源氏物語のあはれ・ネアンデルタール人と日本人76


「あはれ」という言葉を一音一義で解釈すると「フェードアウト」というようなニュアンスになる。まあしつこく思いつめるよりもさっぱり忘れながら生きて死んでゆきましょう、というのが源氏物語なのだろうか。
何より、自分のことなど忘れて何かにときめいたり夢中になってゆく体験がなければ、生きていてもつまらない。人間なんてしょせんはそういう他愛ない存在なのだということが、日本列島の文化の基礎になっている。
人間というものを理解する方法や視点は人それぞれあるのだろうが、たとえば人間の本質は憎悪や嫉妬や恐怖などの陰湿なものにあるとか、彼らはなぜそのようにペシミスティックなかたちで解釈しようとするのだろう。
それは、彼らの欲望なのだ。そのように解釈することで合理化できる何かがあるのだろう。
他人をつまらない人間だと思いたいらしい。そしてそのような陰湿なものを自分の中に見て、それを克服している自分を肯定してゆく。
彼らにとって自分とは、そのようにもうひとりの自分によってつくり上げてゆくものであるらしい。そうして終生自分をまさぐることから逃れられず、自分を物差しにして人間を解釈し、自分語りばかりするようになってゆく。
まあ、誰もが自分語りや自分探しをしたがる世の中だから賛同者はきっと多いことだろう。
そうして、そのようなペシミスティックな人間観が世の中に定着してゆく。
彼らは、他人をつまらない人間だとさげすみつつ、他人から称賛されたがっている。他人が自分を称賛するのは、他人が自分よりもつまらない人間であることの証明である。
そして彼らがそのつまらない他者を愛するためには、自分がそのつまらない他者から称賛されなければならない。「自分を愛するように他者を愛せ」といっても「他者を愛するように自分を愛せ」といっても同じことだ。文明人は、そのような言い方が好きであるらしい。
けっきょくそれは、自分を愛する方法なのだ。
まあ、他人が陰湿な存在だと思うのなら、他人に対してどんどん鈍感になってゆく。鈍感だから陰湿な部分しか見えないし、その陰湿さから我が身を守ろうとするなら、鈍感になるしかない。他人の称賛が得られなければそうやって鬱病という堂々巡りの罠にはまりこんだりもするし、得られれば勝ち誇って生きてゆくこともできる。
勝ち誇っているものの使命は、人間を陰湿さから救い出してやることにある。
人間を陰湿な存在だと見ることが何か深い思考であるかのように合意されたりしているし、彼らは、自分は深く思考しているというつもりになっている。
人間は本質において陰湿な存在である、だなんて、正体見たり枯れ尾花である。それは、あなたの人間に対する鈍感さを証明しているだけなのだ。
島国根性」などといって、日本人は本質において陰湿な存在である、などという解釈もけっこう幅を利かせていたりする。
けっきょく、他人を見下したいというその欲望がそんな解釈をさせている。
人間や日本人を陰湿な存在だと見たがる思考ほど薄っぺらなものもない。
ひとまず自分のそんな欲望を振り捨てて人間を見渡せば、それだけではすまない。
文明人には人間をそんなふうに見たがる欲望があるというだけで、べつに陰湿であることが人間の本質であるわけでも日本人の本質であるわけでもあるまい。人間関係の確執や競争にさらされている現代人には人間をそのように見たがる欲望がある。
多くの現代人がその罠にはまりこみ、おそらく人間=他者を見失っている。
まあ人間にそのような思考を強いる世の中だし、彼らは幼児体験としての人と人の関係に失敗しているのかな、と思わないでもない。
若いころにいろいろ苦悩したとか絶望したと語りたがる知識人は多い。そういう自分の卑小感に対する苦悩や絶望はおそらく、他人を見下したいという欲望の裏返しなのだ。
苦悩や絶望をしたからといって深い思考が得られるというものではない。そんなものはただ、思考を薄っぺらにし、心を歪ませただけなのだ。
その苦悩や絶望は、深い思考ができる資質から生まれてくるのではない。ただ他人との関係に失敗しているだけのこと。むしろ、深い思考ができない資質から苦悩や絶望が生まれてくるのだ。悩むことくらいバカでもできる。
深く豊かな思考とは、それらしいポーズをつくって体裁のよい言葉をあれこれ並べることではない。自分を振り捨てた直感によって本質をつかみ取ってゆくことにある。
若いころの苦悩や絶望や蹉跌などは、恥ずかしがって隠すくらいでちょうどいい。
ほんとに、人と人の関係はやっかいだ。人と人の関係に失敗して人間を見誤らせてしまう。



「恋愛」とか「失恋」などというものを特権化して語るべきではない。どちらにしてもそれは、男と女の関係の変則的な事態にすぎない。それを特権化して語りたがることは、苦悩や絶望を特権化して語りたがるのと同じことなのだ。彼らは、他者との関係の変則的な事態の上に立って、自分をまさぐり続けている。そうやって変則的な事態を特権化したがる。
恋愛という「選ぶ」関係、失恋という「排除する」関係。これは、集団内で結束して外部の他の集団を排除するという共同体の制度性の問題である。共同体の制度性は「選ぶ」ことと「排除する」ことの上に成り立っている。
「選ばれた」と舞い上がるから、逃げられると「排除された」と悩まねばならない。
まあ、人間は本質において陰湿で陰険な存在であるというのは文明というか制度的な観念の問題であって、人間性の基礎の問題ではない。このことは、4大文明の発生に関する考察のところで何度もいってきた。文明人なら誰でもそうした観念性をどこかに抱えてしまっているが、それが人間性や日本人の本質だというわけではない。そんなふうに考えたがるのは、おそらく幼児期のどこかで他者との関係に失敗しているからだ。人と人の関係を、選ばれる関係と排除される関係としてしかとらえられない。
この世の中には、無邪気にときめいてゆくことができる人がいる。それが人間のサンプルであって、苦悩や絶望や恋愛や失恋を自慢するあなたではない。



現在の地球上の人類の80パーセントくらいは一夫一婦制の社会で生きているらしい。
で、一夫一婦制ははたして人間の本性にかなっているかという問題提起もあるらしいが、たぶんそんな問題は存在しない。
どんな婚姻関係でも成り立つのが生き物の雌雄の関係なのだ。
だから、雌雄の関係が発達進化し、地球上を覆っていった。
男の性欲は、どんな女にもすり寄ってゆこうとするし、どんな女が相手でも「この女でなければ」と思うことができる。
それに対して女の娼婦性は、基本的に性欲を持たないからどんな男でもやらせてあげることができるし、どんな男がたったひとりのパートナーになってもかまわない。
だから、どんな婚姻関係でも成り立つ。つまらない女とくっついてしまうことも、つまらない男に引っかかることも起こりうる。
江戸時代の大奥やどこかの国のハーレムだろうと、不自然というわけではない。
ひとりの女を何人かの男で取り合いになることも、ロックスターに多くの女がむらがることも、逆に親の決めた相手と当たり前のように結婚することも、ぜんぶありだ。
ただ、基本的には、男のセックスアピールがやりたがっている気配にあり、女のそれはセックスに対してどうでもいいと思っているような風情にあるのかもしれない。「さかりのついたメスみたいな」というのは、セックスアピールとはいわない。女がむやみにやりたがると、男は逃げ出したくなることが多い。女の場合は、どうでもいいけどやりたいならいつでもやらせてあげる、という風情をエロチックとか官能的というのだろう。
女は、男の下半身に理性がないと軽蔑する。まあ、節操がないのは確かだ。スイッチが入ってしまうと、見境がなくなる。
とにかく男も女も、どんな相手とでも関係を持つことができるし、ひとりの相手がすべてになることもできる仕組みになっているらしい。そしてそれは、生き物の雌雄の関係の根源のかたちでもある。
メスは種族維持の本能で優秀なオスを選ぶ、などというのは嘘だ。どんなオスでもやらせてあげることができるし、べつにやりたいとも思っていない。
人間は、見知らぬ他者とときめき合う関係を持つことができる。生き物に雌雄があるとはそういうことで、人間は猿よりももっと生き物としての原初的な衝動を持っている。
たとえ見知らぬ相手であろうと他愛なくときめいてゆくのが人間性の基礎であり、それが日本文化の正味の姿なのだ。生き物としての雌雄の関係は、そのような生態をつくるような仕組みになっている。
近ごろでは婚活とやらにがんばっている女が多いらしいが、それは不自然で制度的ありすぎる。男なんか、目の前にいるのをみつくろってやらせてあげればいいだけである。原始人や日本列島の男と女の歴史はそのようにして流れてきた。



そりゃあ現代社会においては、計算ずくで男にやらせている女は多いだろう。しかしそれが女のすべてではないし、女の本質でもない。
「計算ずく」とは、「メスは種族維持の本能でオスを選択する」ということだろうか。現代人は、そういう通俗的な思考をしたがる。
メスは、「選択」などしていない。「やらせてくれ」と寄ってきたからやらせてやっているだけだ。まあ人間の女は、その寄ってきかたに可愛げがなければなかなかその気にならないのだが、それを「選択」する態度だと考えるのは男の恨みがましさにすぎない。それは、あなたの可愛げのなさを拒否されただけなのだ。そんな態度くらい、猿でも鳥でも持っている。
彼らは、勝手に可愛げのない人間になって苦悩したり憎悪したりしている。
人は根源において、自分は世の中や他者から置き去りにされている、という意識を持っている。このことが、人類の知性や感性の進化発展をもたらした。しかし文明人は、このことが受け入れられなくて、置き去りにされているというポーズをとりながら、どこかで世の中や他者を置き去りにしようとする欲望をふくらませてゆく。その欲望は、自分を語りたがる。世の中や他者をそのように見ている自分を語りたがる。
自分を語るということは、世の中や他者を置き去りにしている自分を語っていることだ。
みんなして世の中や他者から置き去りにされているふりをしながら、じつは世の中や他者を置き去りにしている自分を語りたがっている。
世の中や他者から置き去りにされているという意識があるから、自分を捨てて「やらせてくれ」と寄ってゆく態度にもなる。
人間はもともとそういう存在だから、豊かに認識してゆく知性や感性が発達してきた。
「認識」することは、自分を捨てて「やらせてくれ」と寄ってゆくことだ。自分を捨てて世界や他者に憑依してゆくことだ。たとえば食い物の味を感じる(認識する)ことは、自分に張り付いた意識を引きはがして食いもの(味)に張り付いて(憑依して)ゆくことだ。言い換えれば、それくらいの率直さで「やらせてくれ」と寄ってゆくことは、そうかんたんなことではない。
意識は根源において、自分から離れて世界や他者に憑依してゆくという運動性を持っている。
現代社会では自分を上手につくっている人がオピニオンリーダーになってゆくが、われわれは、自分を捨てて他愛なく他者にときめいてゆくことができる人から学ぶ。そこにこそ、ただのポーズではないほんとうの「置き去りにされている」というタッチがある。
なんにせよ、人間の知性や感性は「置き去りにされている」自覚から生まれ育ってくる。
自分をまさぐりながら世界や他者を置き去りにしようとすることによって、知性や感性が停滞してくる。
苦悩や絶望を特権化したがるのは、世界や他者から置き去りにされてある状態を反転させて世界や他者を置き去りにしてゆく思考である。そこには、「置き去りにさている」ものとしての世界や他者に対するときめきがない。
自分を捨てて無邪気に問題の渦中に飛び込んでゆくということができないから、知性や感性が停滞するのだ。



自分を捨てて無邪気に問題の渦中に飛び込んでゆく……この世の中にはそういう率直さを持った人がいるし、古代以前の人々はみなそれを持っていたし、それが日本列島の文化風土の基礎になっている。
それは「今ここ」を生きてあるわれわれの問題でもあるのだ。
文化とは、人と人の関係をどうやりくりしてゆくかという命題のもとに生まれてくる作法・生態のことをいう。
おそらく縄文時代につくられた日本文化の基礎は、人と人が他愛なくときめき合ってゆく生態の上に成り立っている。
たとえば「源氏物語」の男女の出会いと結びつきはあまりにもかんたんで、それほどに光源氏がいい男だったとか見染められる女たちがいい女だったとかとよく解説されるが、その前にまず、それほどに人と人がかんたんにときめき合う社会だった、ということがあるはずで、その前提がなければあの物語は成り立たない。
そして人と人の「別れ」を当たり前のこととして受け入れる社会でもあったから、源氏の女遍歴がスムーズに進んでいった。どうして彼らはあんなにも率直に別れを受け入れることができたのだろう、という感想は、現代人ならどうしても抱いてしまう。
まあ、他愛なくときめき合う社会だったから、別れも率直に受け入れてゆくことができたのだろう。このような前提を持った社会であることの上に源氏物語が成り立っている。あの物語の登場人物たちがいかに魅力的であったかということは、彼らがいかに他愛なくときめき合い、いかに率直に別れを受け入れてゆくことができたかということにある。
つまり彼らの社会には現代的でごたいそうな「恋愛」も「失恋」もなかったということだ。他愛なくときめき合い、あたりまえのように別れを受け入れていった。それはもう、縄文以来の伝統だった。
彼らが「あなたのことをひたすら思っている」と歌うのは、「出会う」という体験をしてしまったことの運命を受け入れる態度だった。ときめきは、出会うという体験にある。「あなた」にときめくというより、「あなたと出会う体験」にときめいている。したがって現代人のように、あなたがどんな存在であらねばならないかと要求したり、あなたがどんな存在であるかとあれこれ吟味するというようなことはあまりしない。
彼らには、「人生」という意識がなかった。だから率直に「別れ」を受け入れることができた。別れを回避して人生をつくり上げようとする意識がなかった。
おそらく「恋愛」とは、自分の人生を装飾するか充実させる体験なのだろう。人生を意識するから、別れが受け入れられなくなる。それは、人生を途中で切り落とされる体験なのだろう。
しかし、切り落とされたっていいのだ。人生は「今ここ」にしかない。つねに「今ここ」があるだけなのだ。そういう意識でなければ、他愛なくときめいてゆくこともできない。
源氏物語の登場人物は、自分の人生の損得勘定などしていなかった。つねに「今ここ」に立って心を動かせていた。
源氏物語には恋愛も失恋も書かれていない。そのとき紫式部は、あくまで男と女の関係としての「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を書いたのであり、それはもうオスとメスの関係を書いただけだともいえる。だからそれが、普遍的な物語になり得た。まあ、男と女がそういう関係を生きていた時代だったらしい。
他愛なくときめき率直に別れを受け入れてゆくことは、生き物としてのオスとメスの問題であると同時に、究極の男と女の関係の問題でもある。源氏物語が普遍的な文学だというのなら、そういうことになる。
源氏物語の登場人物はみな、「別れ」をかなしみつつそのまま受け入れていた。苦悩も絶望もしない。それが日本文化の基底の姿であり、失恋の苦悩や絶望を特権化して語りたがる現代人のナルシズムとは大いにちがう。
たとえば、物語の終盤に来て、光源氏の死に関する顛末など何も書かないで、話はあっさりと光源氏が存在しない世界へと移ってゆく。そんな物語の構成が可能だったのは、それほどに死も別れも当たり前のようにして受け入れている時代だったからだろう。
「あはれ」とか「はかなし」というとき、他愛なくときめき率直に別れを受け入れてゆく心の動きがはたらいている。
人間の心の動きの本質が、絶望だの苦悩だの憎悪だの嫉妬だのということの上に成り立っているのなら、「あはれ」や「はかなし」という感慨は湧いてこない。
絶望も苦悩も憎悪も嫉妬も文明人のたんなるナルシズムであって、べつに普遍化・特権化するほどの心の動きではないし、人間の本質でもない。
他愛ないときめきこそ、人の心の起源であり究極なのだ。
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