中世のはじまり・かなしみとときめきの文化人類学20


日本列島の中世は、いったいいつからをいうのか?
昔は鎌倉時代のはじまりからだということになっていたのだが、最近では平安末期の武士の勃興あたりからをいうようになってきた。
では、武士が中世のはじまりをつくったのか。
歴史家はいつだって権力者が時代をつくってきたような見方ばかりするが、日本人全体の意識の変化というのは、権力者が作為的につくってきたのではなく、それこそ人間=権力者の作為のおよばない歴史の運命ともいうべき流れがあったはずです。
まあ、平安時代になって都が奈良盆地から京都に移った。それだって、歴史の大きな転換点だったのかもしれない。奈良盆地の文化風土が日本列島の文化やメンタリティをリードしてきた時代から、京都盆地の文化風土がリードするようになっていった。その変化は、けっして小さくはなかったはずです。
というわけで、平安時代のはじまりが中世だといってもかまわない気もします。ひとまずそこから江戸時代まではずっと京都が中心で、この時期に和風文化の様式の基礎がつくられていった。
また、たとえば、平安時代になって人々がものすごく迷信深くなっていった。御霊信仰は流行るわ、阿倍清明みたいな祈祷師が跳梁跋扈するわ、人心はもうしっちゃかめっちゃかだった。平安京なんか、どちらの方角がどうとかと、最初から徹頭徹尾迷信で設計していった都だし、世界的にみてもそれはとても中世的でしょう。「中世の闇」などという言い方もある。
奈良時代までは、もっとおおらかだった。東大寺の大仏なんか、お上の掛け声ばかりで、民衆はあまり関心がなく、なかなか労働力が集まらなかったという。だから、民衆のカリスマ的存在だった行基という僧侶を責任者に抜擢して民衆の協力を集めてもらった。
やっぱり奈良盆地の古代的なおおらかな文化風土というのはあったに違いなく、京都にはなかった。奈良盆地天平美術に対する平安時代貞観美術、万葉集古今集、それらはきっと、古代から中世への変遷を物語っているのだろうと思えます。
古代の奈良盆地には「ことだまの咲きはふ国」などといって、まだまだ他愛なくときめき合う人と人の関係も残っていたが、平安時代になると妙な不安が増大して一気に末法思想へと傾いていった。そういう時代の空気の中から武士が台頭してきただけのことであって、べつに武士が時代をつくったわけではない。
多くの歴史家は権力者が時代をつくってきたと考えたがるが、人間なんかみな、時代に流されてきたのですよ。人間が時代をつくってきたのではない。



平安時代の女流文芸が生まれてきたのは、武士の勃興以前の貴族社会華やかなりしころのことです。ひらがなを使うようになったということ自体がすでに古代の奈良朝時代の文化とは違うのだろうし、「あはれ」とか「はかなし」という言葉が盛んに使われだしたのは、新しい時代の意識だったといえるはずです。このときすでに中世の無常感は芽生えていた。
源氏や平家をはじめとする中世の武士は無常感を携えて台頭してきたとよく語られるが、その世界観はもう、すでに平安時代前期の女流文芸によって先取りされていた。
言い換えれば、「無常」という言葉は、「あはれ」とか「はかなし」を男の好きな漢字の言葉に置き換えただけのことでしょう。
やっぱり、平安京になって人々の意識も変わってきた。
権力支配が進み、たとえば、市がお祭り広場としての性格を禁止され、たんなる交易の場になっていった。その代わりとして民衆は、各地の村々に鎮守の森をつくっていった。そうやって民衆自治の新しい世界がつくられてゆき、そこから武士が勃興してきた。
一方京都に移った権力社会は、いっそう人と人が他愛なくときめき合うおおらかな関係が薄くなっていった。それはまあ政治システムの停滞や退廃ということもあろうが、奈良盆地の「まほろば」の風景を失ったということもあるのでしょう。
その喪失感とともに、「あはれ」や「はかなし」の言葉が女流文芸の世界に深く流通していった。
都が奈良盆地から京都に移り、藤原氏の支配が完成した宮廷内の政治ステムも人と人の関係もすっかり停滞していった。広々とした奈良盆地に比べれば京都の盆地は、閉じ込められた感じがします。しかも山の色合いも、明るく乾いていた奈良盆地に比べて京都では、紫っぽく湿っています。心がメランコリーになる。しかも政治状況はますます閉塞感に覆われてゆく。そういう男たちの世界を横目で眺めながら女たちは、もう一方の目で京都の湿潤でメランコリックな自然に親しみながら「はかなし」の感慨を深くしていった。
まさにそこでもう中世の憂鬱ははじまっていたのです。
中世とは、人類が不自然な共同体の制度というものを持ったことの結果として、さまざまな屈折した情況が現われてきた時代なのではないでしょうか。
陳腐な言い方だが、古代のおおらかさを失っていった時代だった。



「はかなし」とは、「はあ」というため息とともに汲み上げられてゆく「かなし」の感慨のこと。もともと「かなし」は、喪失感と愛着が相半ばした感慨だったが、ため息をつくほかない喪失感のほうが深くなっていって「はかなし」という言葉が生まれてきた。
平城京から平安京へという奈良盆地京都盆地の違いは、そのような「かなし」と「はかなし」の違いでもあった。
現在の古代文学研究や言語論では、「はかなし」を「はか+なし」という構造でよく語られているが、おそらくそうじゃない、「は+かなし」であり、「かなし」から派生してきた言葉のはずです。
まあやまとことばは一音一義で成り立っているからどちらでも最終的には同じようなニュアンスに解釈されてゆくのだが、「かなし」という言葉が遠い昔から流通してきたという事実と無縁であるはずがない。
「かなし」は、きっと縄文時代から使われていた。それは、人類の普遍的な感慨です。
「はかなし」は深い喪失感の言葉であり、その語感はわれわれ現代人だってわかる。中世になって、古代人が持っていた「喪失=別れ=死」に対する無邪気で親密な感慨が失われてきた。
しかしそれでも、その深い喪失感はそれとして、それ自体を抱きすくめてゆこうとするように「はかなし」という言葉が生まれてきた。
日本人の意識は、どんなに文明としての共同体の制度が発達しても、原始的な心模様が残った。なぜなら、共同体が生まれる前からすでに原始的な心模様の文化を洗練させてしまっていたからでしょう。その心模様から「はかなし」という感慨が抱きすくめられてゆき、やがては死に対する親密さの上に成り立った「無常」という原始性を持った武士階級が台頭してきた。
「無常」は、平安時代後期に生まれてきた新しい心模様だったのではない、日本人の心模様に残っている原始性であり、縄文以来の歴史の無意識だった。
日本人は、どんなに共同体の制度が発達しても、死に対する親密さを捨てなかった。それが、平安時代の女流による「はかなし」の感慨を抱きすくめてゆくムーブメントであり、その感慨にリードされながら男たちの「無常」という思想が育っていった。



平安時代の女流文芸はまず、日々の心模様を綴ってゆく「日記」というかたちで登場してきた。それは、日常の感慨ではない、日常から逸脱した日常の感慨だった。日常を「はかなし」と嘆いてゆく心模様だった。そのようにして日常から逸脱した女自身の心の世界を綴っていった。
もともとやまとことばは感慨の表出として生まれ育ってきた言葉であり、日記のような表現がいちばん日本人の生理に合っていた。
日本列島の文学はまず歌(抒情詩)としてはじまり、ものごとを記述する叙事詩の文学はそのあとに起こってきた。まあ人類は「かなし」の感慨の表出として思わず音声を発してしまうところから言葉を覚えていったのであり、歌や日記文学はもう日本人の原始性による表現だったのでしょう。
そのとき人々は、人間が共同体の制度に縛られる存在になってしまっていることを、狭くて湿潤な環境風土である京都盆地に移ってきてひしひしと感じるようになった。それが平安時代という中世のはじまりであり、そういう情況を嘆きながら、原始性すなわち日本列島ほんらいの世界観や生命観に回帰しようとしていったのが「あはれ」や「はかなし」の感慨だった。
宮廷世界といえども、もう「大和は国のまほろば」とか「ことだまの咲きはふ国」などといっていられなくなっていた。
男たちはいぜんとして制度の中で右往左往していたとしても、女たちはすでに時代の空気の移り変わりのさまを感じ取っていた。そういう閉塞状況に対する感慨は、現代社会にも通じているのかもしれません。そうなると世の中は、焦ってさらに未来に進もうとする動きと、歴史=伝統に回帰しようとする二つの動きが生まれてくる。
まあ平安時代以降、政治的にはさらに未来を切り開こうとし、文化的には歴史=伝統に回帰しようとしていった。
そしてそういう二種類の世界観・生命観がせめぎ合う重層的な状況になっていった。
貴族たちは、仏や浄土という概念に執着しながら死後の世界の秩序を志向し、多くの武士たちや女たちや民衆は、死との親密な関係を結んでゆく「無常」の世界観・生命観に入り込んでいった。
無常とは、この世は常ではなくうつろいゆくというだけのことではないのですよね。うつろいゆくことは「消えてゆく」ということであり、その「消えてゆく」ことを抱きすくめてゆくという世界観・生命観だった。まあ日本人は、平安時代以降、どんどんそういう思考のニュアンスを濃くしていったわけで、それはつまり、日本列島の歴史=伝統すなわち人類の原始性に回帰してゆくということだった。鎌倉時代以降の浄土念仏や禅などの新しい宗教や、能や茶の湯の文化も、けっきょくそうした動きだった。そうやって「はかなし」の感慨が極まっていった。



たとえば浄土真宗では、「死んだら極楽浄土に行けるということなど思ってはいけない。そんなことはすべて阿弥陀如来にお任せしなさい」と教えている。それは、阿弥陀如来も極楽浄土もない、といっているのと同じなのです。禅の悟りもまあそのようなことで、中世の日本人はそういう心の世界に入り込んでいった。
日本人は「死ぬ」とか「無」ということに親密になってゆける心模様を持っている。それが「かなし」の感慨で、縄文人弥生人土偶や銅鐸を壊して埋めていたのも、いわば「死=無」に対する親密さの感慨だったはずです。
極楽浄土を思わない、といって喪失感を抱きすくめてゆくということ、まあそのことを親鸞と民衆が共有していった。
ともあれ親鸞道元がどのような境地に達したかということは、ここでは問題ではありません。日本人の心模様がどうなっていったかということこそ気になるところです。親鸞道元にそう教えられて、それをそのまま信じ込んでいった民衆の心こそ気になるところです。言い換えれば、親鸞道元だって歴史=時代の子であり、歴史=時代によってそう考えるようになっていっただけでしょう。
歴史=時代は、人の心をそのような方向に動かしていった。
能がなぜあのような静かな舞の作法になっていったかといえば、縄文以来の山道を歩く身体操作の上に成り立っているわけで、日本人はきっと大昔からずっとあのような踊り方をしていて、そういう日本人の普遍的な身体生理に回帰していったのでしょう。だからそれが、現代まで続いてきた。この身体操作もまた、「死=無」に対する親密さのあらわれです。「非日常の世界に向かって消えてゆく」……これこそ能の真骨頂です。
「消えてゆく」ことは、けっしてネガティブなことではない。日本人はその心の作法で生きはじめるのであり、そこから心が華やいでゆく。「はかなし」と嘆きながら、心はどんどん華やいでゆく。
「自分を消す」ということ、その作法として「おもてなし」の文化が洗練発達してきたのだし、そこから心が華やいでゆく。それが、茶の湯の文化です。茶の湯は、おもてなしの文化であり、「自分を消す」作法の文化です。けっきょく能と同じコンセプトです。また、そうやって日本人は、太平洋戦争の「特攻隊」という悲惨な事態も招いてしまった。
自分を消してしまえば、自分が極楽浄土に行くかどうかなど思案の外のことになってしまう。そういう「消えてゆく」ことに対する親密さが「かなし」の感慨です。



古代の奈良盆地では人と人が他愛なくときめきあっている社会だったから、その「消えてゆく」ということをわりと自然にできたのでしょう。お祭りの中でみんなでわいわいがやがやすれば、自分が消えてさっぱりと生まれ変わることができた。よその地域からもどんどん人が入ってきて、たちまち祭りの混沌の中で誰もがときめきあっていった。そういうおおらかさがあった。
しかし京都盆地奈良盆地ほど広い空間ではないし、権力の監視の制度も発達して隅々まで行き渡っていたから、あまりよその地域から人が流れ込んでくるということがなかった。流れ込んできた人は、住民社会に溶け込んでゆくことなく、橋の下などに住んで階層ができていった。
京都はわりと排他的な町だということは、現在でも日本人の誰もが抱いている印象でしょう。奈良盆地に比べて空間そのものが狭いし、最初から盆地全体が権力の支配に覆われていたから、そうならざるをえなかった。
そこに大和朝廷があったということが、京都盆地をいっそう狭苦しい空間にしていた。いやでも権力にまとわりつかれている町なのです。
しかも、空気が湿潤で、それが人々のさっぱりしない気質をつくっていった。
良くいえば「しっとり」とした情緒のある町だということになるのだが、その鬱陶しさを克服してゆくようにそんな情緒の文化が生まれ育っていったのでしょう。
中世は、人々が心身ともに権力支配に覆われまとわりつかれている時代だった。
おそらく、「あはれ」や「はかなし」の感慨も、その鬱陶しさから逃れようとして汲み上げられていったのでしょう。「あはれ」や「はかなし」の感慨を進んで抱きすくめていった。そうするほかない閉塞感があった。そして、だからこそ下克上の戦国の乱世にもなっていった。



藤原氏が権力を手にしていたということは、彼らこそ誰よりも深く権力からまとわりつかれていたということを意味します。
藤原道長藤原氏繁栄の頂点を極めた人だったが、彼ですら悪夢すなわち悪霊のイメージに悩まされていたらしい。つまり、そういう京都(平安京)的鬱陶しさにむしろ誰より深く浸されていた、ということです。
彼ら貴族のあいだでは、御霊信仰と浄土信仰がどんどん流行してゆきました。さんざん権力闘争を繰り返したあげくに、その屠り去った相手の怨霊に勝手に悩まされ、それを鎮めようとするのが御霊信仰でした。そうしてどんどん死ぬのが怖くなってゆき、死んだら極楽浄土に行けるという約束をなんとしてでも取り付けようとして宇治の平等院を建てたりした。
こうなったらもう、病気ですよ。
歴史家はこれをこのころの日本人全体の意識であるかのように語っているのだが、権力階級の人間たちがそのようになっていったというだけのことであり、そのころの日本人はまだまだ権力を持つことにナイーブで慣れていなかったということを意味するだけです。
何しろ、大和朝廷という日本初の権力機構が生まれてまだ5,600年しか経っていない時代ですからね。
民衆のあいだにもそのような信仰の習俗は下りてきたが、民衆は形だけ受け入れていただけで、そこから自分たちに合うようにいろいろデフォルメしたりしていった。そうやって能とか鎌倉新仏教とかの新しい文化が生まれてきた。
また御霊信仰というかたちで各地の村々に鎮守の森ができていったのだが、べつに民衆は、政敵の怨霊に悩まされていたわけではなかった。お祭り広場をつくりたかっただけです。そこに権力者たちが怖れた菅原道真(天神様)の怨霊を鎮める神社を建てたのはそういうかたちにすればお上から許されたからであり、彼らはどんどん菅原道真(天神様)を好きになっていった。だって、お祭り広場をつくる免罪符を民衆に与えてくれた人ですからね。
まあ平安時代になってどんどん「市」という場での民衆のお祭りが禁止されていったのだけれど、御霊信仰のおかげで鎮守の森のお祭りとして復活させてゆくことができた、ということです。そしてそこから猿楽や田楽という芸能が生まれ、やがて能という芸術まで昇華していったのだが、それはまた、律令制が強化されてゆく社会の状況とともに大陸風・仏教風になってきつつあった文化芸能をほんらいの日本列島伝統のかたちに戻してゆくというムーブメントでもありました。
民衆のお祭りは、権力者の政争とは反対のコンセプトの、みんな仲間という無礼講の賑わいにあります。それがこの島国伝統の人と人の関係のかたちだった。まあ権力争いというのは大陸の模倣として起きてきたことであり、そういう日本人の身についていないことだったから多くの権力者が精神を病んでいったのでしょう。
ともあれ中世は、日本人全体が共同体の制度や生きてあることのしんどさ鬱陶しさに「まとわりつかれる」ことに悩んでいった時代であり、そこからの解放としての「無常」という世界観・生命観を獲得していったのです、権力争いの外にいた宮廷の女たちが「あはれ」や「はかなし」の世界観・生命観を抱きすくめていったように。



平安時代になって人々は、心が何かに「まとわりつかれている」という鬱陶しさを体験するようになっていった。おそらくこれが、中世のはじまりです。
この「まとわりつかれている」状態や対象のことを「もの」といった。
宮廷の女流文芸にも「もの」という言葉がじつにたくさん、さまざまなニュアンスで出てきます。「もののあはれ」をはじめとして、「ものわびし」とか「ものはかなし」とか「物忌み」とか「物狂ひ」とか、もう無数の「もの」がついた言葉が登場してきた。
悪霊だって「もの」といっていた。
「もの」とは、「まとわりつく」という意味です。もちろん古代から使われていた言葉だが、中世になってからよりたくさんのもにまとわりつかれ、より深く嘆くようになってきた。
そして現代でも、さまざまなニュアンスで「もの」という言葉が使われている。「ものすごい」とか「私女だもの」とか「もののはずみ」とか、すべて「まとわりつく」というニュアンスです。「すごい」にまとわりついて「すごい」を強調しているから「ものすごい」。「女だもの」は、女であることにまとわりつかれている、あるいはまとわりついている。「もののはずみ」の「もの」は、「はずみ」にまとわりついて、「はずみそのもの」というようなこと。
中世の人々は、「まとわりつく」「まとわりつかれる」ということに、意識がとても過敏になっていった。そしてわれわれも、その心模様を引き継いで現代社会で暮らしている。
人間はもう、生きてあることそれ自体の鬱陶しさにまとわりつかれている。そのことにどんどん自覚的になっていったのが中世です。
中世になって「もの」という言葉があふれ出てきた。そしてこのまとわりついた「もの」から逃れるかのように、「あはれ」や「はかなし」や「無常」という言葉が抱きすくめられていったし、権力者たちは「もの」と心中して精神を病んでいった。
この「もの」という言葉はじつにややこしいし、中世を象徴する重要な言葉のひとつになっている。ある意味で「無常」よりももっと中世的な言葉だともいえる。
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