妄想って何?・ネアンデルタール人と日本人・34


ある人が「ユーミンの歌はブスの妄想だ」といっていた。そうかもしれない。
そして、かつて「勝ち組負け組」だかの言葉を流行らせた酒井順子という人が最近『ユーミンの罪』というユーミン賛歌の本を出して「ユーミンの歌とは女の業の肯定である」といっているそうな。
まあ僕なんかは、おまえみたいな脳みその薄っぺらな女に「女の業」の解説などされたくないや、と思ってしまうのですけどね。
高度経済成長の時代に踊らされた女たちの妄想(=肥大化した自我)が、「女の業」かいな?
現代社会では、自我の追求拡大によって豊かな知性や感性が育ってくるという幻想がある。自分のことを充実して感じていれば、そりゃあ幸せだろう。しかしそれは、そのぶん世界や他者に鈍感になっているということだ。
現代人は、自分の幸せを豊かに実感しながら世界や他者を豊かに反応してゆく知性や感性も持とうと願っている。しかしそんなふうに意識を両方同時に向けるということはたぶん無理なのだ。世界や他者を豊かに反応してゆく知性や感性は、自分のことを忘れている心とともに育ってくる。
知性や感性は、もって生まれたひとつの才能という側面がある。上には上があるし、人それぞれに限界を抱えている。自分にこだわって生きてきて、大人になってからそれを持とうとしてももう手遅れだ。自分にこだわりながら生きていれば知識や処世術をため込むことはできるが、それによって表現できるのは知性や感性があるように見せかけることだけで、知性や感性そのものではない。
まあ、知性や感性があるように見せかけることができる知識や処世術がある。現代はそれがものをいう世の中だとしても、それが原始人の社会だったのではない。原始人は純粋な知性や感性を持っていたのだ。人類史は、むかしに遡れば遡るほど知性や感性は純粋になってゆくし、現代に近づけば近づくほどに作為的な見せかけの知性や感性が多くなってくる。
「自我」は誰でも持っている。その自我を拡大してゆけば知識や処世術が得られる。しかしほんとうの知性や感性は自我をフェードアウトしてゆくところからうまれそだってくる。つまり、自分を忘れて何かに夢中になってゆくこと、そうやって世界や他者に反応してゆく脳のはたらきを知性や感性という。
自我を拡大することと、自我をフェードアウトしてゆくこと、まあおおざっぱにいって、この二つのベクトルの違いが現代人と原始人の生きる作法の違いになっている。しかし現代人といえども、この「自我のフェードアウト」として感動を体験しているのであり、そこからしか知性や感性は育たない。



現代人は、白紙の自分で世界や他者に反応してゆくということをしない代わりに、自我をいっぱいに携えた自分がすでに持っている知識で世界や他者を分析吟味してゆくということをする。現代人の意識においては、自我が先行し、世界や他者はすでに解決済みの存在として消去してゆく。わかってしまえばもう関心を持つ必要はない。世界を消去してゆくことによって、より鮮やかに自分が浮かび上がる。そうやって意識は自分に憑依しながら自我を満足させている。
自分は正しいとか清らかだとか賢いとか幸せだとか、陰に陽にそんな自慢というか主張をして自我を満足させてゆく。まあ、凡庸な人間ほどそんなふうに思いたがる。そういう自覚がないと生きていられない、ということだろうか。それは、ひとつのトランス状態である。
自我の拡大によるトランス状態と自我のフェードアウトの動き、人間の意識はこの二つのベクトルのはたらきがある、ということだろうか。そして自我の欠損感を抱いているときはトランス状態を目指すし、自我を持て余しているときはフェードアウトに向かう。
人間の意識は、自我がはたらいているところからはじまる。そこから自我を満足させてゆこうとするか、自我を持て余してフェードアウトさせてゆこうとするか。まあ人それぞれの流儀があるのだろうが、共同体の制度性は人の心を自我の拡大に導き、それによって共同体の結束が強化される。つまりその流儀で生きないと社会と調和できないし、社会で出世できない。そうして人間性の自然としての原始人の流儀は自我をフェードアウトさせてゆくことにあり、そこから知性や感性が育ってきて、まざまな人間的な文化が生まれてきた。
現代人の自我意識は、世界や他者に鈍感になってゆくことによって自分を確認してゆく。鈍感にならないと自己を確認できない。そうやって自我が拡大してゆく。現代人にとっての世界や他者は、消去するべき対象として自己の前に存在している。愛だとかなんとかといっても、他者なんか自分を確認するための道具であり、愛という美名のもとにそんな自分を正当化してゆく。他者を愛している自分を愛しているだけだ。誰もがというつもりはさらさらないが、そういう場合はたしかにあるし、今どきはそういう恋が巷にあふれている。
他者を消すことはできないが、鈍感になってゆくことはできる。鈍感にならないと、自分をちゃんと確認できない。そうやって自分は正しいとか幸せだというトランス状態に入ってゆく。
しかし人と人の関係の基本は自分をフェードアウトさせながらときめき合ってゆくことにあるのだから、フェードアウトさせているふりを見せびらかしながら見せびらかしている自分に酔ってゆくという芸も生まれてくる。現代人の自我追求の作法はいろいろとややこしい。
他者を自分の確認のための道具にして自分に酔いしれている人間ほど、自分は誰れよりも愛にあふれた誠実な人間だというポーズをとりたがる。
何はともあれ人間存在は他者との関係の上に成り立っている。その関係を上手に按配しながら自分を確認してゆくのが現代社会を生きる流儀らしい。
しかし、誰もがそうそう思うような他者との関係をつくれるわけではない。他者を消して自分を確認したがっているくせに、他者にときめかれていないとおさまらない。他者にときめかれていることが自我の満足なのだ。
そうして、自我が拡大すればするほど自我が満足できないということにもなってくる。
人間はもともとときめき合っている存在であり、ときめかれていないことは人間社会の一員になれていないことを意味する。
ときめいてもいないくせにむやみにときめかれたがっている、そういう人間が大量にあふれているのが現代社会らしい。
ときめいてもいない人間がそうそうときめかれるはずもない。しかし、ときめいていない人間ほどときめかれたがっている。そこでどうやってときめかれるか。それが問題だ。



もともと人類は自我を持て余して自我をフェードアウトさせてゆくかたちで他者にときめいてゆくという人間的な生態をはぐくんできたのだが、いつの間にか自我の欠損感からスタートして自我を追求拡大してゆく心の動きが強くなってきた。まあこれは共同体の制度性とともに発展してきた心の動きなのだが、それによって人類は、知性や感性をどんどん鈍磨させてきてしまった。世界や他者を分析吟味して関心を消去してしまうのだから、関心を抱きながら反応してゆく知性や感性は鈍磨してゆくに決まっている。
世界や他者を吟味分析するばかりで、世界や他者に反応してゆく知性や感性はすっかり鈍磨してしまっている。そういう大人たちがなんと多いことか。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、自我を持て余し自我をフェードアウトしてゆく体験だった。
では、人類史における自我の欠損感はどこからはじまったのか。
それはおそらく、300万年前ころにサバンナに出ていったところからはじまっている。そこでは、暑さのためにぼんやりしてしまいそうになる心に刺激を与えて自我を奮い立たせながらトランス状態に入ってゆく、という文化が育ってきた。それが、不規則なリズムや不協和音を多用するアフリカの音楽や踊りの伝統である。
サバンナは日差しが強くまわりに大型肉食獣がたくさんいる環境だから、まわりの環境のことは忘れて自分たちだけの世界をつくろうとする心の動きになってゆく。そうやってまわりの世界=環境を消去してトランス状態に入ってゆく文化が育ってきた。それがアフリカのミーイズムであり、それによって氷河期明け以降の世界の歴史から置き去りにされてしまった。
アメリカの黒人のジャズやブルースは大いに尊敬されているが、その音楽性にはミーイズムが肥大化してしまうというアキレス腱が潜んでいる。
ジャズやロックのミュージシャンに薬物中毒が多いのは、まわりの世界を消去して自分だけの世界に浸ってゆこうとするミーイズムの傾向が強いからだろう。
差し当たって彼らから人間の先験的な集団性を学ぶことはできない。
つまり、人類は、サバンナの暮らしをはじめたことによって先験的にそなえていた集団性を失った。だからその不自然からはじき出されたものたちが世界の隅々まで拡散してゆき、集団性を回復していった。
サバンナの暮らしは、必ずしも人類に進化発展をもたらしたともいえない。人間の豊かな集団性は、サバンナから遠く拡散してゆくことによって獲得されていった。
人類がサバンナからの拡散をはじめたのは、おそらくサバンナに出てきた直後の300万年前ころで、そのころはまだ猿とそう変りない身体の大きさと脳容量だった。
サバンナのミーイズムに適応できない身体とメンタリティのものたちが、アフリカを出ていった。そうしてやがては、出ていったものたちも含めた全員の血やメンタリティが混じり合いながら進化発展してきた。
ミーイズムで自足してしまったら、進化発展など起きない。身体にせよ文化にせよ、その歴史の新しい展開は、自分以外のものとの出会いの驚きやときめきから起きてくる。そしてこれが、人類が先験的にそなえている集団性の基礎になっている体験なのだ。
まわりを排除して自分たちだけの世界を止揚してゆこうとする戦争の論理は、氷河期明け以降のエジプト・メソポタミア文明とともに発展してきた集団性である。
エジプト・メソポタミアの人種は、ヨーロッパとアフリカのハイブリッドである。彼らは、ヨーロッパの集団性とアフリカのミーイズムを取り込みながら、いち早く戦闘集団をつくっていった。ミーイズムを取り込んだからトランス状態の戦闘集団をつくれたが、そのミーイズムゆえに連携結束に限界があり、やがてより強力な連携結束の能力を持ったヨーロッパに追い越されてゆくことになる。
トランス状態の集団性は、みんなが一斉に同じことをするには向いているが、それぞれが違う行動をしながら連携してゆくような高度な関係性においては限界がある。戦争の文化が発展して戦術がより高度で複雑になってくればもう、ヨーロッパにはかなわない。
そのときヨーロッパ人は、エジプト・メソポタミア人よりも豊かにときめき合う関係を持っていたわけで、それが連携の能力の差となってあらわれた。
戦争ばかりしていればどこよりも強くなれるとはかぎらない。世界に先駆けて戦争ばかりしていた四大文明の地は、けっきょく近代文明の歴史から置き去りにされてしまった。
そうして、いちばんあとから戦争の歴史に参加した北ヨーロッパがいちばん強くなってしまった。
ギリシャ・ローマの時代でもまだ戦争なんかしないでひたすら連携の文化を育てていった北ヨーロッパが、けっきょくいちばん強くなってしまったのだ。



人間は集団運営の能力を先験的にそなえている。それは、自然状態においてすでにときめき合い連携し合っている存在だからだ。
集団運営の意欲が強いというのではない。そんな意欲など持たなくても自然に集団になってしまう生態を持っている。
原初の人類は集団をつくろうとしたのではない。集団はすでに存在していた。彼らは、集団のつくり方を知らなかったし、つくろうとする意欲もなかった。はじめに集団があった。
集団が存在するところから生きはじめるのが人間なのだ。
集団をつくろうとしたから集団ができていったのではない。ときめき合い連携し合っているうちに気がついたら集団ができていたのだ。ときめき合い連携し合う生態が集団をつくるのであって、集団をつくろうとする志向性(欲望)を持っているからではない。
人類学者は、目的意識としての「計画性」が人類の知能及び文化を発展させた、といっている。なんと浅はかな思考だろう。つまり彼らは、現代人の物差しそのままに、自我の拡大が知能の発展の源泉だといっているのだ。
人類の文化の発展をもたらしたのは自我のフェードアウトの作法であり、自我を拡大してトランス状態に入ってゆけば、少なくとも人と人がときめき合う知性や感性は停滞してゆく。
原始時代の社会は自我のフェードアウトの作法で動いていたのであり、そこから文化のイノベーションが起きてきた。言葉の発展も絵画の発展も集団の発展も、すべてそうだった。
現代においても、けっきょく自我のフェードアウトの作法を持っている人間の方が豊かな知性や感性を持っているし、魅力的な存在たり得ている。
何はさておいても、原初の人類は自我のフェードアウトの作法として二本の足で立ち上がっていったのだ。
人間は、自然状態において、自我のフェードアウトの作法を持っていないと生きられない存在なのだ。
「計画性」が人類の集団の文化を発展させたのではない。そんなものはただの妄想である。ときめき合い連携し合う関係性によって自然にいつの間にか集団になっていたのであり、そうやって集団の文化が発展していったたのだ。
たとえば、礼儀作法とは自我をフェードアウトしてゆく作法であり、それは集団運営の文化の基礎のひとつだろう。
ただ単純に自我を拡大して他者と同じことをしていれば豊かな集団性が生まれるのではない。つまり、みんなしてトランス状態に入りながら時代に踊らされていればそれがいちばんいいというものでもない。それでも誰もが時代から置き去りされたものの視線を持っているし、そのような視線を豊かに持っているものの方が豊かにときめき、魅力的であったりする。
人と人は、時代から置き去りにされた心を携えてときめき合ってゆくのだ。集団の一員として恋をするのではなく、集団から置き去りにされた心を携えて恋をしてゆく。だから、周囲に反対された恋ほど熱く燃え上がる。恋心とは、置き去りにされた心なのだ。まあその恋心を学問や芸術に捧げる人もいるわけだが。
バブルのころはみんなして時代に踊らされていたが、そのとき豊かな連携を実現していただろうか。恋をしていたのではなく、「恋をしている」という自覚(=妄想)に浮かれていただけではないのか。そういう自覚(=妄想)なんか、時代に踊らされる肥大化した自我があればかんたんに持つことができる。
自我をフェードアウトしながら他者にときめいてゆくところにこそ人間性の基礎がある。原始人の集団は、そういう関係性の上に成り立っていた。そしてその関係性は、北ヨーロッパネアンデルタール人の集団がもっとも進んでいた。
人間は集団をつくろうとしているのではない。ときめき合っていれば、自然に集団になってしまう。集団なんか鬱陶しいだけのものだが、ときめき合っていることの結果であるなら受け入れるしかない。人間は大きな集団をつくろうとしているのではない。大きくなっても受け入れてしまうのだ。
人間は自我が強いからこそ、自我がフェードアウトしてゆく体験に生きた心地を覚える。その体験とともに他者にときめいてゆく。まあ、自我を拡大させて時代に踊らされてゆく人もいれば、自我をフェードアウトしながら時代に置き去りにされている人もいるし、ひとりの人間の中にその両面の心の動きがあるのだろう。
時代に置き去りにされていれば楽しくなんかないが、人はその嘆きを携えて他者との出会いにときめいてゆく。そのときめく能力が人間ほんらいの集団性なのだ。



正月の初詣は、どこからともなく人が集まってきてはときめき合ってゆくお祭りの行事である。おそらくこれが、人間の集団性の原点なのだ。
神道を宗教だと思うべきではない。起源においてはたんなる祝祭の行事だったのであり、そういう原始性を引き継いでいるのが日本列島の伝統なのだ。
神社にお参りしたからといって、天国や極楽浄土にいけるわけでも生まれ変われるわけでもない。死んだら黄泉の国に行くということは、死後の世界などないといっているのと同じなのだ。だからこそ、「今ここ」で人と人がときめき合う体験がより切実にもより豊かにもなる。
日本人なら誰だって初詣は特別だという気分がある。それは、いつにも増して「今ここ」に対する意識が切実にも豊かにもなっている体験だからであり、誰の中にもそういう歴史の無意識がはたらいている。
初詣は、ほかの祭り以上にトランス状態に入ってゆく要素が希薄である。あんなにも大混雑になるのに、みんな大人しく微笑みながらぞろぞろ歩いてゆく。心のどこかしらでみんな、自我をフェードアウトさせながらときめき合っている。初詣とはそんなものだと、みんなが納得している。意識が「今ここ」に抱きすくめられてあれば、苛立つことも焦ることもない。ことし一年の幸せの祈願なんかついでのことで、ただなんとなく晴れがましい気分に浸っていたいだけだ。
意識が「今ここ」に抱きすくめられてゆくことは、天国や死後の世界を夢見るトランス状態に入ってゆくことではもちろんなく、自我をフェードアウトしてゆく体験である。ネアンデルタール人は、そうやって「今ここ」を生き、「今ここ」に抱きすくめられるようにして死んでいったのだろう。
そうして日本列島の古代人も、「死んだら何もない黄泉の国にゆく」といった。
初詣は、宗教ではない。「今ここ」に抱きすくめられてゆく純粋な祝祭の体験である。この一年のあくせくトランス状態の妄想で生きてきた垢を洗い流すみそぎの行事なのだ。
「みそぎ」とは、自我をフェードアウトしてゆく体験である。
それでは、よいお年を。
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