あの世はあるか?・かなしみとときめきの文化人類学19


梅原猛は『日本人の「あの世」観』という本を書いています。
まあ、人類は原始時代からずっと「あの世=死後の世界」という世界観・生命観のアニミズムで歴史を歩んできた、という前提で考えているのですね。
こういう「はじめにアニミズムありき」の思考はほんとにくだらないと思うのだけれど、現在では世界中のインテリがそれを疑いようのない常識というか定理のように信じてしまっているのだからしょうがないともいえるのだが、それにしてもこの人の考えることはどうしてこうも薄っぺらで俗っぽいのだろう。
とにかく、原始人がアニミズムという呪術・宗教を持っていたかどうかはわからないのです。アニミズムの証拠だといわれているそれらの考古学証拠はすべて人類普遍の「かなし」の感慨によってもたらされたものだということで説明がつくのであり、そのことをここでいくつか書いてきました。
金銀宝石に対する現代人の価値意識だって、直立二足歩行の起源以来の人類の「かなし」の感慨の歴史の上に成り立っている。原始人がアニミズムで生きていたと決め付けなければならない考古学証拠など何一つない。研究者がアニミズムの証拠だと決め付けたいからアニミズムの証拠になっているだけです。
原始人の歴史は、そのへんの凡庸な研究者がかかげるアニミズムパラダイムで説明がつくほど単純で無味乾燥なものではない。それはそれで人間的で玄妙な心模様の歴史があるのです。
というか、原始人という他者にひざまずいて問うてゆくような心がけの思考をすれば、原始人=アニミズムなどという上から目線の安易な結論ではすまないはずです。



人類はいつから「あの世=死後の世界」という想念を持つようになったのか。
まあ、死ぬのが怖くなって死にたくなくなったからでしょう。それはたぶん、文明すなわち共同体(国家)の発生以降のことのはずです。文明を持たない現在の未開の部族だって「あの世=死後の世界」を持っているではないかといっても、それは文明社会から伝播していった観念世界です。人類の遺伝子と観念は、あっという間に地球上に広がってゆく。これは、人類史の法則です。
ただ、極東の島国だった日本列島では、仏教伝来のときまでその観念は入ってこなかったし、そのときはもう、すでに原始的な世界観・生命観の文化を高度に洗練発達させていた。だから日本列島には、今でも「あの世=死後の世界」を知らない原始的なメンタリティが残っている。つまり、そういうメンタリティの高度に洗練された文化を持っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、ひとつの死に対する親密さであり、それは猿としての生きる能力を喪失する体験だった。それでも死に対する親密さで立ち上がっていった。そうしてその死に対する親密さの「かなし」という感慨で原始時代の歴史を歩んできたのであり、しかもそれはわれわれ現代人の心の底にも残っている、人類の全歴史の通奏低音でもある。
死に対する親密さこそが原始人を生かし、地球の隅々まで拡散していったのです。
その「死に対する親密さ」は、「あの世=死後の世界」を想い描くことではない。「今ここで消えてゆく」という実存感覚です。「自分=身体」が消えてゆくことのカタルシスが人類の歴史をつくってきた。それが、人類史を通じての普遍的な「死に対する親密さ」です。
それは、死んだらどこに行くのか、という妄想ではない。「今ここ」で生きてある作法としての「死に対する親密さ」です。そして「死んでゆくことは今ここに消えてゆくことだ」と原始人は思った。そうとしか思いようがなかった。そういう心の動きで生きてきたのだもの。
その「消えてゆく」という体験の感触とともに彼らは、「光のゆらめき」を愛した。
原始人にとっての死は「今ここで消えてゆく」ことだった。
「あの世=死後の世界」など思いもよらないことだった。
そして日本列島では、この「今ここで消えてゆく」という原始的な世界観・生命観の上に「あはれ」や「はかなし」や「無常」の文化を洗練発達させてきた。



梅原猛は「人類の原初的な『あの世』観」という言い方をする。それが日本人の中に残っている、という。
しかし、「人類の原初的な『あの世』観」などというものはないのです。原初の人類は、「あの世」などというものは思いもよらないことだった。あの世などない、と思っていたのではない。あの世など「思わなかった」のです。
だから日本人は、仏教伝来以後でも「死んだら何もない黄泉の国に行く」などといっていた。「あの世=死後の世界」があると知らされてしまったらもう、未開の部族でもそれを信じてゆくしかない。一度知ってしまったらもう、その観念からは離れられない。それでも古代の日本人は、そんなイメージでつじつま合わせをしながら「今ここで消えてゆく」という死生観を残していった。そのなやましくくるおしい心のやりくりを、梅原猛は何もわかっていない。



死んだ人を見たら、普通は、「ああもう心が消えてなくなったのだな」と思うでしょう。
霊魂などというものがあって「あの世=死後の世界」に旅立っていったのだという物語は、共同体(国家)の発生以後に紡ぎだされてきたものです。それは、人間の「死にたくない、死ぬのが怖い」という強迫観念から生まれてきたものです。
原始人の死に対する愛着とかなしみは、「あの世=死後の世界」など思わなかった。死んだら「あの世=死後の世界」に旅立ってゆくというごまかしなどしなかった。もっと率直に体ごとかなしみながら受け入れていった。
プリミティブな「あの世」観などというものはないし、そんなものが原始人の率直な心だったのではない。
「あの世」などというものを想定してしまったら、死が怖くなくなるけど、死に対する親密さもかなしみも成り立たなくなってしまうのです。
心が消えてなくなることに対する愛着とかなしみ、それが、原始人の死生観だった。
人の心は、生きてあることの嘆きにまとわりつかれている。原始人にとっての死は、その状態からの解放としての「心が消えてゆく」という事態だと解釈されていた。現代でも多くの女や弱い立場の人々はそのような思いを持っているし、それこそが人の心の自然というものでしょう。
「消えてゆく」ということに親密な感慨を持っているのが人間の自然です。それが、日本列島および人類の伝統の「かなし」の感慨です。
原始人にとって死はもっと親密なものだったし「消えてゆく」ことだった。そして日本列島の死生観の基礎は、その原始性を引き継いだところに成り立っている。



梅原猛は、日本列島の原初の「あの世」観は、あの世は何もかもあべこべの反対の世界になっている、というイメージにあったといっています。上が下になり下が上になり右が左になり左が右になる……まあそんなようなことです。そりゃあそうでしょう。死が生に変わる世界なのだから。
辺鄙な田舎とか沖縄とかアイヌとかにはそういう話が残っているのだそうです。
しかしだからといって、それをかんたんに「原初のかたちだ」と決め付けてしまっていいのでしょうか。
「あの世」などというものを知らなかった古代の日本人は、死ぬことは心が消えてなくなることだとだと思っていたから、そこで心が新しく生きてゆくのなら、右と思っていた心が左だと思うことになるのだろう、と解釈したのでしょう。それで、「死んだら心が消えてなくなる」ということともつじつまが合う。
つまり、「死んだら心が消えてなくなる」と思っていたからこそ、あべこべの世界になると解釈されていったのだ、ということです。そういう「あの世」観を「原初のものだ」と決め付けてもらっては困ります。
現在でも辺鄙な田舎に行けばそんな話が残っているということは、それは原初のものではない、ということなのです。まあ、仏教伝来以後につくられていった話でしょう。頭の薄っぺらなインテリは、すぐ「辺鄙な田舎」を原初のかたちだと類推してしまう。考えることが傲慢で安直なのですよ。
「あの世=死後の世界」などというものを知らないのが、人類および日本人の原初的な死生観です。
縄文人弥生人土偶や銅鐸をわざわざ壊して土に埋めていたように、今でも一部の地域では茶碗を壊して棺に納めるという風習が残っています。このことを当然梅原猛は「あの世はあべこべの世界だから」と説明するのだが、それはもう彼の勝手なこじつけであって、なんの説得力もない。
それは、生き残ったものたちの「もう腹が減るという苦しみも味わわなくていいんだね」という手向けのメッセージなのです。それは、飢えの歴史を歩んできた民衆の死者に対する愛着とかなしみの表現なのです。そしてそういう愛着とかなしみは、「あの世」観などに執着していたら生まれてこないのです。
「壊す」ということは、「命を終える」ということであり、「消えてゆく」ということです。その壊した破片は、消えてゆくことのキラキラした「揺らめき」なのです。そういう「命を終える=消えてゆく」ことのめでたさがあり、かなしみがある。
それに対して「あの世」があると考えてゆくことは、そこは死の世界でもなんでもないといっているのと同じです。そうやって文明人は、死を無化し、死の恐怖を紛らわそうとしてきた。それはまあ、原始的な死に対する親密さの喪失であると同時に、「消えてゆく」カタルシスの喪失でもあります。



日本人の死に対する親密さとかなしみの感慨は、「あの世」という観念とは矛盾します。だから古代人は「黄泉の国」といわねばならなかった。
ところで梅原猛は、日本文化の世界史における特殊性をいいながら、このような矛盾したこともいっています。
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弥生時代以前にずっと日本に土着していた日本人(縄文人)と、弥生時代以後、水稲農耕を持って日本にやってきた日本人とは同じ黄色人種モンゴロイドであっても、人種的には違う…(略)…この理論は、今までほとんどすべての日本人論の前提となっていた、日本人・単一民族説を破るにじゅうぶんな破壊力を持っているように思う…(略)…。
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これは1980年代半ばの講演の中で語られていることだから梅原を責めるつもりはないが、あのころのインテリはたいてい、良識派ぶってこういうことをいっていた。
しかし、水稲農耕なんか縄文時代からなされていたし、大陸からやってきた人なんかひとりもいないまま弥生時代がはじまったのです。弥生時代のはじめの渡来人はゼロだった、というのは今や考古学の常識になりつつあります。
そして、弥生時代に日本にやってきた渡来人なんか1パーセント未満だ、という説もあります。
まあ弥生時代になって日本人の生活様式が変わり骨格も変ってきた、というだけのことです。
とにかく、日本文化の特殊性というのがあるのなら、縄文時代から弥生時代への連続性があり、その時点ではまだ大陸文化の影響などほとんど受けていないと解釈するべきでしょう。
「日本人・単一民族説」などどうでもいいが、「弥生人=渡来人説」はもっといいかげんだと思えます。べつに、渡来人がリードして弥生文化をつくったのではないし、渡来人とともに日本人の世界観や生命観が変わっていったのでもない。
大陸と地続きで人類拡散の東の果てだった氷河期の日本列島は、さまざまな民族が寄り集まっている地域だった。しかし氷河期が明けて大陸から切り離されると、絶海の孤島になった。それが縄文時代で、弥生時代だってほんの少数の渡来人が日本人の中に溶け込んでいっただけです。そうして渡来人も、やがて日本的なメンタリティに変わっていった。
おそらく、弥生じだいになってもまだ「あの世」などというものは知らなかったはずです。「あの世」など知らない、というところにこそ世界史における日本文化の特殊性がある。
単一民族であろうとなかろうとどうでもいいが、とにかく日本列島では、世界史的に孤立した歴史を長く歩んできたのです。「あの世」なんか知らない、という孤立した歴史を。
そして「あの世」など知らないということは、それほどに深く豊かに死に対する親密さとかなしみの感慨を抱いていた、ということです。
死に対する親密さを喪失しているから「あの世」という概念を捏造するのです。



日本列島の土器のはじまりは、縄文時代の1万2千年前までさかのぼることができます。
しかし大陸で発見される土器の古いものは、せいぜい8千年くらい前のものしかありません。
それほどに縄文人の探究心は旺盛で先鋭的だった。
人類の氷河期明けの歴史は、大陸では、山から広い平地に下りてきて農耕牧畜をするというかたちではじまっています。
それに対して日本列島では、平地から山の中に入っていって採集生活をはじめました。これは、大きな違いでしょう。おそらく世界観や生命観も違ってくる。「あの世=死後の世界」を知らないという文化も、山の中の暮らしから育ってきたのでしょう。
山の中に入って行けば、心は敏感になり、探究心も深まります。大陸の食料のパンや肉は「焼く」ことですむが、縄文人の食料である木の実や野草は、どうしても「煮る」という処理が必要になってきます。そのための土器としてはじまった。そういう食生活をしていれば自然に土器を作ることを覚えてゆくし、縄文人はそのための好奇心や探究心も豊かにそなえていた。
「煮る」という習慣が、土器作りを覚えさせた。そして、「山の向こうは見えない」という環境と和解してゆけば、「あの世=死後の世界」という発想も生まれてこない。この閉じ込められた空間で世界は完結している、という意識になってゆく。
おそらく「あの世=死後の世界」という想念は、地平線の果てまで見晴らせて、その地平線の向こうから人がやってくるような環境から生まれてきたのでしょう。
原始人だって、山や森の中で暮らしながら歴史を歩んできたのです。それは、「あの世」なんか知らない、という歴史です。
「今ここで消えてゆく」というのが、人類普遍の死の意識です。この心の動きのカタルシスとともに人類の歴史がつくられてきた。
梅原猛は、原始人の死生観を「生命の永遠の循環運動」という言葉で説明しているが、それ自体が彼の否定しようとしている文明人による「人間中心、自我中心の世界観」なのですよね。そんな輪廻転生の観念ごっこが原始人の死生観だったのではない。「生命の永遠の循環運動」として死をとらえる、などいっても、そんなものは文明人のたんなるスケジュール意識と一緒なのですよ。そんなおためごかしの平和思想というかちゃちな道徳意識で原始人の死生観を語ってもらっては困る。
生きられない生を生きてある人間にとっての「今ここ」がどれほど切実なものであるかということを、彼は何もわかっていない。
原始人はみな、生きられない生を生きていた。そういうことを、僕はネアンデルタール人から教えてもらった。
未来を考えないで「今ここ」に消えてゆくのが、原始人の生きる作法であり、死んでゆく作法だった。
原始人は、「生命の永遠」など夢見ていない、豊かなカタルシスとともに「今ここで消えてゆくことの揺らめき」を抱きすくめていっただけです。
「消えてゆく」ことによって人の心は華やぐのです。
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