この生の即興性・ネアンデルタール人と日本人・33


ネアンデルタール人たちの連携は、あくまで即興的なものだった。
たとえば、火を囲んでみんなで語り合うことは、未来も過去も忘れて「今ここ」に浸され癒されてゆく体験である。この即興的な語らいから人類の知性や感性や連携の文化が育っていった。
原始社会は、即興性で動いていた。それはもう、ヨーロッパでもアフリカでも同じだった。
原始人は、生きるのが精いっぱいで、余剰の生産物など持たなかった。今日一日生きられればそれでいい、明日のことは明日考える、そういう暮らしだったはずである。
余剰の生産物を持って、それをどうするかと考えたときに計画性が生まれてくる。アフリカだろうとヨーロッパだろうと、明日も生きてあることを勘定に入れたような暮らしはしていなかった。
氷河期の北ヨーロッパの冬なら、狩りの獲物の肉を貯蔵しておくことができただろう。しかし、未来のその肉を食べるのは自分だという意識はもてなかった。誰においても、明日も生きてあるという保証はなかったのだから。平和と繁栄の現代日本じゃあるまいし、そんなことを思えるような生易しい環境ではなかった。
彼らは、「今ここ」の死に向かう心で暮らしていた。そのことが人と人の関係におけるどれほど豊かなときめきと連携を生み出してゆくかということをわれわれはもっと思い知ってもよい。
「今ここ」の死に向かうとは、生と死の境目に立って「今ここ」に魅入られてゆくということだ。生きてあることなんか忘れて魅入られてゆくのだ。それほどのときめきを、いったい現代人の誰がもつことができるだろうか。
「今ここ」の生と死の境目においてこそ、もっとも豊かに命のはたらきが起きる。
ネアンデルタール人の連携は、狩りにせよ暮らしのさまざまなことにせよ、人と人がときめき合うことの上に成り立っていた。ときめき合いながら、その場その場の「なりゆき」にしたがって連携していった。自分が生き延びることなど意識せず、どうすれば「今ここ」で他者を生かすことができるかと発想していった。死に向かう心で誰もがそう発想して連携していた。ネアンデルタール人には、自分が生き延びる「未来」という時間などなかった。だから、おそらく彼らにはむやみな死の恐怖などなかったし、だからこそ豊かなときめきや連携を持つことができた。
自分のことを忘れて、他者のことばかり思った。自分が生きてあるということを忘れてしまうくらい、他者の存在にときめいていた。
それは、「生き延びる」ための連携ではなかった。「今ここ」において「他者を生かす」ための連携だった。その「今ここ」に対する意識の切実さこそが、彼らの連携の源泉だった。
彼らには「生き延びる」という発想がないのだから、とうぜん「未来」という時間も意識しなかった。「なりゆき」にしたがってそのつどそのつど他者を生かすことを見い出そうとしていった。だからこそ、そのつどの「なりゆき」を察知する感性は鋭敏で豊かだった。それは、あくまで「今ここ」を察知する能力だったのであって、未来を先取りしようとする意識だったのではない。
そしてそれはもう現代社会においてもそうで、そこにこそ人間的な高度な連携の本質が宿っている。近ごろの大震災で被災した人たちの連携だって、おそらくそのようなものだったのだろう。みんな生き延びるのに必死だったのではない。死んでいった人のことを思えば、誰もがどこかしらに生き延びようとすることに対するいくばくかの後ろめたさを抱えていた。
この国の文化の伝統というか風土性として、日本人はどこかしらで生き延びようとすることに対する後ろめたさを共有している。それが戦時中の「散崋(さんげ)の精神」とか「一億総玉砕」のスローガンにもなれば、あの大震災のときの連携にもなった。非常時ほど、その人間の本性が出てしまう。民族の本性というか。
桜の花の散り急ぐさまはきっと、日本人のそうした後ろめたさを癒してくれるのだろう。
高度な連係プレーとかおもてなしなどというのは、「今ここ」を察知する能力の上に成り立っている。そして「今ここ」を察知する能力は、生き延びる未来など意識しないもののもとにある。ネアンデルタール人は、誰も自分が生き延びる未来のことを思わなかった。だれもが、ひたすら「今ここ」で他者を生かすことを思った。
江戸っ子は宵越しの銭は持たないとか、それはまあ、ひとつの「散崋の精神」であると同時に人間としての原始性でもあるのかもしれない。人間は、自我を拡大してゆく目的志向や計画性だけで生きているのではない。たとえ文明人であろうと、そういう自我をフェードアウトさせながら「今ここ」に魅入られてゆく心の動き(=即興性)を持っているのであり、そういう「感動=ときめき」なしには生きられないともいえる。
感動は、予期せぬ出来事として体験されるのであり、それも即興性なのだ。出たとこ勝負で「今ここ」の「なりゆき」に鋭く豊かに反応してゆくことができるかどうか。そういう心の動きを持っていなければ感動なんかできないし、人間はそういう心の動きを持っている生き物なのだ。
根源的には、この生の即興性が人間を生かしている。



道を歩いていて人とぶつかりそうになったら、とっさによける。これだって、連係プレーである。連係プレーは、即興的なのだ。
なぜよけるのかといえば、人と人はたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保しようとする本能を持っているからであり、そのために二本の足で立ち上がったのだ。
人間の連係プレーの基本は、おたがいの身体のあいだに「空間=すきま」を確保し合ってゆくことにある。
ただしこれは、「関係性」の問題であって、抱きしめ合うということを否定しているのではない。抱きしめ合えば、相手の身体ばかり感じて、みずからの身体に対する意識は消えている。そのとき、みずからの身体そのものが「空間=すきま」になっている。つまり、みずからの身体の死を体験している。生きることは死を体験することであり、死を体験するというかたちで命のはたらきが起きている。生き物の身体は、空間に溶けてゆこうとするというか、空間に同化してゆこうとする衝動を持っている。身体を空間として扱うことが命のはたらきの基本なのだ。われわれは、身体を「非存在の空間の輪郭」として扱いながら生きている。身体の物性を忘れてゆくことが命のはたらきである。
生命は、生命であることを消そうとする衝動を持っている。もとはといえば世界の一部であるただの物質が世界から置き去りにされたところの生命を持った物質に変わってしまったのだから、とうぜん世界の一部である状態に戻ろうとする反作用は起きる。その反作用が命のはたらきである。
世界の一部になることは、空間になることである。空間になろうとすることは、物質であることの本能なのだ。物質でありながら空間に溶けて存在している……それが世界の一部になっている状態だろうか。
まあ、光や音は、空間に溶けている物質である。いやこれは、物理学の問題ではない。「感覚」の問題である。意識のはたらきの根源のかたちというか、それを「超越論的主観性」といった哲学者もいる。
光や音はたしかにこの世界に存在するが、それはこの世界の空間に溶けている。物理学の法則がなんであれ、われわれ意識はそのように感じている。世界から置き去りにされた存在は、そのようなかたちで世界に溶けてゆくことを願っている。



人間は自殺願望を持っている。自殺はよくないとかなんとかという前に、人間はどうして自殺願望を持つのだろうかという問題がある。それは、恋人にふられたからとか会社が倒産したからとか、そんなことで答えが出る問題ではないだろう。生きることが苦しいからといっても、なぜ苦しいのかという問題がある。恋人に振られたからとか会社が倒産したからという以前に、誰もが先験的に死にたいという願望を持っている。この生は、死にたいという願望の上に起きている現象なのだ。
それこそ「超越論的主観性」としてこの世界の空間に溶けてゆきたい(=死にたい)という願望がなければ、体が動くという現象は起きない。体が動くことは、体が空間に溶けてゆく現象なのだ。こんなことは鈍くさい運動オンチにはわかるまいが、ナイスプレーをした瞬間は心も体も消えていて、あとから気づいて思わずガッツポーズをしてしまう。
身体が移動することは、身体が「今ここ」から消えてしまうことだ。
意識の「志向性」とは、世界に溶けてゆこうとする衝動であり、空間になろうとする衝動なのだ。そういう志向性を持っているから、生き物の体は動く。
他者と抱き合ったときに他者の身体ばかり感じることのときめきは、みずからの身体の空間に溶けてゆこうとする衝動の上に成り立っている。そのとき意識は、他者の身体の物性の確かさによって、みずからの身体の物性を消している。そうしてみずからの身体は、光や音のような世界に溶けている物質になっている。
机の表面を指でなぞれば、指の表面の感覚は消えて机の表面の感触ばかり感じている。これは、「死」に向かう願望の上に成り立った体験である。
生き物は、死に向かいながら死と生の境目に立ってこの生を紡いでいる。
つまり、そういう死に向かう衝動をともなった現象として人類拡散が起きていったのだ。だから人類は、住みにくいことを厭わなかった。そういう条件の方が、よりラディカルに死と生の境目に立つことでき、より鮮やかに命のはたらきが起きる。より鮮やかに人と人がときめき合い、より鮮やかに男のペニスは勃起する。
人類が一年中発情するようになったことは、人類拡散とともに起きてきた。まあそのとき女も発情しているのかどうかは知らないが、ときめいていれば男のペニスを受け入れる。そういうダイナミズムとともに人類は拡散していった。それは、死に向かう意識のはたらきとともに起きてきたことなのだ。



即興性とは、死に向かうことであり、生と死の境目に立つことである。生と死の境目に立って、「未来」という時間を思わないことだ。命のはたらきはひとつの即興であり、未来という時間はそのはたらきに組み込まれていない。
われわれは、この身体を光や音のような世界に溶けてしまっている物質として扱いながらこの生を紡いである。そのようにして身体を「非存在の空間の輪郭」として認識している意識がある。おそらく「超越論的主観性」として、そのような身体感覚がすべての生き物にそなわっている。その身体感覚があるから、自分の身体を見たことがない魚でも、仲間であるかないかを見分けることができるし、その身体感覚で狭い岩のあいだをすり抜けてゆくことができる。まあこのことを、身体の表面にセンサーがはたらいているからだというような科学者の認識もあるらしいが、僕は信じない。魚だって、生き物の本能=超越論的主観性として「感じている」のだ。「空間」を感じているのだ。それがすべてだと思う。
おそらく、原初の生命が誕生したことの反作用として、「空間」感じる本能が発生したのだ。生命ではない物質に戻ろうとする現象として、空間を感じ、光や音のように空間に溶けている物質になろうとする本能が発生したのだ。
意識のもっとも高度なはたらきは、意識のはたらきを忘れている状態にある。超越論的主観性、すなわち本能的であることこそ、意識のはたらきの起源であると同時に究極でもある。
魚だって、意識のはたらきとして「感じている」のだ。
そして人間は、もっと濃密に光や音のような空間に溶けている物質の存在を感じている。そのような物質になろうとする超越論的主観性=本能を持っている。



日本列島の古代人は、言葉のことを「ことのは」といった。しかし「ひがごと」とか「むつごと」とか「よしなしごと」とか「たわごと」というように、「こと」というだけでそのまま「言葉」をあらわしている。
なぜわざわざ「は」をつけ足した言い方をしなければならなかったのか?
それは、「言葉」のことではなかったからだ。
「は」は「端(はし)」、言葉のはしくれのこと。
言葉のはしくれとは「音声」のことであって、言葉ではない。言葉は意味をもっている。それを「こと」という。またそういう言葉を発する現象のことを「こと」という。
とすれば、言葉を発する現象・行為にともなう「音声」のことが「ことのは」ということになる。この「は=音声」は、「意味」をまとっていない純粋な音声そのものことである。
音声を意味以前の音声そのものとして抱きすくめてゆくこと、これがやまとことばを「聞く」という体験である。意味がどうのという以前に、他者の発した音声を聞くことのよろこびがある。「語り合う」という体験のよろこび、と言い換えてもいい。そのよろこびから「ことのは」という言葉が生まれてきた。
語り合うことのよろこびは、その言葉にどんな意味が宿っているかということ以前のよろこびである。日本人は、「あなたの声が聞きたい」などというではないか。そういうことだ。そのときもう、言葉の「意味」なんか当てにしていない。
われわれは、そういう「音声」そのものに対するあこがれを持っている。そのことを自覚するのなら、「こと」という言葉だけではすまない。「ことのは」という言葉もないと困る。
それは、生き物として、光や音声のように空間に溶けている物質でありたいという願いから生まれてきた言葉である。古代人は、それほどに生き物として生きてあるということに対する思いが切実だったのだ。
ある人は、音や光は四次元(あるいは高次元)の物質である、というのかもしれない。しかし人間の感覚は、それを「空間に溶けているもの」と解釈する。そして、死とはそのようなものになることだと思う。日本列島の「死んだら黄泉の国に行く」という死生観・世界観は、そういう感覚なのだ。
意識は根源において「空間」を志向している。そしてそれは、「未来」に向かうことではなく「死」に向かうことなのだ。「未来の死」ではなく「今ここの死」として「空間」を志向している。



氷河期明けの文明の発祥以来というか共同体(国家)の発祥以来、人類は、「心の救済」というテーマをずっと抱えながら歴史を歩んできた。
おそらく原始人にはそんなテーマはなかった。それは、共同体(国家)を持たなかったからだ。
まあ禅の悟りとは「今ここの空間に溶けてゆく」体験のようなものであるのかもしれないのだが、しかしそれは、われわれの日常の命のはたらきそのものにおいて起こっていることなのだ。
人類拡散だって、煎じつめれば「意識は空間を志向する」という問題として起こってきたことだろう。それは「今ここの死」であり、明日のことなど思わない即興性でどんどん拡散していったのだ。
まあ、未来を思う計画性よりも、「今ここ」の即興性の方がより高度な知性や感性になってゆく。意識のはたらきの即興性を失って人の心は病んでゆく。認知症とはそういう心的現象だろうし、死後の世界がどうの生まれ変わりがどうのといっていることだって一種の病理現象なのだ。
戦後の平和と繁栄は、通俗的な未来に向かう計画性の観念=自我ばかり肥大化して、人間性の根源ではたらいている生の即興性を失っていった。
明日も生きてあることが保証されていない環境で暮らしていたネアンデルタール人は、ひたすら「今ここ」でときめき合ってゆく即興性を生きた。だから、もっと生きやすい土地に移住してゆこうとはしなかった。
日本列島の古代人も、「今ここ」の空間に溶けている「音声」を音声そのままとして抱きすくめてゆく即興性を持っていた。
人類史における言葉の発生は、言葉の「意味」を発見したことにあるのではない。人が発する音声が空間に溶けていることにときめいていったことにある。
まあ原初の人類は、空間に溶けてゆくようにして二本の足で立って歩いていったのだ。命のはたらきの根源のかたちに遡行する体験として。
人間は観念的な生き物である、などとかんたんにいわない方がいい。人間は、猿よりももっと切実に命のはたらきの根源に遡行しようとしている存在なのである。
もしも人間とは何かと問おうとするなら、みずからの俗物根性や肥大化した自我を正当化しようとして、人間は未来に向かう計画性を持っている存在である、などと居直らない方がいい。
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