見えない向こうがわ・ネアンデルタール人と日本人・37


生きようとする自我、などという。
「自我」という言葉の定義はいろいろあろうと思うが、ここではひとまず「作為性」のことだとしておこう。「主体性」という言葉もあるが、自我という意識というか観念にはもうちょっといかがわしいニュアンスがある。
根源的には、人間は自我を追求するのではなく、そのいかがわしくやっかいな自我をフェードしてゆくことによって生きている。
なのに現代人は、自我=観念だけで生きてゆこうとする性向がある。生きてゆけると、どこかしらで思っている。そこから「霊魂」やら「死後の世界」というイメージになってゆく。自我=観念で生きているつもりになっていて、生きているのはあくまで身体だという意識が希薄である。身体とはべつに自我=観念のはたらきがあると思っている。そうやって霊魂だけは身体が死んだあとも生き続けるという。そういう妄想が捨てられない。
意識とは、身体と世界との関係から発生するはたらきである。
たとえば意識不明になって自我=観念などない状態でも、身体は身体だけで生きてゆける。つまり、自我=観念がフェードアウトしていっても生きていられるし、その状態でこそ命のはたらきが豊かになっている。
人間は、根源的には、自分が生きようとしているのではなく他者を生かそうとしている存在である。自我=観念にとって身体は他者であり、その他者である身体を生かそうとしているのであって、自我=観念が生きようとしているのではない。そして身体が十全に生きてあるとき、自我=観念はフェードアウトして身体のことを忘れている。身体が気になってしょうがないというのは、病気か怪我をして苦痛を覚えているときである。
自我=観念は、身体を生かそうとしていると同時に、みずからフェードアウトしてゆこうとしている。自我=観念がフェードアウトしてゆくことが身体が生きることなのだ。
自我=観念は、フェードアウトすなわち死んでゆこうとしている。そしてそれが「生きる」というはたらきになっている。
自我=観念すなわち霊魂は、フェードアウトして消えてゆくはたらきである。霊魂は物質ではないし、死んでも残るというものではない。消えてゆくものなのだ。自我=観念すなわち自我=霊魂は、生きてある「今ここ」で点いたり消えたりしている点滅灯のようなものだ。
なのに現代人は、自我=観念だけで生きてゆこうとする。
自我=観念は身体を忘れようとしているはたらきだから、身体の危機が極まったときには自我=観念と身体が離れる(幽体離脱)ということが起きる。そしてそうなると、なんだか自我=観念だけで生きてゆける気がしてくる。
しかしそんなことはたんなる心的現象であって、物理的生物的にというか命のはたらきとして生きるとか死ぬというような問題ではない。
ようするに、心=意識はどのようなはたらきをするか、という問題だ。
もちろん現在の人間社会における大問題だと思うが、霊魂などといってもべつに物質でもなんでもなく、たんなる自我=観念の別名にすぎない。それは別に先験的な脳のはたらきではなく、この社会の制度性によってつくられる心の動きなのだ。
物質だと思い込んでいるだけであり、そういう妄想なのだ。問題は、それが物質であるか否かということではなく、そういう概念=妄想が生まれてくる契機はどこにあるかということにある。
心=意識は、根源的には死のう(消えてなくなろう)としているのであって、死後の世界まで生き延びようとしてなどいない。それのみか、「今ここ」において消えてゆこうとしている。
なのに現代人は、自我=観念だけで永遠に生きてゆこうとする。
たぶんこの反転は、氷河期明けの共同体(国家)の発生ともに起こってきた。
命は、生きようとするはたらきではない。
なぜ生き延びようとする自我=観念になってしまったのだろうか。それは、目の前の「今ここ」ではなく、「今ここ」の向こう側が気になって仕方なくなってきたからだろう。
原始人は、あの山の向こうは「ない」と思い定めて生きていた。
しかし氷河期が明けて人の行動範囲が広くなり、農業をしたりするようになってくると、他の集団と戦争をするようになってきた。集団の外の目に見えない場所や人間を意識するようになってきた。まあそのようなかたちで自我が肥大化してきた。
原始人が「今ここ」の外の未来という時間や見えない場所という空間を知らなかったというのではない。知っていても「ない」と思い定めて生きていたのだ。彼らはそういう自我のフェードアウトのタッチを持っていた。
われわれだって、水平線の向こうに大陸があることは知っていても、水平線を眺めながら「あの向こうには何もない」という感覚も心のどこかしらではたらいてる。



見えない向こう側が気になるのは、それが恐怖や不安の感情をよびさますからだろう。戦争というものを知ってしまったからだろうか。そしてみんながその恐怖や不安を共有してゆくことによって、より集団の結束が強くなる。そうやって共同体(国家)の制度性が出来上がっていった。
いいことであれ悪いことであれ、人類は、自我の肥大化とともに「見えない向こう側」を妄想するメンタリティになっていった。それは、「作為性」である。わからないものをわかったようにでっちあげてしまうことだ。共同体の制度とともに、人間がどんどん作為的になっていった。その果てに、この世界をつくった「神(ゴッド)」という概念が生まれてきたし、見えない死の世界まで携えてゆくことのできる「霊魂」という概念がつくられていった。
肥大化した自我は、見えない向こう側が見えているような気になってゆく。見えないことに対する漠然とした恐怖や不安があって、それが見えているような気にさせ、見えている気になったことによって恐怖や不安はさらにはっきりしてくる。そして、憎しみにもなってくる。これが、戦争の契機になり、分裂病になるのだろうか。そうして、神だの霊魂だの死後の世界だの輪廻転生だのという概念が生まれてくる。
憎しみとは、他者の存在を気にしすぎること。他者の存在(=身体)が自分の存在(=身体)に張り付いて、「空間=すきま」を失っている状態。これは、分裂病の症状そのものである。「空間=ない」を認識することができなくなっている状態。「今ここ」の外の見えない向こう側を勝手に妄想して「ない」と認識することができなくなっている習性から生まれてくる。
人類は、氷河期明けの共同体の発生以来、そういう作為的な意識をどんどん濃密にしていった。氷河期明けの戦争の発生は、憎しみの発生でもあった。
「今ここ」に対するときめく心の動きが希薄になって、「未来」という意識がどんどん肥大化していった。
これは、視覚が「今ここ」の一点に焦点を結ぶことができなくなるという生物学的な問題でもある。もと人間はそういう生物学的な根拠に遡行してゆくことによって人間になったのに、氷河期明けの共同体の発生とともにその根拠をどんどん喪失してゆき、やがて分裂病という不自然な現象が生まれてきた。一点に焦点を結ぶことができなくて、世界が等質に見えてしまう。その視覚現象が拡大して、見えない向こう側まで見えているように妄想してしまうようになっていった。人類はそれによって「計画性」とか「目的意識」というようなものを獲得していったが、その極端なかたちとして分裂病を生み出すようにもなった。
視覚の焦点を結べないことは、何もかもぼんやりしているということではない。何もかもがはっきり見えてしまっていることなのだ。自己と世界が未分化であるのは、原初的なことでも、乳幼児の視覚であるのでもない。それは、自我が肥大化していった果てで起きていることであり、まあ共同体の一員に組み込まれている大人はみんなそのような心的現象をどこかに抱えてしまっている。
原始人や乳幼児の意識においては自己と世界が未分化である……この先入観は、現在の人類学や心理学の大きな誤謬のひとつである。大嘘なのだ。
自我=観念だけで生きるということは、「作為性」で生きるということだ。
身体を自我=観念の命令だけで動かそうとするから鈍くさい運動オンチになってしまう。それは、現代社会の病理である。昔の人は、自我をフェードアウトさせながら身体を追跡するような心の動きで体を動かしていた。根源的には、意識は身体の動きを追跡してゆくはたらきであって、身体を動かしているのではない。
意識は、これから起こる身体の動きをイメージすることはできるが、身体を動かすことはできない。そのイメージを追跡しているだけなのだ。
脳のはたらきは「今ここ」において起きているが、意識はそこから一瞬遅れて発生する。このメカニズムを、人類はまだはっきりと解き明かしていない。
とにかく、スムーズな体の動きを持っているものは、「体なんか勝手に動いてしまうものだ」という感覚を持っている。それは、自我のフェードアウトのタッチを持っている、ということだ。
どうして「死後の世界」とか「生まれ変わり」などというものを本気で信じることができるのだろう。そんなものは肥大化した自我=観念の欲望が生み出したたんなる妄想であり、信じたければ勝手に信じればいいが、その作為性はとてもグロテスクだと思う。
そうした作為性は、見えない向こう側に対する漠然とした恐怖や不安から生まれてくる。
もちろん人間には存在することそれ自体に対するいたたまれなさとしての「実存の不安」というようなものはあるにちがいない。しかしその不安があるからこそ、その不安をフェードアウトさせながら世界にときめいてゆくことがこの生のダイナミズムになっているのであり、その不安を根拠にして作為的な欲望や妄想をたぎらせてゆくことにあるのではない。その作為的な欲望や妄想は、命の衰弱であり混乱なのだ。
その「実存の不安」を覚える自我をフェードアウトしてゆくことに失敗したときに、分裂病幽体離脱などのトランス状態に入ってゆく。
人類は、氷河期明けの共同体の発生以降、自我の肥大化が価値のような観念になってきた。そうやって自我を飼い馴らし育ててゆくかたちで共同体の制度性が発達してきた。
人間は、根源的には、見えない向こう側が不安なのではない。「今ここ」に存在すること自体、すなわち「今ここ」に置き去りにされて存在することが不安なのだ。もともと見えない向こう側は「ない」と思い定める流儀で歴史を歩んできた人類が、あるときからそれが気になってしょうがない存在になっていった。それは、人間の本性でもなんでもない、共同体の制度性によって増幅されていった不自然な想念なのだ。



文明人は、なぜ見えない向こう側が気になるか……?僕はべつに心理学者ではないから深く検証する能力などないが、このことはたぶん、分裂病をはじめとする多くの精神疾患を解き明かす上でとても重要な問題だと思う。
彼らは世界がどのように見えているかという問題は、なぜ見えない向こう側が気になるか、という問題でもあるのだ。
われわれの通常の視覚は、一点に焦点を結んでゆく。しかしときには、一点に焦点を結べなくて、見える範囲のすべてが等質に見えてしまうことがある。なぜならそのとき、見える範囲の向こう側が気になっているからだ。
意識が見える範囲よりも、見えない自我=観念の世界の方に向いている……そういう習性が顕著な人は、目の前の「今ここ」が等質に見えてしまう。そうやって気が散ってしまうし、その代わりそうやって一度にたくさんの情報を頭の中にインプットすることもできる。世の中にそういうタイプの人がいる。
分裂病者は、世界がぼんやり見えているのではない、はっきり見え過ぎるから病的なのだ。
彼らはなぜ自我=観念の世界に入りこんでしまうのか。世界に対する恐怖や不安があるからだろう。一度そういう心的外傷が刷り込まれると、目の前の「今ここ」になくても、自我=観念の世界でそれを再現してしまう。そうやって、見知らぬ人が自分の悪口をいっているように聞こえてしまったりする。
これは、微妙な問題である。たとえば乳幼児期に、たとえ親から怖い思いをさせられなくても、親が自我=観念の世界に入り込んでしまう傾向が強いと、それが子供に伝染してしまう。世界はそのように見るものだと、勝手に学習してしまう。親にかわいがられたからこそ、そのように学習してしまう。近ごろの小学校の教室で落ち着きのない子供というのは、自我の世界に入ってゆく習性を強く持ってしまっているのだろう。
自我の世界に入ってゆく習性を持ってしまうと、外の世界を異常に怖がるようになる。そうしてまた自我の世界に入ってゆく。
彼らは、乳幼児体験としての無意識のところで、世界に対する恐怖を持っている。しかしそれは、人間の本性としての「実存の不安」ではない。自我=観念による実存に居座ってしまっていることの恐怖なのだ。彼らはすでに、自我=観念だけで生きてしまっている。彼らの観念世界においては、神も霊魂も死後の世界も幽体離脱も、ぜんぶ「あり」になっている。
そしてこれは、彼らだけでなく、すべての現代人が多かれ少なかれ共有している観念世界にほかならない。
現代人の心の中の漠然とした不安とか閉塞感などとよくいわれるが、それは人間の本性としての「実存の不安」からくるのではなく、極めて不自然な自我=観念の病であり、「実存の不安」を失っている病なのだ。
ありもしないものを「ある」と思ってしまっている病なのだ。何が「実存の不安」なものか。
E・レヴィナスは「他者とは自己にとっての<未来>である」といっているそうだが、そうやって安直に「未来」などという言葉を使えること自体が、実存的思考を喪失している証しである。いかにもユダヤ的な肥大化した自我がでっち上げた思考だ。自分は「今ここ」のたしかな現在で他者はありもしない「未来」の存在だなんて、よくそんな傲慢な考え方ができるものだ。他人を見下しているのと一緒なのだ。現在のイスラエルの傍若無人ぶりも、こんなところからきているのだろうか。彼らは、被害者意識を口実にして、思い切り他人をさげすんでいる。
まあこの国のもろもろの市民運動だって、被害者意識を口実にして思い切り他人をさげすむことばかりしている。そして中国や韓国のこの国に対する態度も、ひとまずそういうことだろうか。
みんな自分が「現在」だと思っている。そうやって世界の中心に立って、ありもしない「未来」を勝手にでっちあげることばかりしている。
自分とは「現在」から置き去りにされた存在であり、他者こそが「現在」そのものとしてたちあらわれているのだ。少なくとも原始人や生まれたばかりの赤ん坊は、そのような「実存意識」で世界を見ている。
なのに現代人は、自分が現在(=世界の中心)だと思うからその自覚を手放すまいとしてかんたんに時代に踊らされ、かんたんにデマゴーグを信じ込み、スピリチュアルやオカルトが花盛りの時代になっている。そうなってしまうような社会の構造があるとしても、それがどんなに不自然なことかという自覚もあっていいのではないだろうか。
人間は「現在」から置き去りにされてある存在なのだ。そのように「現在」をとらえてしまっているのが人間の知性であり感性なのだ。おそらくそのようにパラダイムチェンジしないと、人類学の探求も分裂病の研究も前に進まない。
ユダヤ教は、古代メソポタミア地方で生まれた世界最初の宗教のひとつである可能性がある。それは、彼らが世界最初にありもしない神や霊魂という概念=妄想をでっち上げた人々である、ということを意味する。つまり、世界最初に見えない向こう側(の異民族)に対する恐怖を体験した人々だった、ということだ。その恐怖があったから、世界中に離散(ディアスポラ)していったのだろう。彼らは、異民族のそばに行って確かめていないと、異民族に対する恐怖から逃れられない。だから、みんなで手分けして、さまざまな異民族のところに移住していった。自分たちだけがまともな人間で、異民族はみんなわけのわからない「人間らしきもの」でしかないと思えて、怖くも気味悪くもあった。そうやって被害者意識とともに異民族をさげすみながら世界中に離散していった。彼らが異民族を怖がりさげすんでいるから、異民族だって彼らに対して攻撃的になってしまう。
彼らのそういう恐怖(PTSD)が、神や霊魂という概念を生んだ。そうしてその恐怖とありもしないものをでっちあげる妄想が世界中に伝播していった。
神も霊魂も文明人によるただの妄想であり、そういう妄想が生まれてきた不自然な恐怖や不安があった。



甘っちょろいいい方かもしれないが、人間は、自我を生きる存在ではなく、自我をフェードアウトして微笑んでゆく存在なのだ。
神を敬うことより、他者に対するときめきの方がはるかに根源的で気高い人間性なのだ。
神を敬う人間がもっとも豊かに他者に対するときめきを持っていると彼らはいいたいのかもしれないが、そんなものはただの勝手な妄想だ。伊勢白参道だろうと江原なんとかだろうと、まさしくそんなどうしようもなくアホで下品な俗物じゃないか。
この世でもっとも豊かに他者にときめいているのは、神も霊魂も知らない人間であり、もっとも弱い赤ん坊のような存在の人たちなのだ。
人間なら誰だってすっかり自分=身体を忘れてしまっている瞬間を体験しているのであり、われわれはその瞬間において、もっとも人間的であると同時に、生き物としての命がもっとも十全にはたらいているのだ。
自我のはたらきが人間の証明なのではない。自我のフェードアウトこそ、人間の人間たるゆえんなのだ。
すなわち、神も霊魂も存在しない精神においてこそ、人間としてのアイデンティティも、生物学的な真実も証明されているのだ。
文明人は、自我が肥大化し、未来意識の俗物根性が旺盛になり、むやみにわけのわからない恐怖や憎しみを募らせ、そのあげくにとうとう神だの霊魂だのという妄想=デマゴーグをでっち上げてしまった。そんなデマゴーグを信じてしまう存在になってしまった。
恐怖にひきつった顔をしながら神だの霊魂だのという妄想をふくらませていったのだ。
共同体の制度は、人々の恐怖を増幅させながら機能してきた。その生贄というか殉教者として、自我=観念だけで生きようとする分裂病が生まれてきた。
恐怖や不安や閉塞感を口実にして、神や霊魂やみずからの肥大化した自我を正当化してもしょうがない。そんなところにこの生の真実があるのではない。まあかつては、そうやって多くの若者がオウム真理教になびいていったのだし、今どきは、スピリチュアルのブームになっている。
また恐怖や不安や閉塞感を口実にしてその肥大化した自我を共有しながら市民運動を盛り上げようとしても、けっして普遍的な説得力にはなり得ない。
人間集団の連携や結束は、根源的には自我のフェードアウトの上につくられる。少なくとも原始人の集団性はそのようにして成り立っていたのだし、この生をつくるための口実などない。誰もこの生をつくることなどできない。自我=観念は無力であり、無力になってゆくことにこそ生きてあることの真実も醍醐味もある。生きようとなどしなくても、われわれはすでに生きてしまっている。その体験として、自我がフェードアウトしてゆく。
人間の集団性は、ときめきや微笑みを組織してゆくことにあるのであって、正義を組織してゆくのではない。そうやって誰もが他者を生かそうとしている。人間は、生きようとしている存在ではない。
集団をつくろうとしているのではない。ときめき微笑み合おうとしているだけだ。
たとえばコーラスという演奏のよろこびは、たがいに声を響き合わせることにあるのであって、集団であることのよろこびで歌っているのではない。そんなわけのわからない感情でコーラスができるのならかんたんなものだが、そういうわけにはいかない。
人間に集団であることのよろこびなどというものはない。
生きてあることよりも、集団であることよりも、まずときめき合い微笑み合うことがもっとも切実で根源的な問題としてある。そういうことができていないと二本の足でうまく立っていられない存在なのだ。生きてあることも集団であることも、つまるところどうでもいいのだ。そういう自我をフェードアウトさせているから生きていられるのであり、集団であることができるのだ。
人間は、自我で生きてあるのではない、自我をフェードアウトさせながら生きている。知性や感性が欠落した俗物ばかりが、自我にしがみついて生きている。現代社会は、自我にしがみつくことを正当化したがる人間に引きずられて動いている。それならそれでもいいのだけれど、彼らにというかそのような時代に引きずられてそれが人間の本性だと決めつけてしまうと、われわれは多くの真実を見失うことになる。
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