日本的な死生観・神道と天皇(83)

日本人は、伝統的に生と死をどのようにとらえて歴史を歩んできたのだろう。
キリスト教や仏教は「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」というかたちで「死後の世界」を設定している。
それに対して神道でいう真っ暗闇の「黄泉の国」というイメージは、「死後の世界などない」といっているのと同じになる。
死んだらどこに行くのでもない。「今ここ」のこの世界で「消えてゆく」だけだ。
この世界の向こうには、「消えてゆく」世界がある。「消えてゆく」世界は、この世界の向こうにあるのであって、死後の世界にあるのではない。
日本列島では死後の世界を想定しないから、幽霊とか妖怪のイメージも多種多様にになってくる。それらは、人が生きているこの世界で跳梁跋扈しながら、人を畏れさせたり、人と親密な関係を結んだりしている。
神道では、妖怪を祀っている神社や祠がいくらでもある。稲荷神社の狐だって、まあ妖怪みたいなものだ。
日本列島では、死と生の境があいまいになっている。というか、死後の世界がない。この生の世界そのものに、死の世界がある。
この世に死後の世界を見て帰ってきた人間なんかひとりもない。しかし、この生に「死の世界=異次元の世界」をイメージすることはできる。たとえば「神隠しに遭って消えてしまった」などという。人が「消えてゆく世界」は、この生のこの世界にある。その「異次元の世界」は、この世界とつながっていると同時に、つながっていない。

日本列島では、生と死の二元論にしてしまわない。
死を身近に感じながら生きてゆくということ。
神道には「死後の世界」などない。それはもう、縄文時代からそうだったのだろう。
貝塚が人間を埋葬する墓でもあったということは、死体を貝殻で飾ったということであり、貝殻はきらきら輝いているものとして死者への手向けになったのかもしれない。あるいは、早くよけいな肉が削げ落ちて骨だけになることを願ったのかもしれない。まあネアンデルタール人以来、原始人は、死体は骨だけになることによって死が完結する、という意識があった。だから現在でも、火葬にしたり鳥葬にしたりする。
縄文人は、死体を「死者」とみなすことはできなかった。死と生の中間の世界をさまよっている存在のように感じていた。いや、ネアンデルタール人だってそうで、それが、文明制度発生以前の、人類史における普遍的な死生観なのだ。
骨だけになって、ようやく「死んだ」と納得する。
原始人だって死体を見て「死体になっている」ということがわからないわけではないが、親しい他者の死に対しては、どうしても「あきらめきれない」というような「哀惜」の念を引きずってしまう。
人類の葬送儀礼は、「哀惜」の念が極まったからであって、「死後の世界」という概念に目覚めたからではない。「哀惜」の念を引きずるから、死の世界と生の世界をうまく分けることができないのだ。
死と生の境があいまいな日本列島の幽霊や妖怪の文化だって、死者に対する「哀惜」の念を基礎にして生まれ育ってきたのだ。
「宗教」という基盤が希薄な日本列島の死生観は、死者に対する「哀惜」の上に成り立っている。

どうして縄文社会を原始宗教(アニミズム)で説明しようとするのだろう。縄文貝塚は墓でもあった。彼らの思考における骨と貝殻の親密な関係は、原始宗教(アニミズム)の問題では説明できない。縄文貝塚は、死体が骨だけになるための、ひとつの「みそぎ」の場だったのかもしれない。
天国や極楽浄土に行くとか、生まれ変わるとか……日本列島では、死者の死を完結させることを、神や仏の「裁き」や「作為」におまかせなんかしていない。日本列島すなわち神道の死生観は、ひたすら生き残った者の「哀惜」の念にどう折り合いをつけるかという問題として成り立っているのであり、自分たちが死んだらどうなるかのかということなどどうでもいいのだ。そこから「黄泉の国」というイメージが生まれてきた。
まあ縄文人は、そういう「クール」な死生観の持ち主だった。
死ねばすぐにその死が完結するわけではない。死体の肉の「けがれ」をそぎ落とすまでに時間がかかるし、生き残った者には「あきらめきれない」という思いも「かなしくてたまらない」という思いもいつまでも残る。いずれにせよ、死者の死は骨だけの姿になってようやく完結するという思考は世界中普遍の原始的な思考であり、それは死者に対する「哀惜」の念の上に成り立っているのであって、宗教の問題ではけっしてない。
原始時代に原始宗教(アニミズム)があったなどとかんたんにいってもらっては困るし、とくに日本列島は、基本的にそうした「呪術」とは無縁の「なるようになる」という思考作法の歴史を歩んできたのだ。