恋愛と失恋・ネアンデルタール人と日本人77


日本文化論を考えるなら、なぜ男と女がときめき合うということが起きるのだろうか、という問題も避けて通れない。
たぶん男と女の関係の底に流れている心のあやは、それぞれの国でそれぞれ違いがあるのだろう。
日本人の男と女の関係のあやの本質は「源氏物語」に見ることができるのかもしれないし、現在はずいぶん変質してしまっているともいえるのだろう。
ある人が「女(妻)を捨てた男は信用できない」といっていた。
笑っちゃうよね。頭おかしいんじゃないの?という話である。いや、こんなことをいう人は怖いし、気味悪い。
女(妻)は、飼っていたり捨てたりする犬や猫と一緒か……というツッコミを入れたくなってしまう。女にやさしい人間のような顔をして、女を人間扱いしていない。一度ツバをつけた女はもう自分のものだと思いこんでしまう。所有欲というものが強いんだろうね。
相手がたとえ従順な女であっても、自分のものではない。自分のものではないと思えば、逃げ出したくなるときもあるし、どんなに尽くされても、俺はおまえのものではない、といいたくなってしまうときもある。
相手は自分のものではないのだから、別れるということが起きることもあるし、自分のものだと思って飼っておく権利も飼っておかねばならない義務もない。しかし、そういう権利や義務を意識する男が、この世の中の信用される男なのだろうか。
彼らの頭の中は、この社会の婚姻制度や家族制度としっかり手を結んでいる。というか、そういう制度に頭の中を冒されてしまっている。
セックスをしたからさせてやったから自分のものになるというわけでもない。妻であろうと夫であろうと子供であろうと、自分のものである相手などいない。人類の歴史はそのような感慨とともにはじまったし、それが究極でもあるのだろう。
まあ、手痛い失恋をすると、そういうことがいいたくなってしまうのだろうか。
おそらく縄文人の男女はじつにあっけなく別れたりくっついたりする人たちだったのだろうし、その伝統の上に「源氏物語」が生まれてきたのだろう。光源氏はたくさんの女とくっついたり別れたりしてきたが、「捨てる」という自覚などなかったし、女たちも「捨てられた」と恨みもしなかった。
この世の中には、いろんな出会いと別れがある。人それぞれいろんな感慨があるのだろうし、なんの感慨ももよおさない人もいる。ただ、捨てないからえらいとか、逃げ出したから信用できないとか、そんな図式が成り立つわけでもないだろう。
「捨てられる心配がないからこの人と一緒にいてもつまらない」という女だっている。未来という時間が決定されているような味気なさや息苦しさがある。
人を支配下に置いたり支配されることに入っていったりする関係に頭の中が冒されている人の考えることはよくわからない。



彼らが考える男と女の関係は「選ぶ=選ばれる」の関係になることらしい。
「種族維持の本能」がどうとかこうとかという言説だって、そういうことだろう。それが、現代社会の思考パターンらしい。
生き物の脳は、そんなこと以前に他愛なく「ときめく」という体験をするではないか。
好きな洋服を買うことでもいい。それは、いやなものを排除して好きなものを選択するという行為だろうか。まあ、そういう傾向がないとはいえない。しかし同時にそれは、その出会いにおいては、ほかのものは見えていないだけであって、べつに排除しているわけではない。目の前のそれがすべてだと思っている。
誰しも目の前の異性がこの世の異性のすべてだと思ってしまうほどのときめきを体験することはあっても、そのとき、ほかのすべての異性と比べているわけでもあるまい。
われわれの視線は、一点に焦点を結ぶ。それが、「ときめく」という心的現象である。
べつに排除するわけではない、まわりがぼやけて見えなくなるだけだ。
あの水平線の向こうは何もないと思うとき、べつに水平線の向こうを排除しているのではない。「ある」と思えなくなっているだけだ。
「ある」と思って排除することと、「ある」とは思えなくなることとは決定的に違う。
「ある」はずがないのに「ある」と思い込んで、「排除する」という心の動きが起きてくる。
授業中は先生だけを見ていなさいといっても、先生のまわりのものも同じようにはっきり見えているのなら、まわりのものを「排除する」ということをしないといけない。先生に興味がないのなら、先生という一点に焦点を結べるはずがない。そうやって「排除する」という心の動きが肥大化してゆく。
人に対して鈍感だから、人を「排除する」という心の動きが強くなってしまう。
まあ現代社会は何もしないでもたくさんの情報が入ってくる環境だから、一点に焦点を結ぶという心の動きがあいまいになってくる。一点に焦点を結ぶためには、それらの情報を取捨選択しなければならない。
現代社会では、「排除する」という心動きを持たないと生きてゆけないらしい。しかしそれでも心が豊かに「ときめく」という体験をするときは、排除なんかしないでただもう一点に焦点を結んでいる。
心が一点に焦点を結んでゆくのは、人間の自然である。そういう自然を喪失した「選択する」とか「排除する」という心をむやみに特権化するべきではない。
恋愛が第三者を排除して特定の相手を選択することであるのなら、失恋したときには「排除された」と悩まねばならなくなる。
古代人の「出会いのときめき」は「恋愛=選択」ではなかったし、「別れのかなしみ」は「失恋=排除」ではなかった。



日本人は山の姿に対する親密感が深い。そのとき、山の向こうは何もないという意識になっている。それほどたしかに山の姿に焦点を結んでいるだけであって、山の向こうを排除しているわけではない。「何もない」と思っているだけだ。「何もない」と思うほどにときめいている。まあ古代人は、そういうときめき方をしていた。おそらくそれは、山にかぎったことだけではない。男と女のときめき合う関係もそのように成り立っていた。いや、この生そのものの感じ方においても、この生の外側の死後の世界などというものは知らなかった。
人類は、氷河期明けの文明の発生とともに、山の向こうを「ある」と思い定める観念性を身につけていった。それによって山の向こうの異民族を排除したり、山の向こうの神の世界としての死後の世界(天国・極楽浄土)をイメージしたりしながら、共同体の結束を図ってきた。
しかし海に囲まれた日本列島ではそうした制度的な観念性の洗礼を受けることなく、あくまで海の向こうや山の向こうは「ない」と思い定めてゆく文化を洗練発展させながら歴史を歩んできた。
縄文時代の1万年に、共同体は存在しなかった。
目の前の「今ここ」のこの生に焦点が結ばれているということは、神も霊魂も知らない、ということであり、そこから「あはれ」や「はかなし」の感慨が生まれてくる。
日本列島の住民は、仏教伝来とともに神や霊魂という概念を受け入れつつ、もう一方に神や霊魂を知らない心を残してきた。神や霊魂を知らない心で神や霊魂を信じていった。
神や霊魂というこの世界やこの生の秩序を受け入れつつ、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が交錯するこの世界やこの生の混沌を生きていた。
「焦点を結ぶ」とは、この世界がクリアに見えるということではなく、一点に焦点が結ばれているのだから世界そのものは逆にぼやけて混沌として見えるということなのだ。その世界観から「あはれ」や「はかなし」の感慨が生まれ、やまとことばの無規則ともいえるようなあいまいで融通無碍な機能が成り立っていた。
視覚が焦点を結ぶということは、この世界がぼやけて見えるということなのである。
発達心理学ではよく赤ん坊が成長することを「世界がクリアに見えてくる」過程だというし、言語学者はそのことから敷衍して人類が言葉を獲得したことを「世界がクリアに見えてきたことの結果だ」といっている。
おそらくこれが現在の世界の常識になっているのだが、こんなことは大嘘なのだ。
世界がぼやけてしまうほど「今ここ」に焦点を結んでしまうから、思わず音声がこぼれてしまう。その豊かな感慨とともに言葉を発するということを覚えてくるのだ。
赤ん坊は、言葉を覚えるから言葉を発するようになるのではなく、その前にまず、「今ここ」の対象に焦点を結んで思わず音声がこぼれでしまうくらいの世界に対するときめきを体験している。彼らはなぜ自動車のことを「ぶーぶー」というのか。言葉を覚えるのなら「自動車」とか「くるま」といえばいいだけだが、彼らが「ぶーぶー」というとき、その対象に焦点を結んで世界はぼやけて見えている。
赤ん坊の視覚が最初に獲得する体験は、世界の混沌の中から秩序があらわれてくることではなく、混沌の中から一点に焦点を結んでゆくことであろう。世界はいぜんとして混沌の中にある。
たとえば赤ん坊が、そこにテーブルがありその上にリンゴが置かれてある、という関係がわかるかといえば、それは無理だろう。リンゴはテーブルの一部にしか見えないし、テーブルとリンゴの材質の違いなんかわからない。リンゴだけに焦点を合わせて見ることを体験して、はじめてリンゴとテーブルの違いがわかってくる。お母さんがその林檎を手に取って別の場所に動かすのを見たとき、それがリンゴという固有の存在であることがわかる。そうやってリンゴに視覚の焦点を合わせることを覚えてゆく。
赤ん坊にとって世界と出会うことは、世界の全体の関係がわかることではなく、世界の一点に焦点を合わせてゆく体験である。つまり、まず世界のパーツをひとつずつ確認してゆくところからはじまるのであって、それがわからないことには世界の全体像なんかとらえようがない。それは「焦点を結ぶ」という体験である。そうやってひとつの存在の「輪郭」を確認する。物性ではなく「輪郭」、リンゴがどんな物質であるかということはまだわからない。
おそらくかなり早い段階から世界はちゃんと見えているが、「焦点を結ぶ」ということがうまくできない。焦点を結んでリンゴの「輪郭」を確認するということが。
「輪郭」にときめいてゆくのは、この生の本能である。
そうやって日本人は、山の稜線という「輪郭」に本能的にときめいている。
端っこや輪郭のことを、「きは(際)」という。「は」は「はかない」の「は」、「不在」を表す。「きは」とは「この先はもう何もない」というニュアンスであり、その気分で「山の端(は)」という。



この世界のことが何もかもがよくわかってよく知っている人は尊敬されるのかもしれないが、それだけひとつの対象に焦点を結ぶ知性や感性が欠落しているということなのである。
よく「学者バカ」などというが、「ほかのことは知らない」ということの方が優れて知的であったりする。
対象に焦点を結ぶことは、世界がぼやけて見える体験なのだ。赤ん坊が成長することは、世界がぼやけて見えてくることなのだ。そうやって人は世界の「あはれ」や「はかなし」に気づいてゆく。
たとえば山の中で、遠くから鹿のかなしげな鳴き声が聞こえてくるときに「あはれ」や「はかなし」の情趣を覚えるとしたら、それほどに鹿の鳴き声に聴覚も心も焦点が結ばれているということだ。
それは、あはれではかないものに焦点を結んでゆく心の動きである。
海に囲まれた日本列島では、海の向こうの異民族も神の国も知らないまま、「今ここ」の一点に焦点を結んでゆく心が発達していった。焦点を結ぶということが極まれば、はっきり見えているのは一点だけで、世界はぼやけてゆく。これが「あはれ」であり「はかなし」であり、そういう感慨を携えて人は目の前の「今ここ」にときめいてゆく。
赤ん坊の無邪気な表情は、目の前の「今ここ」に焦点が結ばれている状態で、それが、「ときめく」という体験である。大人のように世界を均質に見まわして分析しようとなんかしていない。
彼らが政治経済の問題やら社会問題やらをあれこれ分析して語りたがるのは、世界が均質に見えてしまっているというひとつの病理である。焦点結ぶということがうまくできなくなってしまっているのだ。彼らは人や世界を分析することは上手だが、「ときめく」ということができない人たちでもある。そうやって大人は汚れてゆく。汚れないと生きてゆけない社会であるのかもしれないが、少なくとも日本列島の伝統文化には、人間の根源的な体験としての「焦点を結んでゆく=ときめく」というコンセプトがある。
この「焦点を結ぶ」ということができなければ「あはれ」も「はかなし」もわからないし、人間の原体験としての人と人が他愛なくときめき合ってゆくということも起きない。



人と人が関係を結ぶことには、いろんな契機がある。
どんな友情か恋愛かといっても、人それぞれでよくわからない。
どんな恋愛をしようと他人がどうこういえることでもない。
ただ、女にも性欲があって種族維持の本能で男を選別している、などといわれると、それは違うだろうと思う。男と女の関係の根源は、そんなところに前提があるのではない。
女にも性欲があって優秀なオスの遺伝子を欲しがっているというのなら、メスとはオスの取り合いをする存在かということになる。動物の世界でメスどうしがそんなことをしているという話はほとんど聞かない。人間の世界でも全体的にはとりあえず目の前のオスを見つくろっているだけで、それで世界が動いている。
人それぞれの恋愛があり失恋があるのだろうが、自分がいい男だから女に選ばれ惚れられたといい気になることも、女に裏切られたと苦悩したり絶望したり憎悪したりすることも、まあ大したことでもない。
とりあえず人類全体を眺めてみれば、女は、目の前にあらわれた男に対してやらせてあげたり拒否したりしているだけだろう。
女が拒否するのは、タイミングが悪いとか男の寄ってきかたに可愛げがないとか、まあいろいろまぎれはあるだろうが、拒否されるのは不当だという理由は存在しないと思った方がよい。メスは、優秀なオスだからという理由でやらせてやっているわけではないから、いくら自分が優秀なオスだ主張しても、それは通じない。
基本的には、女にとってときめくかどうかということは、優秀なオスかどうかということではない。
少なくとも古代人は、現代人ほどの欲望や作為性で生きていたわけではない。
もしもこの世界のなりゆきに身をまかせて生きようとするなら、「焦点を結ぶ=ときめく」という体験が行動の契機になる。
女であろうと男であろうと、相手にときめくことは「焦点を結ぶ」という体験であって、「選択する」という体験ではない。
生き物に、あらかじめの(生きようとする)欲望などというものはない。生きてあれば世界や他者に対して「焦点を結ぶ=ときめく」という反応が起きて、そこから動きはじめる。
人と人は関係しようとする欲望があるのではない、出会えば反応が起きて、そこから関係が生まれてくる。人間があらかじめの「愛」などというものを持っていると思うべきではない。そんなものを当てにするべきではないし、そんなものを持っているつもりになってもしょうがない。
女は、気が向けばやらせてくれるが、やりたいと思っている存在ではない。だからたいていの生き物は、オスが寄っていく生態になっている。オスだって、メスとの出会いに反応して寄ってゆく。
男は、女に寄ってゆこうとする衝動を先験的に持っているわけではない。女と出会えばどうしても反応して寄っていってしまうというだけのこと。
それは、「出会う」という場において起こる。
出会えば、焦点を結んでしまう。
「意識の志向性」などというが、意識は見ようとなどしていない。見えてしまうだけだ。見えてしまって驚き、「なんだろう?」と焦点を合わせてゆく。「志向性」などというものを持っていたら、「ときめく=焦点を合わせる」ということは起きない。視界のすべてのものが等質に見えているだけだ。それは、病理的現象だろう。
赤ん坊の視覚は、まず一点に焦点を合わせることを覚える。そうして、焦点を合わせることがわれわれの生のいとなみの基礎になってゆく。
人間は、「出会う」という体験をしなければ何もしない。そういう怠惰な部分は、誰にだってあるだろう。意識の根源のはたらきに「志向性」などというものがあれば、怠惰な人間など存在しないし、また「ときめく」という体験もしない。
生き物の意識に世界が存在するという前提はない。したがって「志向性」もない。意識は根源において怠惰であり、意識であろうとする「志向性」はない。意識は世界と出会った身体が生み出すのであって、先験的に存在するのではない。
それでもわれわれは、生きてあれば何かと出会ってしまう。世界が見えてしまう。その体験にせかされて意識が発生し、やがて「世界を認識する」という知性や感性のはたらきになる。
妙な志向性など持っていない怠惰な人のほうが、豊かにときめくことのできる感受性を持っていたりする。
人間に、人と人の関係をつくろうとする先験的な衝動などというものはない。出会うという事態を体験することによってそういう関係が生まれてくるだけだ。
人間は根源において怠惰な生き物であり、何ごともなければないですむし、それでも生きてあれば避けがたく何かと出会ってときめいてしまう。
われわれ怠惰な生き物に、恋愛などというご立派なものなどなくてもいいのだし、失恋という体験がそれほどの重大事でもないということだ。
それでも意識は「出会いのときめき」を体験してしまう。意識のはたらきとは「出会いのときめき」であり、それが「焦点を結ぶ」という体験である。この体験にせかされて人の行動が生まれてくるのであり、この体験にせかされて縄文以来の日本文化が生まれ育ってきたのだ。
基本的に日本文化に「恋愛」も「失恋」も存在しない。「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」という「焦点を結ぶ」体験があるだけなのだ。そしてそれは、生き物としての根源的な存在のありように通底している体験である。
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