延びる能力も持っていない。したがって古代以前のようにそんな生きられない人間ばかりの社会から、世界の秩序を説明する宗教が生まれてくることは論理的にありえない。

まあ、京都よりも東京のほうが人に対して無防備なところがあるし、京都のほうがおもてなしの作法が洗練発達している。いずれにせよ日本人は、「秩序」なんか目指さない。「混沌」のままに「連携」してゆこうとしている。
人間的な知性や感性においては、この生やこの世界の秩序の構造を納得してしまったらおしまいなのだ。そういうことに無知なもののほうが、ずっと豊かにこの生やこの世界に対して驚きときめいている。生まれたばかりの赤ん坊はそうやって驚きときめいているし、ほんもののインテリや芸術家だって、つねにその先の「わからない」という世界に分け入っている。
宗教者や中途半端な俗物ばかりが、この生やこの世界の構造がわかったつもりになって、その知性や感性を停滞させてしまっている。
そういう意味で中途半端な俗物だっておおいに宗教的な存在であり、現代のこの世界はすでに金や情報や知識が信仰の対象としての「神」になっており、彼らはそれらによってこの生やこの世界の構造がわかったつもりになっているだけで、それらをひとまず疑ってその先に分け入ってゆくということができない。つまり、「混沌」の中に身を置こうとする覚悟がなさすぎるのだ。
生き延びることが目的であるのなら、金や知識や情報はまさしく生き延びる能力をもたらすのだから、それでいいのだろう。しかし因果なことに人としての知性や感性は、「生きられない=わからない」というところに分け入ってゆくことによって、より深く豊かに発現する。
人類の知性や感性は、「生きられなさを生きる」ことによって進化発展してきた。すなわちその「混沌」を収拾してゆくかたちで進化発展してきた。

マツモトキヨシというドラッグストアは、道行く人に盗られるかもしれないということを承知で店の前の道路に張り出したところに商品を並べているが、こんな無防備なことは外国では通用しない。それは、いかにも日本的な「生きられなさ」という「混沌」をを生きる作法なのだ。
そういう無防備なことをされると、かえってその覚悟にこたえてやろうという気になるのが、日本的な連携の文化だ。
東京は、もっとも前衛的な街なのに、それでもこんなのどかで古い倫理観をくすぐるような商売方法が成り立っている。前衛的だから混沌としているし、混沌としているから古いものも残ってゆく。べつに前衛的であろうとする目的などない。無原則で目的などないから前衛的なのだ。そういう意味で、東京こそもっとも日本的な町だともいえる。その「混沌」こそ、もっとも日本的なのだ。
「混沌」すなわち「無防備であることの美徳」というような倫理観というか美意識が日本人の歴史の無意識の中にあって、だから憲法第九条がいまだに残ってしまっているのかもしれない。それが国際関係においては無意味だということはわかっているのだが、倫理観=美意識の問題としてどうしても肯定してしまうし、いつまでもぐずぐずと答えを出さないのが「神の裁き」を持たない国民性なのだ。
そりゃあ、今どきの右翼がいうようにさっさと廃止して核兵器を持つのが正しい答えであるに決まっているが、日本列島の文化の洗練度の高さがそれを阻んでいる。この国には、彼らほど現世利益的になれない人たちがたくさんいる。
日本列島の倫理観や美意識は、「もう死んでもいい」という勢いで「混沌」の中に飛び込んでゆくことにある。
廃止せよというのも、堅持せよというのも違う。そんなところにこの国の集団性があるのではない。「そんなことはわからない」、という人がたくさんいる。廃止した方がいいのに、それができない。因果なことに日本人は、そういうなやましさとともに連携の文化=集団性を洗練させてきた。
日本列島には「生きられなさを生きる」という原始的な文化=集団性が残っており、それがまた世界のどこよりも高度に洗練された文化=集団性にもなっている。
日本人は「規律正しい」のではない、「混沌」の文化を生きている。
この社会はかくあらねばならない、というようなことをいってもしょうがない。それは、「混沌」を生きることができない強迫観念にすぎない。
なるようになる……それでいいのかわるいのか。
今どきの「かわいい」のファッションやアニメのコンセプトだって、「混沌」を生きることそのものだし、それを収拾してゆく手さばきの鮮やかさは、外国人だってわかる。すでに宗教に冒されてしまっている彼らがそれを真似することは困難だが、だからこそその鮮やかさに日本人以上に感動したりする。彼らは、宗教に冒されていないその感性の鮮やかさと解放感に、知らず知らず感動している。
そしてそれが外国人にもわかるということは、日本列島だけの特殊な文化ではないということを意味する。つまり混沌を生きることは、宗教以前のところで人類が普遍的に共有している文化なのだ。
まあ、この生やこの世界の秩序とか規律などというものに閉じ込められていたら、「かわいい」の文化は生み出せない。
「かわいい」の文化は、日本列島の伝統の上に成り立っている。そして京都には古い「かわいい」の文化が洗練したかたちでたくさん残っているが、新しい「かわいい」の文化は東京からしか生まれてこない。