初音ミクは侮れない・神道と天皇(81)

ボーカロイド初音ミク」の登場に、僕は胸騒ぎを覚えた。それは、巫女や舞妓の伝統の延長線上で起きてきた現象かもしれない。
初音ミク」は、究極の「処女性」をまとっている。そしてその人気は、今や世界中に広がっている。
今どきのロリータ系のマンガやアニメは、たんなる色恋の対象としてもてはやされているのではない。それは、娘たちにも支持されている。娘たちにだってロリータ志向(処女幻想)がある。
セックスを体験しようとしまいと、娘たちは、処女性に対する喪失感と憧れを心の底に抱えている。自分は処女であると意識した瞬間から、すでに「処女性」を喪失している。なぜならそれは、そういうことを意識しない無邪気な状態のことだからだ。彼女らは、その瞬間から女になりつつあるみずからの体に対するうとましさをなだめながら生きてゆかねばならない。なだめようとして、セックスに踏み切る。セックスをすることが処女であることを取り戻すことだ、というような。
その「萌え=処女性」というコンセプトは、男女に共通する色恋以前の実存的で原始的な体験だといえるし、それこそが根源的な色恋のかたちだともいえる。
世間ではよく、オタクの男たちは生身の女を相手にするのが怖くて二次元の世界で色恋を疑似体験している、などといわれるが、彼らだって生身の女にセックスアピールを感じないわけではないし、その理屈では、娘たちにも支持されているということの説明がつかない。
最近では、初音ミクの3D動画が劇場で披露されたりしている。まあそれは、たとえ3次元でも生身ではない。そして、生身ではないからセックスアピールがないかといえば、そうともいえない。生身のようで生身ではないし、生身ではないはずなのに生身のようでもある。
つまり、人は衣装を着ている存在だから生身=裸そのものが「異次元性」をもっているのであり、男たちは、その「異次元性」に勃起している。
性衝動の「異次元性」、すなわち人の心の「ときめき」は、呪術よりももっと「異次元的」なのだ。
ときめきを失ったものから順番に「呪術=宗教=オカルト」にのめり込んでゆく。世界宗教だろうとオウム真理教だろうとスピリチュアルだろうと、みな同じなのだ。なんといおうと、宗教はみな、ただのオカルトさ。いかにも日本的な「かわいい」の文化は、そのことをみごとに浮かび上がらせている。
呪術なんて、文明社会におけるただの俗世間的ないとなみにすぎない。原始人がはじめたのではない。そのことを、今どきの歴史家たちはなぜわからないのだろう。

京都は古い文化が残っているから何か保守的であるかのように思われがちだだが、京都こそもっとも革新的な勢いを持っていたりする。まあ、そういう革新性を持たなければ、漢字から平仮名を生み出すというような芸当もできない。また、漢語の「神(シン)」をやまとことばの「かみ」に置き換えたり、「「仏(ブツ)」を「ほとけ」と言い換えたりすることだって、日本的な文化風土の革新性の成せるわざにちがいない。
革新性とは、「もう死んでもいい」という勢いのことであり、そういう勢いは、「処女(思春期の少女)」がもっともラディカルにそなえている。日本列島の文化の革新性は、ひとつの「処女性」として生まれ育ってきた。
日本列島においては、「処女性」こそもっとも高貴なのだ。天皇の高貴は「処女性」にある。神のように「正しい」ことが高貴であるのではない。古事記でもわかるように、この国の神は必ずしも「正しい」存在であるのではない。そこのところを、世の多くの右翼は何もわかっていない。左翼の主張を論破して何か鬼の首でも取ったつもりでいるが、彼らは、彼らがうぬぼれるほどには魅力的な存在ではないし、この国では、もっとも魅力的な存在がもっとも高貴なのだ。
論破していい気になっているなんて品性の下劣さ丸出しで、それは、天皇がいちばんしたがらないことだ。そういう天皇の高貴な品性から学ぶことができないで、なにが右翼か。
天皇を祀り上げる右翼を自認するなら、安直な正義を自慢たらしく振りかざすよりも、人間としての「品性」で勝負してみせていただきたいものだ。
まあこの国の右翼には「大和魂幻想」というようなものがあるからだろうか、妙に自意識が強くて、熱烈に天皇を祀り上げているわりには天皇の品性から学ぶというような態度は薄い。三島由紀夫をはじめとして、天皇を祀り上げている自分に酔っているだけで、いざとなったらクーデターを起こすのがほんとうの右翼のつもりでいる。まあ、実際に天皇を支配してきたのがこの国の権力者の歴史だから、そういうことをしてもいいという思考の伝統があるのだろう。彼らは、天皇を敬っても、天皇には従わない、それが大和魂だから。彼らは天皇の処女性の高貴な品性のことを知っているとしても、それは支配するべき対象であっても学ぶべき対象ではない。まあ、よきに解釈すれば、大和魂天皇を守ろうとしているのであり、天皇を守ることは天皇を支配することでもあるらしい。
大和魂は、天皇から下りてきた精神ではなく、天皇を祀り上げている権力から下りてきた精神にほかならない。

平安遷都以来、京都の民衆の心は、権力者を通り越して直接天皇に向いて歴史を歩んできた。彼らは、天皇の処女性の高貴な品性をよく知っているし、そこを基礎にして文化や集団性をはぐくんできた。
天皇は、大和魂の体現者ではない。江戸時代は、化粧をして女官とばかり遊んでいた。京都は、そんな天皇とともに京都の文化をさらに洗練させてきた。
京都の人に大和魂といっても通じない。大和魂とは何かという問題はけっしてかんたんではないが、ひとまず俗にいう男らしさのような精神だとすれば、それはけっして京都的ではない。彼らは、天皇のそばにいることによって、国家権力に影響されない文化や集団性を育ててくることができた。だからほかの地域よりも保守的・右翼的だということもなく、意外に反権力的・革新的な傾向を持った土地柄になっている。
天皇制であれば左翼が弱いというわけでもない。戦後に左翼思想が強くなったのは、天皇制が残されたことによって、人々の心が直接天皇との関係を結んで国家権力を無視するようになっていったということもある。天皇という存在は、国家権力にとっての支配のための道具であると同時に、民衆が権力支配から逃れるためのよりどころでもある。
であれば、現在において右翼思想が台頭してきたのは、人々の心が権力志向になっているということかもしれない。つまり、「天皇を祀り上げながら天皇を利用してゆく」のが常套手段であるこの国の伝統的な権力機構の意図をそのままなぞっている。
戦時中だって人々は、天皇を祀り上げ利用している権力機構が下してくる大和魂に染められてしまっていた。だから、天皇から下りてくる「処女性」を汲みあげることができなくなっていた。天皇自身も、処女性だけて生きることができなくなっていた。
右翼たちはよく「天皇はこの国の家父長的な存在である」という。明治以後の天皇は権力者によってそのような存在に仕立て上げられてしまったのだが、「家父長」などという存在は儒教的な武家社会から生まれてきたのであり、もともと天皇は女であってもかまわなかったし、民衆は天皇を祀り上げても天皇に支配されてきたのではない。
天皇を家父長に仕立て上げれば、さぞかし民衆支配に都合がよかったことだろう。
しかし天皇の本質的な高貴(神性、と言い換えてもよい)は、あくまで「処女性」にある。
家父長なんて、フェミニストたちからコケにされまくっているだけの存在ではないか。
大和魂を備えた家父長、といいたいのだろうか。
大和魂は、権力から下りてくるのであって、天皇から下りてくるのではない。
そして現在の「かわいい」のムーブメントは天皇の処女性から下りてきているわけで、初音ミクは、現在における天皇の形代なのだ。初音ミクを愛聴している若者たちは天皇から下りてくる処女性を汲み上げているのであり、一方ネトウヨたちは、天皇を祀り上げながら天皇を利用してゆくという伝統的な権力の常套手段を模倣しながら自意識を満足させようとしている。
イギリスのブレグジットだって、処女性と大和魂の争いみたいなものだったのだろう。
もともと日本列島の民衆は天皇から下りてくる処女性(受動性)を生きて、国家権力は、天皇のためなら死んでもかまわないという大和魂(能動性)を民衆に押し付けてくる。天皇がそんなことを要求しているわけでもないのに。

憲法第九条の処女性は残されるのか。それとも大和魂で破棄するのか。
大和魂は、純粋な民衆文化とはいえない。それは、権力を志向するものたちによって称揚される。現在の権力のまわりには日本会議をはじめとしてそうした権力志向のものたちが群がっており、その志向=欲望がネトウヨと呼ばれる下層の民衆にまで下りてきているのだが、その一方で他愛なく初音ミクを祀り上げてゆくムーブメントも起きている。その、政治なんか関係ないという他愛なさにこそ、民衆文化の本質がある。
現在の右翼がどれほどエラそうにのさばっても、おそらく右翼だらけになってしまうことはない。雄々しさの象徴であるらしい大和魂は、はたして軟弱で他愛ない初音ミクのムーブメントを駆逐することができるか。
バカな左翼をやっつけることが右翼の存在証明であるのなら、みんなが右翼になってしまったときにはどうするのか。
初音ミクは、この世に存在することができないくらいこの世のもっとも弱いものだ。そん対象をカリスマとして祀り上げようとするのはどういうことだろうか。初音ミクはこの世のもっとも清らかな存在であり、究極の「みそぎ」を果たしている存在だ。
人は、存在しない存在になろうとする衝動を持っている。そうやって「みそぎ」の文化が生まれ育ってきた。
現在のこの国でもっとも強い存在感を持っているのが右翼だとすれば、その対極の果てに初音ミクがいる。
初音ミクは、憲法第九条であるともいえる。初音ミクにうつつを抜かしているようでは、憲法第九条は破棄できない。
日本列島には、初音ミクが生まれてくるような文化土壌がある。と同時に、大和魂になりきってしまうこともできる風土にもなっている。戦時中の大和魂賛美の象徴で、特攻隊作戦のバックボーンになった「散華の精神」は、「もう死んでもいい」という勢いで「存在しない存在」になろうとすることだともいえる。生きながら心はすでにこの生の外の存在になっている。であれば、初音ミク大和魂は日本的ともいえるひとつの死生観を共有しているのかもしれない。
権力社会における自意識の産物である大和魂が民衆社会に下りてくると、自意識を捨てた「諦念」のようなものに変わる。
散華して異次元の世界に消えてゆくことのカタルシス、それを「みそぎ」という。大和魂といっても、本質的には「処女性」のことだとともいえる。女、とりわけ処女が持っている本性的な死を怖れない「潔さ」、それを、男や権力者の制度的な自意識が「散華の精神(=大和魂)」というスローガンに仕立てていった。権力者は、民衆がどんな不幸も受け入れることができるのを本能的に知っている。

ともあれ日本列島の文化は、人が人としてそなえている非論理的で混沌とした「処女性」に照射されながら洗練発達してきたのであり、かんたんに「正義」とか「生命賛歌」とか「男らしさ」というような論理では片付かないところがある。
わがままで気まぐれであるのも、思春期の少女の魅力のひとつになっている。つまり憲法第九条の問題は、そんな処女性を持った日本列島の歴史の無意識が作用して、理屈通りには片付かない側面がある。
世の中は、右翼が自慢げに振りかざす正論だけではすまないのだ。
右翼であれ左翼であれ、自分の思う通りに世の中を動かそうとするその過剰な自意識は、第三者から見ればなんだかグロテスクだ。人の世は、「生き延びるため」とか「幸せになるため」とか、そんな正義の通りに動いてゆくとはかぎらない。そういう「主体性」とやらが、そんなに偉いのか。
歴史は、人の目論見通りにつくられてきたのではない。文明人の生き延びようとする目論見は、つねに人間性の自然としての「もう死んでもいい」という無意識に裏切られる。
民衆社会の伝統は、世の中の流れに身をまかせようとすることにある。それを愚かだといっても、世の中の流れは、けっきょくのところ人の思う通りにはならない。
歴史が人をつくるのであって、人が歴史をつくるのではない。
歴史は、歴史をつくろうとするものによってではなく、歴史に身をまかせようとするものたちとともに動いてきた。
憲法第九条は、守るべきだという問題も破棄するべきだという問題も存在しない。憲法第九条は存在するし、自衛隊も存在する。その事実はもう動かせない。憲法第九条を守りつつ自衛隊も強化されてゆくのが、さしあたってのなりゆきになっている。
核爆弾はたんなる科学としての工業製品であって、兵器のつもりはない……といっても、もしかしたら日本人は納得するかもしれない。この国には「神の裁き」を基準にした正義が存在しないから、ときにはそういうあいまいで混沌とした論理も成り立つ。そしてそれを世界の国々にどう納得させるかは、政治家の仕事であって、われわれ民衆の関知するところではない。
人工衛星をさんざん打ち上げておいて、ミサイルの開発をしていませんという理屈が成り立つのだろうか。
世界中がこの国にどれほど圧力をかけてこようと、たとえ憲法第九条を守っていようと、いざとなったらきっと核爆弾だってつくってしまう。そういう能力をすでに持ってしまっているのだもの。アメリカだろうとロシアだろうと中国だろうと、日本は危険な国だから抹殺してしまったほうがいいと思うのなら、そうすればいい。そのかわり、そのときは彼らの国も無傷ではいられないだろう。何しろこの国は、「いつ滅んでしまってもかまわない」という無意識の感慨の上に成り立っているのだから。
憲法第九条なんか、残したければ残せばいいし、破棄したければ破棄すればいい。
政治のことなんか、われわれはもう、勝手にやってくれ、というしかない。明日人類が滅びても、それがいけないということもない。
何はともあれ、現在のこの世界に人が生きて存在しているという事実があるだけで、われわれにはその事実にときめいたり尊重したりする気持ちはあっても、何かを裁いたり決定したりするような「正義」など持ち合わせていない。
この世界にそういう神なき「混沌」を生きる国が存在するということは、人類の進化発展にとっていいことだろうか、それとも邪魔だろうか。
初音ミク」は、人類の希望になることができるだろうか。