残虐さの水源・ネアンデルタール人と日本人・36


幽体離脱とは、自分という意識(=自我)と自分の身体とが離れている状態のこと。べつに特別な体験でもなんでもない。そんなことくらい生死の境をさまよった病人の多くが体験していることだし、現代人の肥大化した自我=観念はすでに自我=観念だけで生きているつもりになっているわけで、それだってすでに幽体離脱そのものの状態だろう。
原始人は薬の知識などほとんどなかったし、薬の力で生死の境をさまよいながら生き返るという体験はほとんどできなかったはずである。たいてい、あっさりと死んでいった。
人類は、薬の力で生死の境をさまよいながら幽体離脱してゆきやがて生き返る、という体験をするようになったことによって、幽体離脱が価値であるかのような思想になってきたのだろうか。
しかしじつは、幽体離脱なんか誰でもしているのだ。
意識がトランス状態に入っていってゆけば、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になっている。そして、程度の差こそあれ、何かを強く思いこめば、それはもうトランス状態であり幽体離脱なのである。現代人がお得意の「妄想」することなんか、まさにトランス状態という幽体離脱以外の何ものでもない。そうやって現代人の自我=観念は、かんたんに身体を置き去りにしてしまう。瀕死の病人のやむにやまれぬ体験でもあるまいし。
自意識過剰の人間なんか、幽体離脱して生きているのと同じだ。そうやって、自我=観念だけで生きている。幽体離脱なんか特別なことでもなんでもない。宗教者の悟りの体験だなんて、笑わせてくれる。
幽体離脱が人間の本質であるかのような思い込みは、自意識過剰で鈍感な俗物のくそ厚かましい観念世界のことに過ぎない。
しかしまあ人間はそうやって精神を病んでゆくのだから、人間を考える上での大きな問題であるともいえる。
人類は、氷河期明けの共同体の発生や戦争や薬の知識の進歩などによって、身体を置き去りにして自我=観念だけでいきたがるようになってきた。神や霊魂という概念も、この傾向から生まれてきた。
それは、人間の本性とはいえない。そのような傾向が突出して戦争が起きるのだし、そのようにして精神を病んでいるものがたくさんいる。
もともと人類は、自我をフェードアウトしながら二本の足で立ち上がっていった存在なのだ。それはつまり、自我をフェードアウトしながら世界や他者にときめいていった、ということだ。そうして、人間的な知性や感性が育っていった。
このフェードアウトのタッチが希薄になって自我=観念で生きてしまうことによって、人は精神を病み、戦争や人殺しも起きてくる。
身体を置き去りにして自我=観念だけで生きるのが人間の本性であるのではない。身体から置き去りにされながら身体を追跡しているのが、人間の自然としての意識のはたらきなのだ。
ここのところが、鈍くさい彼らには理解できないらしい。



人はなぜ戦争や人殺しができるのだろう。
なぜ他者の身体に攻撃を加えることができるのだろう。身体だけでなく、精神にも攻撃してくる。それだってまあ、人殺しの衝動だ。
中国や韓国が戦後の日本を執拗に非難し続けてきたのは、戦争をしているのと同じ精神状態なのだろう。彼らはいまだに戦争を続けている。というか、日本から攻撃される心配がなくなってあらためて戦争をはじめたということだろうか。
日本だって戦時中は「鬼畜米英」といっていたわけで、中国・韓国は今まさにその精神状態になっている。
人と人の関係性の根源には「怒ったもの勝ち」という要素がある。そうやって人は戦争や人殺しに向かってゆく。
怒ることは、自我=観念だけの存在になっている状態である。それはまあ不自然で身体を喪失した危機的な状態なのだから、なだめてやらねばならない。人間は、根源においてそういう「介護の精神」を持っている。だから「謝る」ということをする。謝ることは、介護の精神なのだ。勝つとか負けるということ以前の。
中国や韓国は、日本人の介護の精神に甘えているのかもしれない。彼らは、日本に対する恐怖の記憶がどうしても消えない。消してしまいたくないのだろう。恐怖は、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になってゆく幽体離脱のためのもっとも有効な契機である。
彼らの自我=観念は、日本を攻撃非難していないと安定しない。
人は、幽体離脱して自我=観念だけの存在になってゆくことによって、共同体の一員であることを自覚する。われわれの身体は世界から置き去りにされた存在であり、その孤立性の上に身体が動くという現象が成り立っている。そういう身体を置き去りに自我=観念だけの存在になってゆくことによってはじめて世界=共同体の一部(一員)である自覚を持つことができる。
共同体の制度性は、人間存在を世界の一部にしてしまう。世界の一部である存在になることの恍惚があるらしい。これは、お母さんに抱かれている赤ん坊の恍惚に似ているのだろうか。しかし赤ん坊は、成長してお母さんに抱かれることをいやがるようになり、身体の孤立性を確立してゆく。お母さんに抱かれることの恍惚は、体がうまく動かなくて身体の孤立性を確立できていないことの不安に対する一時的な慰めにすぎない。体がうまく動いて身体の孤立性が確立されていれば、そんなことは鬱陶しいだけだ。
断っておくが、ここでいう「身体の孤立性」とは、唯我独尊の自我=観念だけの存在になることではなく、生き物としての「身体の輪郭」に対する意識のことだ。
ともあれ乳幼児期におけるこの「一時的な慰め」を絶対的な恍惚であるかのように信じてしまえば、死ぬまでそれを欲しがるようになってゆく。この「一時的な慰め」を得ることに失敗したか、あるいはすでに絶対的な恍惚として体験させられてしまったか。西洋流の子供をかまわない子育ては失敗の危険があるし、日本的なかまい過ぎる子育てはそのときすでに自我=観念だけの存在になってしまうおそれがあり、怖がりすぎたり不安に耐えられない人間になってしまう。戦後の核家族は、このような人間を大量に生みだした。かまわれ過ぎてもかまわれなくても、かまわれないことに対する恐怖や不安が肥大化してゆき、かまわれたがりの人間になってしまう。まあその騒々しさが、戦後の経済発展の原動力になったのかもしれないが。
とにかく、恐怖の記憶が消えないから、身体を置き去りにしながら自我=観念だけの存在として世界の一部になってゆくことが絶対的な恍惚になる。その恐怖は、その絶対的な恍惚のもっとも大切な養分なのだ。
そうやって人は、みずからが共同体の一員(世界の一部)であると自覚したとき、恐怖を忘れない存在になってしまう。
中国人や韓国人は、自分が中国人や韓国人であることの誇りというか執着がある。
それに対して日本人は、一部の狂信的な右翼は例外として、全体的には日本人であることに対する誇りや執着はあまりない。ないけど、どうしようもなく日本人としての生態やメンタリティを持ってしまっていて、日本人であることにはにかんでいる。
中国人や韓国人は中国人や韓国人になってゆくが、日本人はすでに日本人になってしまっている。だから、あらためて日本人であることに対する誇りや執着を持とうとしない。
われわれは、自分が日本という国の一員(一部)だとは思っていない。すでに日本人であるほかない存在だからこそ、日本という国とは同化できない。そしてそれはつまり、世界と同化できないことの嘆きやはにかみが日本的な文化の伝統である、ということだ。身体の孤立性を持ってしまったら、もうお母さんとは同化できない。
われわれは、自我=観念だけの存在として生きてゆくことができない民族らしい。だから、縄文・弥生時代には神や霊魂という概念を持っていなかった。それらは、大陸からの借り物にすぎない。このことは現在の歴史常識から外れた認識だから正面きっていうにはちょっと長い説明が必要になるのだが、ここではやめておく。まあそういうことなのだ。
日本人は自我の薄い子供みたいな民族だということは世界中が感じていることであり、われわれは自我=観念だけの存在になって生きてゆくことができない。もちろん文明におかされてそうなってしまう部分も避けがたく持っていてその肥大化した自我によって明治以降の戦争の歴史を歩んできたのだが、日本人ならやっぱり自我の薄い他愛ない部分も持っているし、そこでこそ伝統の文化が育ってきた。
人間なら誰だって自我をフェードアウトしてゆくメンタリティを持っている。それによって人間的な知性や感性が育ち、人と人がときめき合っている。



問題は、幽体離脱して身体を置き去りにしながら自我=観念だけの存在になってしまうことにある。そういう心的現象に深く入り込めば、身体の痛みを感じなくなり、死も怖くないし、人を殺すこともできる。
幽体離脱という制度性、一部の宗教者はどうしてこんな不自然な体験をもったいぶって自慢するのだろう。これこそ諸悪の根源だといってもいいくらいなのに、死んでも霊魂だけは永遠に生きてゆけるなどと、くだらないことばかりいっている。そう思いこむことなんかかんたんだが、そこに命のはたらきの真実があるとはいえない。それは、身体がまだ生きているからそういう体験をするだけのことで、だから、生き返ることもある。それは、死の疑似体験ではない。死の疑似体験に失敗している心的現象なのだ。意識がフェードアウトしてゆくことに失敗している体験なのだ。
われわれは、生きている最中においても、たとえば眠りにつくときとか、何かにときめいているときに自分という存在のことをすっかり忘れてしまっているとか、意識がフェードアウトして消えてゆく体験はしている。
死ぬことは、自我が消えてゆく体験であって、自我が生き延びてゆく体験ではない。
健康でも幽体離脱できるなんて、よほど自意識過剰なのだろう。恐怖は、人を自意識過剰にするし、自意識過剰になると恐怖が増幅する。
共同体の制度は、人に恐怖を埋め込む装置である。だから、法によって裁き処罰をするということをするし、戦争に駆り立てもする。
戦争になると、レイプや殺戮など、人は身体に対して徹底的に残虐になれる。まあこれはチンパンジーのテリトリー争いだって同じなのだが、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になってしまうからだ。戦争の現場では、身体に対して徹底的に残虐な殺し方ができる。そのとき心は身体を置き去りにして、身体を「物」あるいは「記号」として扱うことができる。自分の身体も他者の身体も。
死んだら、何もない「黄泉の国」に行くだけだ。「死後の世界」だの「霊魂の永遠」だのというのは、身体の尊厳に対する冒涜である。そういうことをいう人たちは、身体を置き去りにして自我=観念だけで生きているから、そういう冒涜を平気でできる。だから宗教者は、平気で殉教できるし、残虐な殺し方もできる。
オウム事件といい、9・11のテロ事件といい、ボスニア紛争といい、それはまあ宗教戦争であり、「死後の世界」だの「霊魂の永遠」だのということがどれほど人間をグロテスクな存在にしてしまうかの証明である。
そんな宗教的なテーゼを温存しながら清らかぶって、その罪を「民族」とい言葉に押し付けようなんて、欺瞞もいいとこである。それらは、民族対立ではない、宗教対立なのだ。
民族は共存できても、宗教は共存できない。それは教義が違うからではない。宗教は人を自我=観念だけの存在にしてしまうからだ。
「民族」とは文化を共有している単位であり、民族どうしは、たとえば山の手と下町があるように同じ地域でも自然に「棲み分け」をしてゆく。ところが宗教は、「霊魂」だの「死後の世界」だのということを振りかざしてそれが人間の普遍性だと信じ込みながら平気で相手の領域に侵入してゆく。人間はみな兄弟だの家族だのといってなれなれしくしながら「棲み分け」をしようとしないことの方が、ずっと非人間的なのだ。
オウムも、9・11も、ボスニアも、棲み分けしようとする心を失ってそうなってしまったのだ。もとのボスニア周辺地域がなぜ「民族共存の理想郷」といわれたかといえば、みんな一緒に混じり合って暮らしていたからではなく、いくつもの民族が千年近く上手に棲み分けをしてきたからだ。そしてボスニア地域では、最初はイスラム教徒とカトリッククロアチア人が上手に棲み分けをしていたのだが、そこに別の宗教で多数派のセルビア人がどんどん入ってきたためにぐちゃぐちゃになってしまったとか、そういうことがあるらしい。つまりそのとき権力者が、権力を維持するために多数派のセルビア人の優位性をどんどん煽ったためにセルビア人がよその地域にどんどん侵入してゆき、「棲み分け」という原則を失ってしまった。
みんな仲良く一緒に暮らそうとするのが人間の自然であるのではない。上手に棲み分けてゆこうとするのが人間の自然であり普遍性なのだ。
たがいに「空間=すきま」をつくりながら上手に安全に棲み分けしてゆこうとする衝動によって、原始人は地球の隅々まで拡散していったのだ。
そして拡散の行き止まりの地であるヨーロッパは、どこよりも上手に棲み分けのできる伝統を持っていて、だからあんなにもたくさんの小国家が分立している。
アフリカの赤道直下の地域だって、近代に白人がやってくるまでは国家という単位すらなく無数の部族が棲み分けていた。
棲み分けようとするのが人間の本能だ。それは、まだ猿であったころに二本の足で立ち上がってたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくろうとしていったところからはじまっている。
四本足の猿が二本の足で立ち上がることは、きわめて不安定で攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。それは、たがいに攻撃しようとする意思=自我(猿であったころの順位争いをしようとする意思=自我)をフェードアウトしてゆくことの上に成り立っている姿勢だった。
棲み分けることは、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になってゆくことではなく、自我=観念をフェードアウトして他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくりながら不安定な身体を按配してゆくことである。



人間は、決して自我=観念だけで生きられる存在ではない。
意識は、身体を追跡している。われわれは自我によって主体的に身体を動かしているようなつもりでいるが、じつは、実際に身体が動いているときの意識は身体の動きを追跡しているだけである。だから、ピアニストの超絶技巧が可能になる。そのときいちいち身体に命令していたのでは間に合わないのである。それはもう、われわれがコップに手を伸ばすときの動きだって同じで、試してみればいい、意識は身体の動きを追いかけているだけなのだ。
自我=観念だけで生きられるとか、霊魂は永遠だとか、そんなことはもう自我=観念による妄想にすぎない。そして自我の肥大化によって、どれだけ心が混乱したり停滞したりしていることか。
幽体離脱の心的現象なんか、意識的にか無意識的にか、微細な現象としてわれわれの日常でいくらでも起きていることである。だからこそ本格的な幽体離脱も起きるし、それほどに人間の身体は危うい存在の仕方をしているということの証明であり、その危うさを追跡するように意識の活動が起きている。その危うさがあるから人間の意識は活発にはたらき、豊かな知性や感性も育ってくるのだ。
身体を置き去りにした幽体離脱の自我=観念に凝り固まってしまったら、心は病んで停滞するばかりなのだ。そのあげくにグロテスクな恐怖や憎しみや妄想が渦巻く心になり、さらには自分の身体に対しても他者の身体に対しても平気で残虐にふるまえるようになるのだ。
戦争で残虐な殺戮ができるのも、ドラッグ中毒の廃人になってゆけるのも、またリストカットが楽しいのも、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になってしまっているからだ。神や霊魂の名のもとに愛だの人間はみな家族だの共生だのという関係を特権化したがるろくでもない妄想だって、その精神の依ってきたる氏素性は同じである。
けっきょく、氷河期明けにパンドラの箱が開いて「神」や「霊魂」という概念を捏造してしまったことがすべてのはじまりなのだろうか。現代社会は、身体を置き去りにして自我=観念だけの存在になってしまうことの病理にむしばまれているのだろうか。そしてその病理が、人間性の自然はもちろんのこと、ネアンデルタール人や日本列島の文化の伝統のほんとうの姿を見えにくくしてしまっている。
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