ありもしないもの・ネアンデルタール人と日本人・38


人類学の常識においては、人類史の基礎は直立二足歩行をはじめたことにあり、人間的な文化文明の発展の契機は森の暮らしからサバンナの暮らしに移行していったことにあるとされている。しかしサバンナの暮らしといっても、「ブッシュマン」という言葉もあるくらいで、サバンナの中の小さな森から森へと移動しながら暮らすようになっただけであり、人間のような身体能力の劣った猿が、大型肉食獣がたくさんいるサバンナの真っただ中で暮らせるはずがない。
そして「サバンナに出ていった」ということは、そのまま拡散していったということであり、サバンナの中に残ったのは一部のものたちにすぎない。
アフリカ大陸だって広い、サバンナの外の地域もある。そしてそんな広いアフリカ中に拡散していった猿は人類だけだったはずである。
べつにアフリカを出る以前でも、すでに生息域が拡散してゆく生態を持った猿になっていたのだ。
おそらくサバンナに残ったのはほんの一部で、多くはその外へと拡散していった。
サバンナに出て爆発的な知能の進化が起こったというより、「拡散してゆくことによって」というべきであろう。
アフリカ中がサバンナであったわけではない。
原始時代のアフリカ内部にも地域差があり、文化的には中央部のサバンナ地帯よりも北と南の端の方が進んでいる傾向にあった。
人類の知能というか文化は、「拡散」してゆくことによって洗練・発展してきたのだ。
そしてサバンナに残ったものたちと拡散していったものとたちとでは、少々違うメンタリティの文化になっていった。
サバンナでは、トランス状態で自分の世界に入ってゆく文化が発達していった。しかしもともと人類は、それとは逆に自我をフェードアウトしてゆくことによって二本の足で立ち上がったわけで、そのメンタリティによって拡散していったのだ。つまり、フェードアウトの傾向が強くてサバンナの暮らしから落ちこぼれていったものたちが拡散していった、ということだ。



トランス状態になるサバンナの文化も四大文明の発祥の地も人類史のあだ花としてその後の歴史から置き去りにされていったわけで、それとは別に人類が地球の隅々まで拡散しながら育ててきた人間性というか人間的な知性や感性がある。彼らは、サバンナの暮らしから脱落して拡散していった。それは、自然から逸脱してトランス状態に入ってゆくということがうまくできなかったからだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、自然から逸脱してゆくことではなく、猿のレベルよりももっと自然に遡行してゆくことだった。自我を拡大するのではなく、自我をフェードアウトさせて他者にときめいてゆく体験だった。
その姿勢は、他者と向き合いときめき合っていないと安定しない。
だから人間は、どんなに自我を拡大させて唯我独尊のトランス状態に入っていっても他者の存在を消すことができない。他者と向き合っているのが、人間であることの根源のかたちなのだ。
人間は他者と一緒にいる存在であるのではない。他者と「出会っている」存在なのだ。だから、他者の存在を頭の中から消すことができない。一緒にいるのなら、物理的にも精神的にも消してしまうというか追い払うことができる。しかし、いない相手を消すことはできない。ここのところが大事だ。目の前にいない相手なのに勝手にいるようにイメージして勝手に恐怖や憎しみを募らせてしまうのが自我=観念のはたらきであり、こうして戦争や人殺しが起きる。
しかし意識のはたらきの根源においては、他者は、「目の前にあらわれる」というかたちで体験される。だから気づいてしまうし、消しても消しても気づいてしまう。
トランス状態に入ってゆくことは、まわりの環境を忘れて自分だけになってゆくことである。しかし他者は、最初から存在するまわりの環境ではない。いないところからあらわれてくる存在なのだ。だから、あらかじめ消しておくということができない。トランス状態に入ったそこにあらわれてくる。意識は、出現したものに気づくようにできている。
意識は、他者の存在をあらかじめ設定したかたちで発生することはできない。他者の存在に気づく、というかたちで発生する。意識の発生それ自体が他者との「出会い」なのだ。
意識は、他者の存在から一瞬遅れて発生する。したがって、意識が他者の存在を消してはたらくことは不可能なのだ。トランス状態に入ってもまだ他者は存在してしまう。
分裂病者は、ひといちばい唯我独尊で自閉的な存在である。なのに、ひといちばい他者の存在におびえたり憎んだりしている。
文明人は、サバンナの民と違ってたくさんの人間と関係して暮らしているから、恐怖や憎しみの対象となる他者とも出会ってしまう。そして集団の結束は、他の集団に対する恐怖や憎しみの上に盛り上がる。
それに対して家族的小集団だけで暮らしているサバンナの民は、恐怖や憎しみの対象となる他者も他の集団も持っていない。自然環境は、トランス状態に入れば頭の中から消してしまうことができる。そのとき頭の中に浮かぶヴィジョンは何もかもが自然から逸脱して抽象化されてゆく。彼らの鮮やかな色の衣装は、トランス状態のヴィジョンからもきているのかもしれない。
人間は、見えないものは「ない」と思うことができる。だから、森の中に隠れてしまえば、猛獣のいるサバンナも焼けつく日差しも「ない」と思うことができる。
われわれだって、見えない山の向こうや水平線の向こうは「ない」と思う無意識をどこかしらに持っている。トランス状態に入ると、そういう無意識が意識の表層に浮かびあがって意識と身体を切り離してしまう。
しかし、恐怖や憎しみの対象となる他者は、けっして消えないどころか、トランス状態に入ればもっと恐怖や憎しみが増幅してあらわれる。
人類は、氷河期明けの文明社会で、はじめて恐怖や憎しみの対象となる他者と出会った。そしてこの他者は、トランス状態になっても消えないどころか、もっと恐怖や憎しみが増幅してあらわれた。そうして、戦争の時代が加速していったし、分裂病が生まれてきた。
人間は他者と「共生」しているのではない。人間にとって他者は、避けがたく「目の前にあらわれる」存在であり、その「出会い」にときめきながら人と人の関係がつくられてゆく。



人間の自然は他者にときめいてゆくことにある。そのようにして二本の足で立ち上がるという人類の歴史がはじまった。
他者や他の集団に対する恐怖や憎しみで生きてゆくことがどんなに人間として不自然なことか、ひとまず思い知っておいても罰は当たらないだろう。
原始人は、他者との出会いのときめきを体験しながら地球の隅々まで拡散していった。
そのような人類拡散の意味というか意義というか本質を、世界中の人類学者の誰もちゃんと考えていない。どうかみなさん、せめて百年後には気づいてください。
人類は、地球の隅々まで拡散してゆくことによって、自我が拡大してトランス状態に入ってゆくこととは別の、自我がフェードアウトしてゆくという人間の自然の上に成り立った生態を育ててきた。
フェードアウトとは、ひとつの「死」であり、「滅びる」ということである。
このフェードアウトの作用こそ命のはたらきの根源のかたちなのだ。
とりあえず今のところ、死なない人間なんかいない。死んでゆくことが命のはたらきなのだ。だからわれわれはよく「死んでしまいたい」とか「死ぬほどうれしい」というような言葉を使うし、実際に自殺してしまう人も出てくる。
「死んでゆく」というかたちで命のはたらきが起きている。
なのに、誰もかれもが、生き物は生きようとする存在であると決めてかかっている。生き物の意識は「生命維持」という目的を持っていると決めてかかっている。
そうじゃない、生き物は「生きてしまっている」存在であって、「生きよう」としているのではない。命のはたらきの根源は「死」に向かっているのだが、そこでこそ命のはたらきがもっとも豊かに起きるという皮肉というかパラドックスがあるのだ。
命のはたらきの根源的なコンセプトは「死ぬ」ということにある。原初の生命は「死ぬ」という現象として発生したのであり、そうでないとつじつまが合わない。万能細胞が増殖してゆくことだって、根源的本質的には「死ぬ」というコンセプトの上に起きている現象なのだ。
生き物の意識のはたらきの根源(=本能)は、生きようとする衝動をかき立てることにあるのではなく、生きてあることを忘れてゆくことにある。すなわちフェードアウト、すなわち死んでゆくこと。息をすれば、息苦しい身体のことを忘れてしまう。身体=生きてあることを忘れてゆくのが生きるいとなみなのだ。
生きてあることを忘れてしまえば、死ぬことなんか怖くない。原始人はきっとそういう心の動きをラディカルにダイナミックに持っていたのだろう。
生き物は身体の物性を忘れてしまおうとする衝動を持っているから身体と意識が分離するという心的現象も起きてくるのだろうが、しかしそれは、身体を置き去りにしてしまうことではなく、身体を物性を持たない「非存在の空間の輪郭」として追いかけイメージしてゆくことなのだ。
身体を置き去りにして自我という観念だけの存在になって生きてゆこうとするのは、人間の自然とはいえない。分裂病者は、そうやってみずからの「身体の輪郭」を喪失している。
意識は、身体の危機において、身体から離脱する。そうやって自分が自分の身体を見ているというような幽体離脱の現象が起きる。しかしそれだって、息苦しくなったときに息をして身体の物性を忘れてゆくという命のはたらきのバリエーションとして起きているにすぎないのであり、「悟り」だの何だのといって特権化するほどの体験ではない。
ほんとうに身体のことを忘れてしまえば、自分が自分の身体を見るということは起きない。身体のことを忘れてしまえない状態だから、その間に合わせとして幽体離脱が起きる。命のはたらきが衰弱して身体の「物性」を忘れてしまうことができなくなっているから幽体離脱というトランス状態が起きるのだ。
命のはたらきが活発であれば、身体の物性を忘れてゆく(=死んでゆく)ということができる。
スポーツのナイスプレーをはじめとして、身体の物性を忘れてしまったところでダイナミックな身体の動きが起きている。物体として身体の限界を忘れてしまったところで火事場の馬鹿力が起きるのだ。身体の物性を意識してこだわっていたら、そういう力は起きない。
身体はつねに、死に向かいつつ死と生の境目で命を紡いでいる。
そうして分裂病者の自我=観念は、幽体離脱しながらひといちばいありもしない身体の物性をあるように感じて悩み、さらには目の前にいるはずのない他者の存在を勝手にねつ造・妄想しておびえたり憎んだりしている。



生きようとするのは、文明人のたんなる観念(自我)のはたらきにすぎない。
命の根源は死に向かっているからこそ原始人は住みにくさをいとわずに地球の隅々まで拡散していったのだ。彼らはそうやって自我がフェードアウトしてゆくことの醍醐味とともに拡散していった。
住みやすさに居座ろうとすると、自我が肥大化してゆく。恐怖や不安から逃れようとすると、自我が肥大化してゆく。
自我がフェードアウトしてゆくタッチを持っているものは、恐怖や不安を持たない。自我が消えてゆけば、そんなものは持ちようがない。彼らには、住みにくい土地に住み着いてゆくことの恐怖や不安がなかった。
人類は、拡散すればするほど、過酷な環境に対する恐怖や不安を持たない存在になっていった。つまり、アフリカのサバンナの民とは対照的なメンタリティになっていったということだ。氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は、まさしくそのような「自我のフェードアウト」のタッチが豊かな存在だった。それはすなわちそれほどに命のはたらきを豊かにそなえていたということであり、まあ彼らは、「火事場の馬鹿力」でその苛酷な環境に住み着いていった。
そこは、人がかんたんに死んでしまう環境だった。それでも身体のことを忘れながら命のはたらきが豊かに起きてくるタッチを持って住み着いていった。
サバンナの民が自我を拡大してトランス状態に入りながら過酷な環境を忘れていったとすれば、ネアンデルタール人は自我をフェードアウトさせながら他者にときめき、その苛酷な環境とも和解していった。
自我がフェードアウトしてゆけば、トランス状態にはならない。それは、知的で聡明だからそうならないというようなことではなく、原始的であれば、そして人間として本性的であれば、トランス状態にならないのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、自我がフェードアウトしてゆく体験だった。
しかし今どきは、オカルト的な妄想でトランス状態しまくっている知識人がいくらでもいる。
人間の本性は、自我をフェードアウトさせながら他者にときめいてゆくことにある。意識は避けがたく他者と出会い、他者を認識してしまう。トランス状態に入ってもなお他者と出会ってしまうのが人間なのだ。
分裂病者だって、ちゃんと自他の区別はして他者と出会っている。ただ、他者にときめくことができなくなっているだけだ。
自我をフェードアウトさせてゆかないと、ときめくということは起きない。
誰もが他者にときめきながら人類は拡散していったのだ。
アフリカのホモ・サピエンスが世界中に旅をしていっただの、そういう妄想はいいかげんにしてくれと思う。
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