縄文人の歌・ネアンデルタール人と日本人75


「歌」の起源というなら、「あー」でも「うー」でも「おー」でもいい、原初の人類が猿とは違う人間的な音声を唸り声として発したことだって、歌だといえばいえるにちがいない。
人間は、歌う猿だった。
とにかく人と人が向き合い、そういうさまざま音声を交わし合うことは、それなりに楽しいことだったはずである。
人類の二本の足で立つ姿勢は、正面から向き合う関係をつくらせる。そうやってつかず離れずの関係になることによってその不安定な姿勢が安定する。またそれは、急所をさらしてしまって攻撃されたらひとたまりもない姿勢でもあるのだが、たがいに向き合い「空間=すきま」を保っていることによってたがいに攻撃する意思がないことを確認し合っている。
たがいに向き合い、たがいの身体のあいだにほどよい「空間=すきま」があること、二本の足で立ち上がった人類は、つねにこの関係をつくり合う習性になっていった。
そこで、音声を発し合うことは、たがいの身体のあいだにほどよい「空間=すきま」があって、たがいに攻撃する意思がないことを確認し合う体験にもなる。
原初の人類にとって、向き合って音声を発し合うことは楽しいことだった。それはもう、すでに「歌」の贈答だった。



人類が現代的な意味で「言葉」といえるものを持ったのは、おそらく十万年前くらいのネアンデルタール人のころからだったのだろうが、それ以前からすでに「歌」を交換し合う関係はあったはずである。
見知らぬものどうしなら、言葉は通じない。しかし、向き合って歌や踊りを交歓すれば、親密な関係になってゆくことができる。まあそうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
集団の外をうろついているときに違う集団のものと出会ってもし親しくなれるとすれば、歌や踊りのようなものを交歓することによってだろう。それによって、敵意がないことを示し合うことができる。人類の顔の表情が豊かになってきたことだって、そういう体験を繰り返してきた歴史のたまものだろう。
ネアンデルタール人は、おそらく旅人を受け入れもてなす習俗を持っていた。どうしても人口が減少するほかない氷河期においては、分散していた小集団どうしがひとつになってゆくということが起きる。それをしないとすべての集団が消滅ししてしまう。彼らが氷河期を生き残ってきたのはそういうことをしていたからであり、それはつまり、見知らぬ旅人を受け入れもてなしていた、ということを意味する。
原始人は戦争ばかりしていてそれが人類の知能を発達させた、といっている歴史家もいるのだが、猿よりも弱い猿だった人類がそんなことばかりしていたらたちまち滅んでしまったことだろう。
原初の人類は親密になってゆく関係として二本の足で立ち上がったのであり、そういう関係をつくりながらようやく生き残ってきたのだ。一年中発情している存在になったのも、二本の足で立つことの本質がそういう関係になってゆく契機を持っていたからだ。
ときめき合う関係をつくってゆくことは原始人の本能だったのであり、そこから歌や踊りが生まれてきた。
原始人にとっての集団は壊すべきものであり、壊すことによってより大きな集団になっていった。それが、見知らぬ旅人を受け入れもてなす作法だった。
ネアンデルタール人だろうと縄文人だろうと、ある集団がある時期に消えてなくなるという遺跡はいくらでもある。しかしそれは、戦争で皆殺しにされたというようなことではなく、ただ散り散りになってどこかに行ってしまったということを意味するだけだろう。
人間にとって集団は鬱陶しいものである。と同時に人と人の出会いにはときめきがある。そうやって集団が消えてなくなったり、際限なく大きくなっていったりする。
人と人の出会いのときめきは歌としてはじまる。集団の物語をつくって集団を維持しようとするのは、共同体(国家)の発生以降に芽生えてきた制度的な観念にすぎない。
ともあれ人間性の根源に人と人の出会いのときめきがあるとすれば、それは、言葉よりも先に歌があったということを意味する。歌が言葉を生みだしていったともいえる。その発せられた歌としての音声にさまざまなニュアンスが宿り、さまざまなニュアンスを聞き取ることができるようになっていったことによって「言葉」になってきたのだろう。
したがってそうした言葉の本質を考えるなら、人類の文学は、事物の説明である「物語=叙事詩」よりも先に、感慨の表出である「歌=抒情詩」があったはずである。
現在の言語論・文学論の常識は事物の表現が先にあったということになっているのだが、おそらくそうではない。



では、文学としての歌の発生は、どこに置けばいいのか。
日本列島の歴史でいえば、縄文時代からなされていたにちがいない「歌垣」を挙げることができる。
縄文時代万葉集の短歌や施頭歌のような形式があったかといえば、おそらくなかっただろう。
しかし、日本語だから、自然に5音や7音を使うようになっていったかもしれない。まあ決まった形式はないとしても、即興で言葉を並べるということはしていたはずで、とにかく見知らぬ男女が集まって歌を交わすという習俗はあったのだろうと推測することがきる。
もしも縄文人が男と女が一緒に暮らす「家族」という単位をつくって定住していたのなら見知らぬ男女が集まって歌を交わすという習俗は生まれてこなかったし、共同体の制度が出来上がったあとの時代にその習俗が生まれてくることもあり得ない。げんに奈良時代には歌垣を禁止する法律が出されている。
なのに折口信夫は、そのころになって恋の抒情詩が生まれてきたといっている。つまり、叙事詩から抒情詩が派生してきたというのだが、叙事詩とはようするに知っているものどうしの集団である共同体を止揚する物語であり、そこから見知らぬ他者との出会いのときめきを表現する抒情詩が派生してくることは論理的にありえない。
歌垣は共同体の秩序を乱す習俗だったのだ。とすれば、その習俗が生まれてきたのは共同体の発生以前の時代であるはずだし、共同体の叙事詩よりも先に感慨の表出としての抒情詩=歌があったことになる。
共同体が存在しない縄文時代だったから歌垣が生まれてきたのであり、奈良時代の民衆がそれを禁止されてもなお隠れてそれを続けていたのは、その時点ですでに長い歌垣の歴史があったことを意味する。とにかく男女が歌を贈答するという習俗は、そのあともずっと続いてゆき、それが日本列島の和歌の基本のかたちになっている。
おそらく縄文時代からすでに歌垣があり、その社会では男と女が一緒に暮らしていなかった。彼らは、たがいに見知らぬものどうしとして、その出会いにときめきその別れにかなしむということを繰り返して歴史を歩んでいた。
縄文時代こそ、抒情詩がもっとも盛んな時代だったのだ。日本文学は、そこにおいて発生した。



したがって、縄文風という和歌の形式はあったはずである。そしてそれはつまり、万葉集の詠み人しらずの民衆の歌や古事記に挿入されている歌だって、現代の歴史家が考えるよりもずっと高度なテクニックでつくられていることを考慮に入れないといけないということを意味する。なにしろ、そこにいたる1万年の歴史があったのだから。
いったいどこが高度だったかということは、僕は専門家ではないからうまく抽出することはできないが、甘く見ると間違う。
それが文字にあらわれた最初期の歌であるといっても、そこから歌の歴史がはじまったわけではないし、おそらくそこにいたるまでの長い歴史がある。まあ折口信夫は、その歴史に対する想像力や思考力がなさすぎる。
彼らは、知識を道具にしてものを考える習性がある。いいかえれば、知識を持っていないと何も考えることができないということだ。しかし、知識を振り捨てて裸一貫で問題の渦中に飛び込んでいかないとわからない、という場合があるのだ。世界中の人間が「文学は叙事詩として発生した」といっていても、疑わなくてもいいということにはならない。その知識をひとまず振り捨てて飛び込んでいけば、べつの歴史が見えてきたりする。



縄文風の和歌はどんな形式だったのだろうかと考えるのはなやましい。
山道を旅して疲れている男たちが、山の中に女子供だけの小集落を見つけて訪ねてゆき、
まず歌垣の輪が生まれる。
男たちは一夜の宿を乞い、女たちはそれを受け入れもてなしてゆく。
知っているものどうしならそんな手続きなど必要などないが、縄文社会ではつねに見知らぬものどうしが出会っていたのであり、そういう関係からは必然的に歌垣のような作法が生まれてくる。
この習俗は、世界中の原始的な社会に存在していた。ネアンデルタール人の社会にもあったかもしれない。ただ、こんなことを1000年前まで社会の中心的な男女間の作法として続けてきたのは日本列島くらいのものであり、続けてきたことの洗練発展があった。
日本列島の和歌は、縄文以来のそういう歴史の上に成り立っている。
見知らぬものどうしが出会ってときめき合うということ、ここに人間の生態の基礎があり、この生態によって人類は地球の隅々まで拡散していった。そしてこの生態の上に縄文社会が成り立っていたわけで、そのとき人々は、人類拡散の生態のままに日本列島を歩き回っていた。
見知らぬものどうしがときめき合うという生態は、異民族の脅威を知ってしまったらもう維持することができない。それが氷河期明け以降の文明社会の発生であり、しかし海に囲まれた孤島であった日本列島の縄文時代は、そうした文明(観念性)の洗礼を受けることなく、見知らぬものどうしがときめき合うという原始性を1万年にわたって引き継いできた。
縄文時代は、大陸のような農業生産と戦争を基盤にした共同体(国家)の建設に向かうというムーブメントが起きてこなかった。それは、そうした世界の動きをよそに、日本列島では人と人がひたすら出会いと別れを繰り返している社会になっていたからだ。
そして、ひたすら出会いと別れを繰り返していたから小集落ばかりだったのであり、同時にそれは、日本列島全体がすでに大きなひとかたまりの集団だったということでもある。ひとつの情報は、たちまちあちこちに広がってゆく社会だった。つまり彼らは、その時点ですでに弥生時代に大きな都市集落をつくってゆく能力を準備していたのだ。
まあ土器のこととかいろんな状況証拠はあるが、縄文時代は男と女が一緒に暮らして家族をいとなんでゆくという社会にはなっていなかった。
そして歌垣の習俗は、歴史家が考えるよりもおそらくずっと発達洗練していた。発達洗練しないはずがない社会だったのだ。



縄文社会は小さな集落ばかりだったが、男たちが日本中の山々を歩きまわっていたとしたら、すでに日本列島全体で通じる言葉を共有していたということを意味する。日本列島が、そういうひとかたまりの集団だった。
だから、たとえば富山県で採れるヒスイが日本中に運ばれていたという考古学の証拠が出てきたりする。
つまり、歌垣はあくまで見知らぬ男女の出会いの場であったが、すでに共有されている歌垣用の感慨表出の言葉があったということだ。
歌垣においては、何がどうのと事物の説明をする以前に、「あなたに会えてうれしい」という感慨を表出して差し出す必要があった。見知らぬものどうしなのだから、まずそれをしなければならない。
まあ「うれしい」といっても人さまざまで、そのニュアンスを表現するための言葉がさまざまにあり、その言葉によってカップルが決まっていったのだろう。
「あなた」との出会いにもっともふさわしい言葉をまず探し出して歌いはじめたのだ。それは、おたがいに共有している言葉でなければ通じない。
それが、「枕詞」である。
枕詞は、おそらく縄文時代からあった。それが万葉集に使われているそれと同じだったということもなかろうが、まず枕詞を差し出すというのが初期の歌の作法だったということはいえるはずである。
万葉集長歌の多くは、枕詞をつなげながら即興でつくっている。
枕詞が、あとの言葉を引き出してゆく。
文字のない社会の、しかも見知らぬものどうしの出会いの即興の歌は、枕詞が共有されていることの上に成り立っていた。
現在の古代文学研究者のあいだでは、枕詞はあとに続く言葉のただの飾りのように解釈されているのだが、これは大きな迷妄である。そんなことばかりいっているから、枕詞の多くの謎が宙ぶらりんになってしまっている。
古代以前の歌詠みにとっては、枕詞はどうでもいい飾り言葉ではなかった。それこそがもっとも思いこめて差し出される言葉だった。そしてその言葉に反応して女はカップルになることを受け入れていた。
それは、あとの言葉のために用意された言葉ではない。詠むものの思いのありったけが表出された言葉だった。



万葉集の有名な歌である。作者は額田王
・・・・・・・
あかねさす 紫野(むらさきの)ゆき標野(しめの)ゆき 野守は見ずや君が袖振る
・・・・・・・
額田王はもともと大海人皇子の奥さんだったが、のちに兄の天智天皇の奥さんになった。その立場で大海人皇子に贈った歌である。二人とも、まだ未練たっぷりなのだ。いったい、どんな事情があったのだろう。
この場合の「あかねさす」という枕詞は「茜色に染まった」と解釈されているのだが、もうひとつ、「あなたにこの熱い思いを伝えたい」という感慨のメタファーでもある。
昔を振り返っている歌である。表向きには「あなたはあちこちで人妻の私を追いかけ求愛してくるが人に見つかったらどうしようと心配でなりませんでした」というような歌なのだが、この「あかねさす」にはちゃんと「あのとき私も好きだったのよ」という思いが隠されている。
「あかね」の「あ」は、「あ」と気づいたり驚いたりする感慨の表出。「か」は「かっとなる」の「か」、飛び出してゆく心。「ね」は「ねえ」の「ね」、「親密」の語義。「あかね(赤)色」は、まあ情熱的で自己主張の強い色である。語源においては、そういう心の動きをあらわす言葉だった。
語源としての「あか」は、「はっきりと気付いてゆく心」すなわち「感動」あるいは「熱い恋心」をあらわす言葉だったのであり、そこから「赤い」という色の意味表現に使われるようになっていった。
この歌の「あかねさす」は、じつは「あなたに対する熱い思いがこみ上げてあなたの胸に飛び込んでゆきたくなっている」という心を隠し持っている。
どうやら額田王は無理やり天皇から口説かれたらしく、言うことを聞かないと大海人皇子が失脚させられたり殺されたりする心配もあったのかもしれない。そのあとも二人ともこうした未練たらたらの歌を何度も贈答している。この歌の大海人皇子の返歌は、「天皇のものになってしまったあなた(=紫草の匂へる君)が憎かったらどうしてこんなにも恋焦がれてしまうことがあろうか」というものだった。
「紫」は最高位の天皇を象徴する色である。だから、この贈答歌では、しきりに「紫」にこだわっている。「紫野」とは表向きには「紫草が咲きそろう野原」という意味だが、じつは「天皇のいる宮廷内」という意味を隠している、「標野」は宮廷の外だが天皇家の直轄地のことでつねに「野守」という警備員が立っているところ、つまり、戸外でもいつも人に見張られていたのですよ、と回想している。
ひとつの歌にいろんな思いや意味をしのばせてゆくのがこのころの歌の作法だった。「あかねさす」といったから単純に「茜色の」などと解釈すると間違う。「紫草が夕日に映えて赤っぽく照り映えている」ということは、「私は天皇(=紫)のものになってしまったけど心はあなた(=赤)のものですよ」ともいっているのだ。
そして「あかねさす」がもともと「熱っぽい恋心が湧いてくる」というニュアンスの枕詞であることは誰もが知っていることで、その恋心の所在をじつに巧みにぼかしているところも、この作者の名手であるゆえんであったのだろうか。あるいは、実際は額田王の歌ではなく、後世の歌の名手が集まったところでの額田王大海人皇子の贈答歌をつくってみようか、という座興だった可能性もなくもないともいわれている。なにしろこれは、天智天皇をコケにしたけっこう危ない歌である。「野守」とは嫉妬深い天智天皇を指している、と解釈している研究者もいる。
おそらくこの「あかねさす」という枕詞は、とても長い歴史を持っていたはずである。縄文時代からあったかどうかはわからないが、縄文人は、こういう言葉を直接的な感慨の表出として使っていた。それが、時代とともに「メタファー」として隠してゆく使い方になってきた。
わかる人にはわかるし、わからない人もいる。そういうところで伝えてゆき読み取ってゆくという醍醐味があったのだろう。
しかしそれがメタファーになっていったのは、それ以前に直接的な感慨の表出として使っていたという歴史があったのだ。
この「あかねさす」という枕詞は、叙事詩の言葉のふりをしながら、じつは抒情詩の言葉だった起源をもっている。古代人は、そういう味わいを意識しながら枕詞を使っていた。



枕詞は、一見事物の表現のような姿をした言葉でも、すべて「感慨の表出」の言葉として生まれてきたのであり、古代以前の人々はそのことを意識して使っていた。
たとえば「あさつゆの」とか「ふゆごもり」といえばもう事物の表現そのもののようだが、じつは「あさつゆの=一途な思い」、「ふゆごもり=思いまどう」というような感慨のニュアンスが隠されているのであり、それこそが起源の枕詞の用法だったのだ。
縄文時代は、男女の出会いに対しておそらく古代人よりももっと切羽詰まった感慨があった。男たちは山の中を歩き回り疲れ果てていたし、女たちは女子供だけで山の中に閉じ込められて暮らしていた。であれば、その出会いのときめきの感慨もひとしおのものがあったはずだし、そのときそれなりに豊かな言葉の交歓があったにちがいない。
ここでは、ひとまず縄文時代に歌垣の習俗があったという前提で考えてきた。見知らぬものどうしが出会ってときめき合うという生態には、人類700万年の歴史がある。そうして、あの火焔土器のような妖しく複雑で華麗な装飾を施すことができた人々の歌が、そうそう稚拙で単純なものであったはずがない。
ただ「うれしい」とか「たのしい」とか「なつかしい」とか「せつない」とか、そんなありきたりの言葉を使わないで「あかねさす」や「あまざかる」や「ちはやぶる」や「むらぎもの」というような言葉でさらに妖しく多様な心模様をあらわしてゆくことは、まさに火焔土器の装飾性と同じである。
ありきたりの言葉では心がこもっていないし、かえって誤解も生まれやすい。たがいに見知らぬものどうしだからこそ「あ、それわかる」と気づかされるときめきが必要になる。そういう体験に向かってさまざまな「妖しい」枕詞が生まれてきたのだ。
枕詞が縄文人の発明ではなかったという証拠はない。
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