イスラム教は世界を征服するか?・神道と天皇(82)

22世紀になれば世界はキリスト教徒よりもイスラム教徒のほうが多くなっている、といわれている。
宗教の問題はほんとうにやっかいだ。
人類の世界に、宗教はそんなにも大切なものか。現実にあるのだから、あってもかまわないが、なければならないというわけでもあるまい。
宗教は大切なものだという観念があるから、イスラム教にしてやられる。
移民や難民はいけないという理屈は成り立たないが、イスラム教を移住先にまで持ち込んで相手が歓迎してくれると思うのは虫が良すぎる。
ヨーロッパは2千年のあいだ、ユダヤ移民を受け入れてきたが、彼らのユダヤ教を手放すまいとするかたくなな態度に対しては、心から歓迎するということはできなかった。なのに現在のイスラム移民は、それをまったく教訓とはしていない。信仰だけでなく、ヨーロッパの文化を尊重するという態度もほとんどない。ヨーロッパの文化にときめくという知性や感性がない、ということだろうか。ときめかなければ、尊重できない。そして、尊重できるなら、イスラム教に対するこだわりも薄くなる。
原理主義というのだろうか、イスラム教は宗教の中の宗教のようなところがあって、宗教は知性や感性の生育を阻害する。とくにプライドの高いフランス人なんかは、イスラム教徒は知性や感性がなさすぎる、という評価をどうしてもしてしまう。
イスラム教徒が劣った民族だということはもちろんないが、彼らの信仰が彼らの知性や感性の生育を阻んでいるという側面は、たしかに否定しがたい。
彼らは、ときめかない人々だ。彼らは、女を支配しても、女にはときめかない。信仰が、彼らからときめく心を奪っている。彼らにとっての人と人の関係は、ときめきによってではなく、神によって定められた約束事の上に成り立っている。だから、ときには他愛なくときめいてゆくことができるヨーロッパ人ほどには、人と人の関係に対してフリーハンドにはなれない。
イスラム世界には、仲間どうし結束するという文化がある。それはもう、彼らの神が定めた絶対的な規範なのだ。そしてその結束の固さは、彼ら特有の男と女の関係の習俗のように、支配と被支配の関係によって担保されている。彼らはみな。神に支配されている。ヨーロッパ人は、彼らほどには神に支配されていないが、まったく支配されていないというわけでもない。その信仰のあいまいさは、イスラム教徒にとっては少しも魅力的でもうらやましくもないのかもしれない。
まあ俗な言い方をすれば、イスラム教徒はヨーロッパ人をなめている。
信仰の自由があるのなら、信仰しない自由だってある。そこのところを、ヨーロッパ人は心のどこかしらで納得しているが、イスラム教徒にはたんなる不徹底に映る。
イスラム教徒は、信仰しないことは罪だと思っている。この世界に、信仰が「しなければならないもの」だとか「したほうがよいもの」だという合意があるかぎり、イスラム移民はイスラム教をけっして手放さない。
日本人が移民(難民)になるなら、故郷を懐かしむ気持ちを守っても、信仰においてはひとまず丸裸になる覚悟をする。相手の文化を尊重するのは最低限のたしなみだと思っている。
逆にイスラム移民は、故郷の人や景色を懐かしむ気持ちは薄く、そのぶん信仰に対する執着が強い。何もない砂漠の故郷に愛着は持ちにくいだろうし、だから強い信仰が必要になるのだろうか。人にも景色にも愛着は持てないが、結束していないとまわりから侵略されてしまう土地柄なのだ。
イスラム教徒が世界から愛されていることなどないのに、人が生きるのに宗教が必要だというのなら、最終的には世界はイスラム教ばかりになってゆく、ということだろうか。
どの宗教がいちばんか、というようなことをいっているかぎり、世界はイスラム化してゆく。イスラム教徒は、いちばん改宗率が低いのだろう。何しろ、自然環境も人間関係もいちばん厳しい土地から生まれてきた宗教なのだ。
嫌われ者ほど自意識が強く、嫌われ者の集団ほど結束力は強い。イスラム教徒は、世界中のどこに行っても、地域とは別の集団をつくって結束してゆく。ひとつの地域がイスラム教徒の集団によって乗っ取られてしまうということが、世界中で起きている。ヨーロッパはとくにひどい。ヨーロッパは隣接地域だし、ヨーロッパ人は彼らを差別する。そうやって、嫌われ者なのに、嫌われ者であるがゆえに、世界中でがん細胞のように増殖してゆく。
イスラム教徒が増えれば世界が明るくなるというはずもない。彼ら自身がもっとも息苦しく停滞した人間関係の社会を生きているのだから。
世界が安定した秩序を持った空間であるためには、人々は息苦しく停滞した人間関係の中に置かれなければならない。それは、誰もが他者を支配し、誰もが他者から支配されている社会だ。そんな社会を目指すのならイスラム教徒を見習えばいいし、今どきの右翼たちが描いている理想の世界像だって同じようなものだろう。
日本人ほどバラバラな民族もいない。それはもう原宿や渋谷の街の景観や人の風俗を見ればよくわかるだろう。まあ、ごく大まかに能天気にいえば、日本列島の歴史は、天皇のもとで結束してきたのではなく、天皇がそうであるように、誰もが他者を許し他者にひざまずいてゆく関係を生きてきたのだ。誰もが他者を許しているからバラバラになってしまうと同時に、誰もが他者にときめきときめかれながら連携している。べつにそれを完ぺきに実現しているというわけではないが、社会の構造にそういう通奏低音が流れている。つまり、そういう「許す」存在として天皇が祀り上げられてきたのであって、絶対的な支配者としてではもちろんない。
四方を海に囲まれ異民族の侵入がなかった日本列島においては、結束するべき理由なんかなかった。
人類の集団性の自然・本質は、「結束」することにあるのではなく「連携」することにある。

集団の結束は、集団の人間関係を停滞させる。
この国でも近ごろの右翼たちは、日本人としての同質性によって結束を守らねばならない、などとよくいっているが、そんな社会の人間関係は停滞するだけだし、もともとこの国は、同質性で結束してゆくというような伝統を持っていない。
ばらばらの混沌のまま収拾してゆくこと、すなわち「結束」するのではなく「連携」してゆくのが、この国の伝統的な集団性の作法なのだ。きれいごとの言い方をすれば、この国の集団性は、自分を主張して相手を説得してゆく「正義」によってではなく、誰もが自分を捨てて相手にサービスしてゆくことによって成り立っている。
今どきの右翼の正義を振り回す自意識過剰の自己主張が、この国の集団性の手本になんか成り得るはずもない。まあそうやって左翼をやっつけることによって右翼どうしの結束は成り立っているのだろうが、その思想が日本中を覆い尽くすはずもなく、外部のものたちは「なんだかなあ」と思っているだけだ。だって彼らは、人間としても日本人としても魅力的ではないのだもの。彼らの存在こそ、バカな左翼を生き残らせている。
森友学園などはまさに同質性で結束させようとしているわけで、それはもう、イスラムの集団性と同じなのだ。
彼らは、天皇の処女性を何も知らないまま天皇を祀り上げ、天皇を利用している。天皇から学ぶという知性や感性を喪失したまま、ただもう天皇を利用し支配しようと企んでいる。その企みが卑しいのだ。そうやって二・二六事件のようなクーデター騒動が起きる。まあそういうことは、大和朝廷という権力機構の発生以来の伝統であるわけで、今にはじまったことでもないのだが。
天皇制といっても、権力社会と民衆社会の天皇に対する意識の違いという二重構造になっている。
権力の運営は天皇を利用=支配し、日本列島全体の集団性や文化は、天皇の存在に象徴する「処女性」を汲み上げてゆくというかたちで生まれ育ってきた。

神道において「神は隠れている」というのと同じで、天皇は処女性と同時に「不在性」を持った対象でもある。民衆にとって天皇は、何かをしてくれる対象でもないし、ふだんはほとんど意識していない。民衆の無意識の中に棲み着いているだけであり、しかしだからこそ、いざ目の前に姿をあらわしたときに、今でも「光り輝いているように見えた」というような体験をしたりする人がいる。その姿は現実の存在ではなく、なんだこの世ならぬものであるかのように見えているわけで、ちょうど初音ミクの3D 映像を前にしているような感触の体験なのだ。
民衆にとっての天皇は「異次元の世界」の存在であり、天皇人間宣言をした現在でもなお、天皇がこの世の存在とは思えない感覚が歴史の無意識として残っている。
歴史的に、われわれ民衆は、天皇のことをいつも思って暮らしているのではない。そういう意味で明治から太平洋戦争時までは異常だったともいえるし、自意識をむき出しにしながらむやみに社会制度としての天皇を押し付けてくる現在の右翼だってまともだとはいえない。
天皇は、われわれの無意識の中に棲み着いている「非存在」の対象なのだ。つまり日本列島の住民は、無意識の中に「天皇的なもの=異次元の世界」に対する遠い憧れを持っている。したがって、現世的な政治などというものに興味はないのが日本列島の民衆の伝統になっている。天皇を祀り上げているからこそ、天皇の下に存在する現世的な政治権力には興味はない。
天皇は「異次元の世界」の存在なのだ。天皇の処女性、他界性。明治以降の天皇は、権力者によって現世的な政治の場に引きずり出されてしまったが、それは天皇の存在を穢すことだった。権力者こそ、もっとも不敬的な存在なのだ。
むやみに「天皇賛美」を押し付けてくる右翼の態度なんか、ほんとにけがらわしく鬱陶しい。彼らは、天皇を俗世間であるこの社会を動かすための道具にしようとしている。
どうして天皇を俗世間に引きずり下ろしてこないといけないのか。自分たちの俗物根性を満たすために天皇が存在するのか。そんな右翼たちよりも、他愛なく初音ミクの声や映像に「萌えて」いる若者たちのほうが、ずっと天皇制の本質を身体化している。

天皇はもともとこの世界の善悪を裁かない超俗的な存在であるが、だからこそ政治権力に利用されてしまう。
大陸における古代の文明社会は、まず「神の裁き」がいちばん上にあり、それに従って王の権力が施行されてきた。
いっぽう日本列島の古代は、まず何も裁かない天皇をみんなで祀り上げているという構造があり、そうした天皇と民衆の関係のあいだに「裁き」としての政治権力が挿入されていった。あるいは、政治権力が寄生していった、ということだろうか。
大陸の王=政治権力は「神の裁き」を民衆に下ろしてゆく存在であるが、日本列島では、「神=かみ」である天皇が「政治権力による裁き」を「許す」というかたちで民衆に下ろされてゆく。良くも悪くも民衆は政治権力を許しているのであるが、祀り上げているのではない。天皇と一緒になって政治権力を許している。だからこの国では、民衆が天皇を殺すというかたちの革命は起きなかったし、政治権力が天皇を殺して天皇の首をすげ替えるということはいくらでもあったに違いない。まあ政治権力の存在理由は天皇を祀り上げることにあるのだから、それが歴史文書として記録されることはない。それは、永遠に闇に葬られる。古代においては次期天皇候補(=皇太子)が複数いて、その一人が殺されることはいくらでもあった。
だから、革命は起きないが、クーデター騒ぎはいくらでも起きてきた。権力社会のものたちは、どこかで天皇を殺してもいいと思っている。天皇に甘えているからこそ、天皇を殺してもいい、と思ってしまう。そこがやっかいなところだ。
天皇は、天皇を殺すことさえも許している。昭和天皇マッカーサーに「自分を殺してもかまわない」といったのは有名な話だし、特攻隊だって「自分を殺してもかまわない」という思いでその作戦にしたがった。
日本列島の文化には、「(神の)裁き」が存在しない。天皇とともに「許す」文化で歴史を歩んできた。
しかし明治以降は、国家神道の思想とともに、天皇が「神の裁き」を下してゆく存在であるかのように偽装されていった。まあそれが西洋近代の帝国主義に見習うことだから、ある意味で歴史的必然だったのかもしれないが、それを日本列島の歴史全体の伝統であるかのように考えている今どきの右翼はけっして賢明だとはいえないし、彼らは彼らがうぬぼれるほどには魅力的な存在になりえていない。
「神の裁き」が存在しないこの国では、正しければ魅力的だということにはならない。魅力的であること、すなわちこの国のもっとも高貴な品性は「許す」ことにある。だから、「許す」ことができない今どきの右翼も左翼も、ちっとも魅力的じゃない。
彼らよりも、「初音ミク」の声や映像に萌えている今どきの若者たちのほうがずっと天皇のそばにいる。そしてその「他愛なさ」はたぶん、世界中で共有されている人間性の普遍の感慨でもある。
またこれは、世界でもっとも「許さない」宗教であるイスラム教が世界を席巻してしまうのか、という問題でもある。