文学の発生・ネアンデルタール人と日本人・74


折口信夫の愚論によって、この国の古代文学研究がどれほどあらぬ方向に引きずり回されてきたことか。
彼は、『日本文学の発生』のなかで、それは「寿詞(よごと)」や「祝詞(のりと)」などの「叙事詩」として神や共同体の起こりとかの物語としてはじまったといっている。
つまり、言葉は「事物」を表現伝達するための道具としてはじまっている、という考えで、そのあとに「感慨」の表現としての「抒情詩」すなわち「歌(和歌)」が生まれてきたのだという。
そうだろうか。
言葉の起源は「感慨の表出」にあり、やまとことばはそうした原始的な「感慨の表出」の機能を色濃く残してきたことにこそその本質がある。
日本文学の発生は、感慨の表出としての抒情詩=歌にこそある。折口信夫にいうことは、どう考えてもおかしい。
とにかく折口は、神とか霊魂を意識してその御利益を願うアニミズムから文学が発生してきたといっているわけで、それが現在の古代文学研究の趨勢であるらしい。
しかしそうではないのだ。古代以前の人々に、そんな「ご利益を願う」などという今風の欲望などはなかった。
ひたすら他者に向けて思いを届けようとする「歌」があっただけであり、それが文学の発生だ。
折口の説によると、神に訴える、すなわち「うったえる=うた」が生まれてきたということになるのだが、それはたぶん逆で、はじめに「うたう」という言葉があって、そこから「うったえる」という言葉が派生してきたのではないだろうか。
「う」は「生む」の「う」、新しい気持ちが湧いてくること。「た」は「足る」「たっぷり」の「た」、「充足」の語義。「歌(うた)」とは、胸に思いがあふれ出てくること、すなわちときめき。そのあふれ出てきた思いを声に出すことを「うたう」という。
歌垣の歌も相手に「うったえる」ことにはちがいないのだろうが、べつに見えない神に訴えていたのではなく、目の前のその人に向かって声を差し出していたのが古代以前の人の言葉の作法だったのだ。
仏教伝来以前のこの国に神という概念などなかったというのがここで何度もいっていることだが、折口信夫は、古事記の話法を足がかりにして文学の発生を語ろうとしているから、神や共同体の由来を語る叙事詩こそ文学の発生であるということになる。
まあ世界中にそんな話は転がっているのだが、人類はそれ以前に「歌」という感慨の表出の文学を持っていたのだ。
たとえば、旅人を迎えてもてなすということはもう原始時代からなされてきた人類集団の普遍的な生態であったわけだが、そのときまず始めるのは歌と踊りで歓迎の意をあらわすことであって、べつに集団の物語を説明して聞かせていたわけでもないだろう。
別れのときだって、歌こそがそのかなしみの表現のための大切な道具になる。
そのようにして人と人が出会ったり別れたりすることから生まれてくる心模様こそが人類の文学が生まれてくる契機になったのだ。
神だの共同体などという話はずっと後の時代のことで、そんなレベルで発生論を語られてもしらけるばかりだ。



奈良盆地の人々が古事記という神の話を造形していったのは、神とは何かということをまだ知らなかったからである。そのあとに大和朝廷天皇の起源の話が付け加えられているのは、おそらく大和朝廷の意図によるのだろう。
彼らは、奈良盆地という大きな都市集落がどのようにして生まれてきたかという話は語っていない。神武天皇がやってきて大和朝廷を打ち建てたという話はあくまで大和朝廷という政治機関の話であって、奈良盆地の成り立ちの話ではない。それ以前から奈良盆地に都市集落があったわけで、その起源のことは何も語っていない。
彼らは、自分たちの集落の起源のことには、あまり興味がなかった。
その都市集落は、そのつどどこからともなく人が集まってきて生まれるものであって、はじめから存在するものではなかった。だから、起源の物語など、語りようがなかった。
いいかえれば、大和朝廷とは、奈良盆地に人を集めて祭りを催すための機関だったのだろう。だから「まつりごと」という。それはべつに、天皇家の秘義のことをいったのではあるまい。
「祭る」とは、みんなで楽しく盛り上がってゆくこと。「神を祀る」とは、神を迎える気持ちが胸に満ちてくることをいうのであって、そこに神を置くということではない。神などいないし知らないのだから、そんなことはできるはずがない。そんな作為性は、古代人の心ではない。神社は、神を迎える場所であって、神のいる場所ではない。そこのところを混同するべきではない。
「ま」は「まったり」の「ま」、「充足」の感慨。「つ」は「着く」「付く」の「つ」、「到着」の語義。「まつる」とは、満ち足りた気持ちが胸に灯ること、あるいは、充足の感慨が胸に満ちてくること、というべきだろうか。まあ、どちらでも同じことだ。
「まつり」の語源は、「まつる」という感慨のことをいったのであって、「神を設置する」とか折口信夫がいうような「天皇の秘義」などということだったのではない。
人類の文学は、感慨表出の「うた=抒情詩」として発生したのだ。
神社のことは、「みや」といったのだろう。だから、両者を折衷して「神宮」などともいう。
「み」は「見・味」、すなわち「賑わい」。「や」は「ヤッホー」の「や」、「遠い」とか「あこがれ」というニュアンス。
「みや」とは、「非日常の賑わい」あるいは「非日常の場」というようなニュアンスだろうか。まあ、日常の「けがれ」をそそいで「みそぎ」を果たす場である。
「都(みやこ)」とは、出現した別世界。
「みやび」とは、浮世離れした品のよさのこと。
「みやげ」とは、よその土地の珍しいもの。
「見やる」とは、遠くのものや珍しいものを興味津々で見ること。
やまとことばの「みや」には、すべて「別世界」というニュアンスがある。
天皇家の人々が「宮(みや)」を名乗っているのは、非日常の神の立場だからだろう。
生きていれば、日常の「けがれ」がどんどんたまってくる。とくに、縄文時代には山の中の小集落でつつましく暮らしていた人々が平地に下りてきて大集団の暮らしをするようになれば、「けがれ」の自覚はさらに募ってくる。その「けがれ」をそそぐ祭りの場としての「宮(みや)」は、どうしても必要だったし、その賑わいはさぞ豊かに盛り上がったことだろう。
その祭りから生まれてきたのは「歌」であって、神の秘義としての「祝詞」などというものはずっと後の時代のことにすぎない。そんなことは大和朝廷がつくられてからの話だ。神の秘儀などというものは大和朝廷の内部から生まれてきたのであって、民衆のあいだから生まれてきたのではない。
まず民衆の「歌」があった、それが文学の発生だ。



日本文化とか日本人のメンタリティを考えようとするのに、権力社会のことを語ればすむのかといえば、そういうものではないだろう。何はともあれそのまわりに大勢の民衆が生きて暮らしてきたのだ。
たとえば、神に言葉をささげる「祝詞」は天皇家の秘義としてはじまったのか、民衆の祭りの習俗としてはじまったのか、そこのところだってもう一度検証してみる必要がある。
祝詞は、神に願い事をする言葉だったのではない。神のめでたさありがたさを讃えて言葉を捧げることだった。
たとえば神社の背後の山に神が下りてくるのなら、その山に向かって言葉をささげた。その言葉を捧げる人が、やがて天皇と呼ばれる存在になっていった。だから、新嘗祭などのその習俗が天皇家に残っていったのだろう。
べつに最初は天皇家の秘義だったのではない。あくまで民衆の習俗だった。
もしも天皇家だけの秘義としてはじまったのなら、一般の神社の神官が祝詞を詠むというようなことは、畏れ多くてするはずがない。
民衆の習俗が天皇家に持ち越されていっただけなのだ。
天皇すらも神になっているということは、神という概念は民衆が生み出したものだということを意味する。天皇が自分は神であると宣言したのではない。民衆が天皇も神だということにしようと語り合っていっただけだ。そして日本列島における神という概念は、仏教伝来を契機に仏に対するカウンターカルチャーとして生まれてきた。
仏のことを知る以前に神という概念はなかった。これはもう、神道の関係者だって「本地垂迹説」としていっていることなのだ。
したがって、仏教伝来以前に祝詞などというものはなかった。
天皇がなぜ神になっていったかといえば、民衆にとっては大和朝廷そのものが非日常の別世界だったからだろう。つまり、ひとつの神社だったのだ。だから、天皇家の人々は「宮」と名乗る。
天皇家の秘義よりも先に民衆の祭りが先にあった。
大陸伝来の神という概念は、まず民衆によって解釈され、それが天皇家に持ち込まれた。古事記は、民衆の伝承文学が大和朝廷に持ち込まれたものである。それは、民衆による神という概念の研究成果だった。民衆社会にはそういう研究チームがあって、その成果を伝承してゆく役目の語部(かたりべ)がいた。
古事記は、天皇家の秘儀を語っているものではなかった。古事記をもとに天皇家の秘儀がつくられていっただけである。それは民衆によって初めて試みられた神語りだったわけだが、その話の中にすでに「歌」があったことが語られている。歌を幹にして叙事詩という枝葉が語られていったのだ。
古事記祝詞以前に、すでに「歌」という文学があった。
歌は、神にささげるものではなく、人が人に向かって差し出すものだった。人類は、そういう行為を原始時代からずっと繰り返してきた。
日本文学は神語りとしてはじまったのではないし、神語り自体が民衆のあいだから生まれて大和朝廷天皇家に引き継がれていっただけである。



古事記は、神語りを天皇の出自の話に結び付けてゆくことによって成り立っている。
しかし民衆は、奈良盆地という都市集落の起源のことは何も語っていない。
弥生時代奈良盆地はほとんどが湿地帯だったわけで、基本的には浮島のような台地に小さな住居集落と人が集まってくるお祭り広場が点在していただけであり、本格的な都市国家ではなかった。「なら」という言葉は、「たくさんの人が集まってきてときめき合っている場所」というようなニュアンスである。
つまり、弥生時代奈良盆地の民衆に共同体の住人という自覚はなかったというか、権力者が支配する共同体は存在しなかった。存在すれば、その時点で文字が使われ、共同体の起源の物語がつくられ、文書として残されていることだろう。
弥生時代奈良盆地は、多くの人が住み着いている場所ではなく、多くの人がやってきて賑わう場所であり、それらの人々の住処は周辺の山の中にあった。
多くの人がどこからともなくやってきて、やがてどこかへ去ってゆく。そんな場所だった。
そのころの奈良盆地は、第三者を排除して結束してゆくという共同体の制度性が希薄だったからこそ、大きな都市集落へと発展してゆくことができた。
つまり、いつのまにか大きな都市集落になり、いつの間にか共同体が生まれていた。
大和朝廷飛鳥時代になってあわてて国家の起源の物語を編纂しようとしたというのも、何か不自然である。大和朝廷自身にはそんな物語がなくて、民間伝承を借りてこなければならなかった。普通は、権力の側が民衆に押し付けてゆくものだろう。
いずれにせよ天皇は、権力社会よりも民衆との関係の方が深かった。権力社会には、天皇の出自の物語を紡ぎ出す能力がなかった。そのとき権力社会は仏教によって民衆を支配しようとしていたのだが、民衆はすでに神の系譜と天皇をつなげる物語を持っていたのだから、仏教によって天皇の出自を語っても説得力はなかった。たとえば、天皇弥勒菩薩の生まれ変わりであるとか、そんな話をつくっても意味がなかった。
民衆のつくった話を採用するしかなかった。



天皇家の秘儀といっても、すべて民衆の習俗を踏襲したものなのだ。民衆が古事記すなわち天皇の出自を造形し、それによって天皇を生き残らせてきた。
天皇家の出自が天皇家や権力社会によってつくられたものであるのなら、天皇はとっくに抹殺されていたことだろう。たとえば権力社会がつくったのなら、権力の交代によって天皇も同時に抹殺される。しかし権力が民衆を支配する装置であるかぎり、民衆が生み出した天皇を抹殺するわけにはいかない。この1500年にいろんな権力が交代してきたが、そのつど権力は、天皇を抹殺することによって民衆支配の効力が薄れることを恐れた。いいかえれば民衆の権力に対する従順さは天皇によって担保されているのであって、権力者との直接的な契約関係はなかった。
異民族に対する脅威のないこの国では、権力者が民衆を守る義務はなかったが、民衆を従属させる根拠も希薄だった。民衆を従属させる根拠は、天皇を存在させることにあった。権力者が警戒するべきは、異民族ではなく、民衆の反乱だった。民衆の反乱などほとんどない歴史だったが、それが天皇の存在によって担保されていることを権力者は本能的に知っていた。それはまあ、権力者自身が権力に対して従順なところを持っているからだろう。
とにかく権力を奪取すれば、その瞬間から「いかに民衆を効率よく支配するか」ということを考えてゆくのだろうが、それが、天皇を存続させることだった。
天皇が権力を握れば「いかにして民衆の天皇崇拝を掬い上げるか」ということになる。おそらく、そうやって古事記の編纂が発想されていった。
異民族に対する脅威を抱えている民衆なら、強い権力者のいうことを聞く。しかし日本列島には、そういう契約関係が成り立たなかった。
民衆を従順な存在にさせておくことが支配することだった。
民衆の従順さは、天皇を神として祀り上げてゆくことにあるのではない。それはたんなる従順さの結果にすぎない。
それは、見知らぬ他者にときめいてゆくことにある。意識が自分に張り付いていれば、他者に対する警戒心が生まれる。自分を忘れてしまわないと、見知らぬ他者にときめいてゆくことはできない。弥生時代の、どこからともなく人が集まってきてときめきあってゆくという祭りのダイナミズムは、誰もが自分を忘れてしまっていることにあった。
他者に対して警戒しないでときめいてゆく態度は、ひとつの従順さである。自分を忘れてゆくことが従順さになり、それが見知らぬ他者にときめいてゆくことになる。そういう心の動きのよりどころとして天皇を祀り上げている。天皇が神であることはたんなる方便であって、天皇は神でなくてもよい。ただもう天皇であればよい。
日本列島の民衆の歴史的な従順さは、見知らぬ他者にときめいてゆくことにあった。それはまあ異民族を知らなかったからで、この世で出会う他者はすべて警戒する必要がない相手だ、という前提があった。
そしてそれは、あの山の向こうや海の向こうには神の棲むユートピアがあるという観念も持っていない、ということでもある。生きてある「今ここ」がすべてだと思って現実を受け入れてゆくから、見知らぬ他者にときめいてゆくこともできる。より良い未来も神の国も死後の世界も思わないから、従順になる。そういう心のよりどころとして天皇という存在が機能していた。民衆にとって天皇は、生きてある「今ここ」の存在であり、「今ここ」の神だった。「今ここの神」なんてあり得ないのだが、べつにそれでもよかった。
おそらく新嘗祭は、民衆による新しく収穫した米を天皇に食べてもらう、という習俗としてはじまり、それが古事記をクッションにしながら天皇が神に新米を捧げるという天皇家の秘儀になっていったのだろう。
まあ日本列島の民衆にとっての天皇も神も、ときめき合うことのできる「見知らぬ他者」の究極の存在としてイメージされている。警戒するべき異民族を知らない民族だったからこそ、どこからともなく人が集まってきてたがいに「見知らぬ他者」にときめいてゆく習俗が洗練発達してきた。この習俗によって弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地は、日本列島でもっとも大きな都市集落になっていった。
それはもう縄文時代以来の伝統であり、日本文学も日本文化も、どこからともなく人が集まってくる賑わいから生まれ育ってきた。
日本文学の発生は、そういう出会いのときめきや別れのかなしみの表出としての「歌」だった。
日本文学だけではない、「歌」こそが人類の文学の原点なのだ。
折口信夫がいうような神にささげる「祝詞」が日本文学の発生だったのではない。
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