人類史のトラウマ・ネアンデルタール人と日本人・35


トランス状態とフェードアウト、このことをもうちょっと考えてみたい。それは、4万年前のアフリカのホモ・サピエンスの文化と北ヨーロッパネアンデルタール人の文化との対比の問題でもある。
トランス状態とは、自我が際限なく拡大していった果てに起こる現象である。幻覚入眠状態。いろんな定義の仕方があるのだろうが、思い切り広く解釈すれば、限度を超えてはしゃいだり落ち込んだりすることだって、一種のトランス状態にちがいない。
トランス状態になりやすい人となりにくい人がいる。
幽体離脱して自分で自分の姿を見るというトランス状態があるが、自分の身体だけでなく、自分の心までもうひとりの自分が見ているという分裂状態もあるらしい。相手に対して怒っているだけでなく、怒っている自分をもうひとりの自分が見ている。近くにいる見知らぬ人が「自分に悪意を持っている」と思ったり、見知らぬ人どうしが話をしているのを見て「自分の悪口を話している」と思ったり、実際にその話声が聞こえてくるように思ったりすることも、ひとつのトランス状態にちがいない。
自我が際限なく肥大化してゆく現象をトランス状態という。「自分」という意識が不自然に突出してしまっている状態。それに対して自分があいまいになってゆくことを、ここでは「フェードアウト」ということにしている。
意識が何かに閉じ込められてしまうと、その閉塞感で「自分」という意識が突出してくる。あるいは、心的外傷を受けると「自分」の中に逃げ込もうとする。そうやって自我が肥大化してくる。



アフリカのサバンナでは、トランス状態に入ってゆく文化が発達した。現代のアメリカの黒人音楽だって、トランス状態に入ってゆく「ノリ」の上に成り立っている。この「ノリ」のよさは、ほかの人種にはない。
サバンナの民は、サバンナの猛獣や強い日差しから逃れて森に逃げ込むということを繰り返してきた人々である。彼らは、サバンナの中で生きているのではない、サバンナの中の小さな森で暮らしているのだ。数百万年前の原人段階においてはおそらくまだ猿と同じように木の実を主食にしていたのだろうが、その小さな森だけで一年の暮らしをまかなえるわけではなかったから、食べ尽せばサバンナを横切ってほかの小さな森に移動していった。そんなことを繰り返しながら、肉食獣の食べ残しの肉を拾ってきたり、小動物の狩りをするということを覚えていった。しかし彼らがそういう生態を身につけていったということは、それまでのあいだに数限りなく肉食獣に襲われるという体験をしてきたことを意味する。その恐怖体験の歴史の心的外傷が、自分の中に閉じこもって(=自我を拡大させて)トランス状態に入ってゆくというメンタリティをつくっていったのだろう。
もちろん暑い日差しから隠れるということも原因のひとつとしてあったにちがいない。
とにかく、自然から逸脱して自我の世界に入りこむという心の動きの文化になっていった。
彼らの独特のリズム感や不協和音を好む音感や激しく体を揺らす踊り方も、トランス状態に入ってゆきやすいように発達洗練してきたのだろう。
それはたぶん、最初は宗教的な意味などなかったはずである。トランス状態に入ってゆかないと生きていられない環境と歴史があった。まあ、人類で最初にトランス状態に入ってゆく体験をした人たちなのだ。
サバンナで暮らしていたのではない。彼らだって、サバンナという環境から逃げ隠れして生きてきたのだ。というか、サバンナで生きてきたからこそ、サバンナから逃げ隠れしながらトランス状態に入ってゆく文化が発達洗練してきた。
彼らは、サバンナを生きることのいわば「心的外傷(PTSD)」からトランス状態に入ってゆく文化を育てていった。
そして、氷河期明けのエジプトやメソポタミアでは、農業文化が起こってくるともに、盛んに集団どうしの戦争をするようになってきた。そうなると、ここでも戦争による心的外傷から、自我が肥大化してトランス状態に入ってゆく心の動きが起きてくる。
もともとこの地域の人々にはサバンナの遺伝子も混じっていて、トランス状態に入りやすいメンタリティも待っていた。
人は、トランス状態にならないと戦争なんかできるものではない。そのとき、自分という意識が身体から離れてひとり歩きしている。だから、身体の痛みを感じないし、身体の死も怖くない。自分という観念だけで生きているのだ。
こういう状態のことをよく「原始的」といってアニミズムと結びつけたりするのだが、おそらくそうではない。ようするに不安と恐怖が極限状態になって意識が身体から離れてしまうという、おそらく氷河期明けの戦争の時代に突入していったことによって際立ってきた心的現象なのだろう。
不安と恐怖を日常的に体験していれば、トランス状態に入りやすい心になってゆく。自我が肥大化して、自我(観念)が身体から離れてしまう。
戦争が起きるとき、他の集団に対する恐怖と憎悪がはたらいている。それは、みずからの集団の結束とセットになった心の動きである。人類は、戦争をするようになって集団の結束を強くしながら共同体(国家)を生み出してきたのだが、それは、恐怖や憎悪の感情も肥大化していったということでもある。
現代人だって、大いにそうした傾向を持っている。それはむしろ「モダン」な心の動きなのだ。
そういう心の動きの萌芽を200万年前のサバンナの民が体験したとしても、それを本格化させたのは、エジプト・メソポタミアの戦争と共同体文明の社会である。
サバンナの民にとっての不安や恐怖の対象は、人間ではなく、人間の力ではどうにもならない自然環境だったから、それを忘れる音楽や踊りとして昇華していっただけだが、人間が対象となると忘れることができなくなり、恐怖や憎しみが恒常化してゆく。そうして宗教が生まれてきたのだろうし、戦争ができるトランス状態に入ってゆく習俗も発達してきた。
恐怖や憎しみの感情が肥大化していったことによって生まれてきたのが戦争や宗教や共同体の制度文明というものだったのだろう。
現在のアフリカでも部族どうしの対立紛争というのはよく起きているが、氷河期以前の彼らは、おたがい出会うことすらない歴史を歩んでいた。
とにかくエジプト・メソポタミアは、サバンナのトランス状態の文化を取り込むアドバンテージがあったわけで、その自我の肥大化によって戦争や共同体の制度文明が加速していった。彼らが自我の肥大化によるトランス状態を観念として確立した、ということだろうか。
宗教だって、共同体の制度文明から生まれてきたのであって、原始社会にもあったのではない。
アフリカの原始時代にもトランス状態に入ってゆく生態はあったが、それは世界を消してゆく心の動きだったのだから、そこから世界をつくった「神」という概念が生まれてくることはありえない。見えない向こう側を「ない」と思ってゆくことは、人間の自然な心の動きである。
しかしエジプト・メソポタミアでは、見えない向こう側の他者や他の集団をまるで目の前に存在するものであるかのように感じていったわけで、そういう作為的な心の動きから造物主としての「神」がイメージされていったのだ。そのような世界を捏造してゆくトランス状態は、氷河期明けのエジプト・メソポタミアの時代になってようやく生まれてきた。



人間はもともと猿よりも弱い猿だったのだから、どうしても恐怖と不安の歴史を歩むほかなかった。そこからくる自我の肥大化は人間であることの宿命だった。だからこそ人間は、そうした自我をフェードアウトしてゆく文化を育ててきた。
しかしエジプト・メソポタミアでは、自我をさらに肥大化させてゆきながら、ついには自我と身体が切り離されるという体験をするようになっていった。それによって彼らは、死の恐怖を忘れると同時に他者に対する殺意をかき立てていった。そして今や、そうした自我=観念だけの存在になってゆくトランス状態の体験や思想が花盛りの時代になっている。
時代に踊らされるということ自体が、まぎれもなくひとつのトランス状態なのだ。霊魂や神とか死後の世界とか生まれ変わりを信じるということもまた、自我=観念だけの存在になってゆくトランス状態以外の何ものでもない。
現代社会は、人をトランス状態に入りこませることの上に成り立っている。そうやって現代人は、自分が共同体の一員だと思っている。
自分という存在が世界の一部だと思うことは、自分が世界そのものだと思っているのと同じである。
生き物は世界の一部ではない。世界から置き去りにされた存在なのだ。生命現象とは、そういうものだ。世界の一部であることから逸脱(脱落)して生命が発生したのだ。
社会の一員のつもりで時代に踊らされているなんて、そんなことが人間の自然であるのではない。
今どきの恋をする能力もない女がいい気になって恋をしていると思い込むことだって、ひとつのトランス状態だろう。ろくに知性や感性もない人間が勝手に誰よりも豊かにそなえているつもりになってそれらしく見せびらかすポーズに長けてゆくことだって、まさしくトランス状態のなせるわざにちがいない。そうやって現代人の観念は、際限なく肥大化してゆく。
それが、人間の自然か?



原初のサバンナの民のトランス状態と、氷河期明けの文明社会のトランス状態とはちょっと違う。
分裂病も、文明の発祥以降に生まれてきた一種のトランス状態なのだろう。それは、世界や他者に対する恐怖と不安から引き起こされる場合が多いといわれている。もともと恐怖や不安を感じやすい人がなるのだろう。そうして自分の世界に引きこもる。あるいは自分が世界そのものになってしまう。
彼らは、自己の身体と世界との境目がよくわからない、という。
森の中に逃げ込んだサバンナの民のトランス状態においては、世界は消えている。したがって「境目がよくわからない」という心配はない。身体の輪郭はちゃんと保たれているし、身体の輪郭が世界の輪郭になっている。
しかし分裂病者は世界との関係にさらされている。世界や他者に対する恐怖と不安が極限に達し、身体を切り離した自我=観念だけの存在になってしまう。そうして自分の身体は世界につながれ世界の一部になってしまっている。他者の身体とのあいだの「空間=すきま」がなくなってしまっているが、自我=観念だけの存在になっているのだから他者がわからないわけではなく、ひたすら気味悪いものに見える。自分の身体はその気味悪いものにつながれてしまっている。
「境目がない」というのではない。自分の身体の輪郭に対する意識を喪失して、他者の身体との「境目がわからない」という病なのだ。自他の区別がないというのではない。ないのなら、恐怖や不安は起きない。
自我が身体と離れてしまって、身体の輪郭がよくわからない。自我はひといちばいしっかり持っているから、「他者」という意識はちゃんとある。ちゃんとあるから恐怖や不安が募る。
そばにいる見知らぬ他人どうしが自分の悪口を言っているのが聞こえる……という幻聴現象は、自他が未分化なのではない。他者とのあいだに「空間=すきま」がなくなっているだけのことであり、身体を置き去りにして、自我という観念だけの存在になってしまっている。
他人は自分の悪口をいう存在であるという思い込みがあれば、自分で勝手に他人が悪口をいっている状況をつくってしまう。自分が世界そのものになっていると同時に、その自分が、世界や他者に対する恐怖や不安に震えている自分を見ている。実際の自分の身体=顔は恐怖と不安でひきつっているのに、その上に自我という自分がいてそれをやめさせない。自分が自分を恐怖と不安に陥らせている。世界そのものになってしまっている自分=自我が。
このトランス状態は、文明の発祥以降に生まれてきた現象にちがいない。サバンナのトランス状態は命や意識のはたらきを安定させるが、こちらの方は命や意識のはたらきを混乱させている。
なぜ自我意識は身体から離れてしまうのだろうか。恐怖や不安から逃れようとするからだろうが、その対象が環境世界なら消してしまえるが、他者である場合は消すことができない。殺してしまわないと消えない。
三陸海岸の人々は何度も津波に遭いながらもその地で生きてきた。それは、猛獣のいるサバンナの地で人々が生きてきたことと同じなのだろう。自然環境に対する恐怖は忘れることができても、人間に対する恐怖や憎しみは、そうかんたんに消えない。
人間の二本の足で立つ姿勢が、他者と向き合うことによって成り立っている。人間は、存在そのものにおいて、すでに他者と向き合っているし、他者の存在がなければ自分という意識もうまく成り立たない。人間の意識のはたらきには、先験的に他者の存在が勘定に入っている。
人間に対する恐怖や不安は、相手を殺してしまわないことには消えない。人間の意識は、一度気になった他者はもう忘れてしまうことができない。人間に対する恐怖や憎しみは、そうかんたんには消えない。消えないままどんどんトランス状態に入っていって分裂病になる。
分裂病は、文明の発祥以降に生まれてきた現象で、原始人にはなかったはずである。もちろん猿の社会にもない。人間だけの、人間の共同体が生み出した現象らしい。
僕は、分裂病のことはよく知らない。ただ、文明人の肥大化した自我が生み出した神だの霊魂だの愛だの恋だのという妄想=トランス状態を人間の自然であるかのようにいう思考がどうしても納得できないのだ。
人間は、自我を追求して生きているのではない。自我のフェードアウトを生きているのだ。
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