文明の限界・ネアンデルタール人と日本人・39


ユダヤ人という概念というか民族は、エジプトメソポタミア文明から生まれてきた。
彼らの離散(ディアスポラ)の動機と、原始人が地球の隅々まで拡散していったことのそれとはまた別のことだ。それは故郷を背負ってよその地域の異民族を偵察に行っているようなもので、だからユダヤ教という故郷を手放さなかったわけだが、原始人の拡散の場合は、誰もが故郷を捨ててどこからともなく寄り集まってくるかたちで実現していった。
人類が住みよい理想郷を目指して拡散していったというのなら、まあそのころもっとも自然環境に恵まれたエジプト・メソポタミアあたりが行き止まりで、そこから先はどんどん住みにくくなっていった。
現在のような温暖期の地中海沿岸ならヨーロッパでもそれなりに土地も肥沃で気候も温暖であるのだが、氷河期になると、同じ地中海沿岸でもヨーロッパ側とアフリカ側ではそうとうに環境の差があって、ヨーロッパ側は一気に不毛の地になってしまっていたらしい。
それでも拡散していった。
氷河期は拡散が起きないかといえば、そんなことはない。
50万年前の人類は、ドーバー海峡を渡ってイングランド島に住み着いていった。そのころ船などあるはずもなく、氷河期で陸続きになっていたからだろう。
寒ければ、歩き回っていたほうが体は暖まる。暑ければ、木陰でじっとしていたい。少なくとも、アフリカのホモ・サピエンスよりも、北ヨーロッパネアンデルタール人の方が行動範囲は広かったはずである。
それはともかくとして、原始人が、そのころ地球上でもっとも住みよい土地であったはずのエジプト・メソポタミアを捨ててなぜ拡散していったかといえば、住みよい土地を求めるという理由ではなかったはずである。そして、住みよい土地だったのだから、そこに残ったものもたくさんいたということだ。
たくさんの人間がそこに残っていたから、氷河期明けに人口爆発が起きて文明が生まれてきたのだ。
「イヴ説」をはじめとする一部の人類学者は、10〜7万年まえのアフリカを出た数十人のグループが人口を増やしながら世界中に拡散していったといっているのだが、そんな近親相姦を繰り返しているだけのグループで人口が増えるはずがない。遺伝的にどうのという以前に、セックスの関係そのものが停滞していってしまう。
もっと広い範囲のたくさんの人々のあいだでセックスの関係がなされていて、はじめて人口爆発が起きてくるのだ。また、人口を増やすためには赤ん坊や子供を育てるということをしなければならないのだから、そうそうむやみに旅なんかしていられない。一か所にじっくり住み着いていって、はじめて人口爆発が起きてくる。
エジプト・メソポタミア地方には、氷河期のころからすでにヨーロッパよりもたくさんの人が住み着いていたのであり、その基礎がなければ氷河期明けの人口爆発や文明の発祥が起きてくるはずがない。
そしてそれはもう、人類がアフリカを出て拡散してゆくということがはじまった200万年前からすでにそうだったのだろう。そういう人口が密集した地域だったからこそ、そこから落ちこぼれて拡散してゆくものをたくさん生みだしていったのだ。また、住みよくて住み着いてゆこうとする生態を持っている土地柄だからこそ、居づらくなって集団から出てゆくものも頻繁に生みだしてしまう。集団の人口が増えてゆけば、息苦しさを覚える一部の人間はどうしても出てきてしまう。とくに若者たちは、集団の外をうろつくという行動習性を持ってくる。
現在の若者が家を飛び出してストリートに集まってくるように、それはもう人間の普遍的な生態であるらしい。
エジプト・メソポタミアのような人類拡散の通過点の住みよい地域は、200万年前の最初からもう、土地や集団に対する執着が強い土地柄だったのだろう。だからこそ文明が発祥したし、だからこそさらにダイナミックでモダンな集団を組織してゆくことができなかった。



メソポタミアから発祥したユダヤ人集団は、もしかしたら人類最初の共同体をつくった人たちだったのかもしれない。しかし彼らは、同じ地域の都市国家に追われ、地中海の西岸にイスラエルを建国したものの最後にはローマ帝国に滅ぼされてしまった。彼らには、ローマ人のような融通無碍でダイナミックな集団性はなかった。それはもう、人類拡散の通過点の住みよい地域に住み着いてきた人たちの集団性の限界だったのかもしれない。つまり、ときめき合いながらなりゆきまかせで大きな集団になってゆくダイナミズムを持っていなかった。どうしても小さくまとまって余分な個体を吐き出してしまう集団性だった。まあそういう意味で、最初から世界中に離散してしまう宿命を持った民族だったのかもしれない。彼らの集団においては、はじめに集団結束のためのスローガン(規範=律法)があって、人と人が私的にときめき合ってゆくことは二の次のことだった。そういう枠組みを第一義のものにしてしまったら、もう大きな集団にはなれないし、人と人がときめき合う関係も豊かにはなってゆかない。彼らは、ときめき合うということをよく知らない民族なのだ。選民思想というのかエリート主義というのか、人と人が野放図に無邪気にときめき合ってゆくということを知らない。神の子であるユダヤ人どうししかときめき合うことができない。
人類拡散の通過点の住みよい地域に住み着いてきた人たちの集団性の限界。ユダヤ人は世界の文明の歴史をリードしてきたが、集団性において限界があった。それは、人と人がときめき合ってゆく関係性が希薄である、ということだ。
現在、世界最高の頭脳を有するユダヤ人の国家が、なぜあんなにも品のない二流国であらねばならないのか。不思議といえば不思議だし、当然といえば当然なのだ。
彼らは、まわりの地域の人々のすべてをイスラエル国民にしてしまおうとする意図もなければ、まわりの人々に寄ってこられるだけの魅力も持っていない。ユダヤ人以外の人間を人間だと認めていない。ユダヤ人だけの国家としてまわりの地域を占拠しようとしても無理があるし、限界がある。
彼らは、人と人がときめき合うということを知らない。人と人は集団の論理=律法を共有して関係してゆくものだと思っている。われわれは神に選ばれた人間だという意識=自我を共有しながら関係をつくってゆく。
ユダヤ教の教義に問題があるとか、そういうことではない。彼らの集団性の限界は、人間の集団性の基礎である人と人がときめき合うという資質に欠けていることにある。集団の論理で作為的につくられる集団性には限界がある。20世紀の共産主義国家の失敗しかり、どんな立派な集団の論理よりも、人と人がときめき合う関係を持っていることの方がずっと豊かな集団のダイナミズムを生む契機になるのだ。
なんのかのといっても、5万年前の地球上でもっとも豊かに人と人がときめき合う集団性を持っていたのはネアンデルタール人だった。その伝統によって氷河期明けのヨーロッパがエジプト・メソポタミアを凌駕していったのだ。
そのときエジプト・メソポタミアの集団性は、集団の論理ばかりが優先して、ヨーロッパのような人と人がときめき合う関係性が希薄だった。
ヨーロッパのユダヤ人は、集団の論理ばかりが先行して人と人がときめき合う関係性が希薄だったから、ヨーロッパ人に嫌われた。おそらくヨーロッパ人は、そういうことを本能的に感じるのだろう。ユダヤ人であることから脱落していったユダヤ人が、ヨーロッパ社会に溶け込んでゆくことができた。なぜならヨーロッパ人とは、もともとエジプト・メソポタミア地域の集団から脱落して拡散していった人々の末裔なのだから、仲良くできないというわけではない。しかしもともとヨーロッパ人は、神の子であることから別れを告げて拡散していった人々なのだ。
人類の集団は、拡散すればするほどときめき合う関係性を濃くしていった。
人類のもっとも高度な集団性は、法とか規範とか社会正義というような集団の論理(スローガン)を持っていることにあるのではなく、ときめき合う関係性が豊かに機能していることにある。
拡散の通過点であるエジプト・メソポタミア地域では、人と人がときめき合う関係性が成熟していない。ときめき合う関係性を持った人間はみな、そこから拡散してゆき、ときめき合う関係性が希薄な人間が残っていった。そうして、集団の論理が優先する共同体(国家)を生み出していった。
法とか規範とか社会正義というような集団の論理(スローガン)が優先してしまうと、ユダヤ人のように豊かな集団性を持つことができない。彼らは、集団の論理が先行した存在だから集団に寄生してゆく能力は優れているが、人間の集団性の起源であり究極でもある人と人がときめき合う関係性は希薄である。
イスラム教徒の女たちが顔を隠しているのも、集団の論理が優先してときめき合う関係性を否定している社会だからだろう。それが、人類拡散の通過点であったエジプト・メソポタミアの伝統であり限界なのだ。
ユダヤ人になぜ心理学者が多いのかということだって、彼らは自我が強すぎて他者とときめき合う関係を持つことが下手な民族だからだろう。彼らがときめき合う関係性が豊かなヨーロッパで生きてゆこうとすると軋轢が強くて、どうしても病理的現象が生まれてきてしまう。
おそらくユダヤ人とは神の定めた規範=律法に縛られながら人と人がときめき合うことをどんどん喪失していった人々であり、しかしそうした傾向は今や世界中の人間が多かれ少なかれ共有している。そして、分裂病をはじめとするさまざまな精神病理を生み出している。



もしかしたら、人類の分裂病は、世界中に離散していったユダヤ人のところからはじまっているのかもしれない。それは、「今ここ」の向こう側を捏造して恐怖を覚えてしまう肥大化した自我と規範意識から生まれてくる。
意識が幽体離脱して「今ここ」の外に立ってしまうことは、命のはたらきが衰弱した状態から起きてくるのであって、命のはたらきの自然や究極としてあるのではない。命のはたらきが衰弱しているのなら、身体を捨てて自我だけで生きるしかない。まあ意識は不測の事態としてそんなような心的現象を起こすことがあるのだろうが、それが通常の事態になってしまうのは、神という概念をはじめとして共同体の規範に縛られているからだろう。通常の事態においてすでに縛られてあるのならもう、通常の事態において身体を置き去りにして自我だけで生きるしかない。
親に可愛がられ囲い込まれていることだって、無意識のところでは身体の危機を感じて自我だけで生きようとする衝動をうながしているのかもしれない。それは、ユダヤ人が神の律法に守られながら選民意識を募らせているのと同じ状態であろう。
彼らは、「意識は自我の上に成り立っている」というか「人間は自我=観念で生きている」という問題設定で人間を分析してゆく。人類社会に神や霊魂という概念がはびこる基礎は、彼らがつくった。彼らは、「人間は自我をフェードアウトさせながらときめき合ってゆく存在である」という問題の立て方はしない。その強すぎる自我を温存しながら問題を解決しようとする。すべての人間を自我追求の存在にしてしまおうとする。まあそうなれば、彼らがヨーロッパ人との軋轢を起こすことなく、彼らがヨーロッパ人をリードしてゆける。
人類がみな自我追求の存在になったら、きっと分裂病はなくなるのだろう。というか、人間はみな分裂病になってしまう。べつにユダヤ人でなくても、そういうかたちで問題の解決を企画している人たちはたくさんいる。
彼らは、他者のようになりたいとあこがれるよりも、他者を自分のような存在にしてしまおうと企んでばかりいる。まあ、ユダヤ人だけでなく、今どきのこの国の大人たちだって、そのような人種ばかりだ。彼らは、自分が人にときめかれないことは不当だと思っている。人は、そうやって病んでゆくし、したたかにもなってゆく。そのようにしてたくさんの優秀なユダヤ人心理学者が生まれている。
たくさんの優秀な心理学者を生み出していることがユダヤ人の限界なのだ。彼らは、他人も自分も支配しコントロールしようとしている。
しかし人間は、ときめき合うことをこの生の根拠にしている存在なのだ。「あなた」を支配しコントロールしようとするのではなく、「あなた」のようになりたいとあこがれている存在なのだ。
ユダヤ人の人間観は、エジプト・メソポタミアの風土から生まれてきた。おそらく彼らがパンドラの箱を開けてしまった。彼らが説く人間のかたちは、人間であることの起源でも究極でもない。たんなるモダンな(文明的な)人間観であり、人間の原始性でもポストモダンでもない。
僕は、ユダヤ人の心理学者に人間とは何かということを問おうとは思わない。彼らの自我の思想では限界がある。現代社会は、彼らの主導権のもとに人間とは何かということの問題設定をしてしまっているから、たとえばいつまでたっても分裂病の謎が解けなかったりするのだ。
僕はナチスの政治組織を肯定するつもりはさらさらないが、ユダヤ人の人間観の限界はたしかにあると思っている。彼らによって人類の理想が実現するとも、人間とは何かということの最終的な答えが提出されるとも思えない。彼らは、そういう限界を自覚していないどころか、最終的な答えは自分たちのもとにあると思っているからやっかいなのだ。彼らの人間理解は、ほんとうに自分勝手で傲慢で中途半端なのだが、そういう人間理解が現代社会の人間理解の基礎にもなっているからやっかいなのだ。
伊勢白山道や江原なんとかのスピリチュアルに賛同するのもけっこうだが、彼らの生命観や世界観の基礎は、エジプト・メソポタミアユダヤ人がつくったものにすぎないのであり、彼らには日本列島の伝統の本質はわからない。
とはいえ、そのときめき合う資質が欠落したユダヤ人だって、人間がときめき合う存在だという事実からは逃れられない。彼らは、人にときめいてゆく資質もときめかれる資質も欠落しているかからいろいろ精神的にやっかいになってきて、心理学を手に入れたくなるのだろう。
しかし彼らは、心理学でときめく心を取り戻そうとするのではなく、ときめく心を失っていることを隠蔽し、人間とは自我で生きている存在であると居直ってゆく。
自分たちが迫害されるのはときめく心が希薄だからだとは、絶対認めない。神の子ではない凡庸な連中の嫉妬だと決めてかかっている。そうして、この迫害は神が与えてくれた試練だと思い込んでゆく。
自分たちの正しさ清らかさこそ迫害を受ける原因だと決めてかかっている。
もちろん迫害することなんかろくでもないことに決まっているが、彼らはなぜあんなにもときめく心が希薄で、なぜあんなにも心理学が好きなのだろう、という疑問はどうしても残ってしまう。
彼らは、被害者意識をかさに着て人を支配しにかかることばかりしている。そしてこの手法は、今や世界中の人間に蔓延している。ユダヤ人が生み出す神や霊魂や金や知能は、この世界を支配するためのもっとも有効なアイテムである。
ユダヤ人は、みずからの被害者意識を、世界を支配するための口実にして歴史を歩んできた。彼らが迫害されることは今にはじまったことではないし、あえて迫害されることを選択して歴史を歩んできた人々なのだ。迫害されることは、世界を支配するための口実になる。
迫害されることの恐怖が、支配欲という自我を充実・肥大化させてくれる。これこそ、エジプト・メソポタミアから文明が発祥してきた原動力であり、それが現代社会にも蔓延して、社会を動かす力にも社会的な病理現象にもなっている。



ユダヤ人には世界を支配する能力があるが、世界=他者を祝福する能力も世界=他者から祝福される能力もない。そういう能力なら、氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人の方がはるかに豊かにそなえている。それは、人類拡散の通過点の地域と行き止まりの地との差である。
ネアンデルタール人は、誰からも滅ぼされていないし、誰も支配していなかった。氷河期の北ヨーロッパで生きてゆく能力など、世界中にネアンデルタール人以外の誰にもなかったのだ。
氷河期の北ヨーロッパで原始人が生きてゆくことがどんなに大変なことか。そんなしんどい地で生きてゆく能力は、エジプト・メソポタミア的=ユダヤ的な、神という概念の力で人を支配してゆく集団の秩序ではなく、人と人がときめき合うダイナミズムにあった。自我に固執していたら、誰も生きられなかった。誰もが自我をフェードアウトさせながらときめき合っていなければ、誰も生きられなかった。誰もが自分の延命など忘れて他者を生かそうとしていなければ、集団は成り立たなかった。というかそこは、生き延びることが不可能な土地だったのであり、その不可能を彼らは生きていたのだ。
人類史上、彼らほどときめき合っていた人々はいなかった。
第二次大戦中のドイツ人がユダヤ人にどんなにひどいことをしたとしても、人と人がときめき合う能力はネアンデルタール人の末裔であるドイツ人の方がずっと豊かにそなえていることもまた事実なのだ。そういう熱っぽいものを持っている人たちだったからこそ、ユダヤ人の鈍感さや薄情さに苛立ったということもないとはいえない。彼らは、人間の鈍感さや薄情さに戦いを挑んでいった、外の英米仏に対しても、内のユダヤ人に対しても。良くも悪くも、そういう野暮ったくて熱っぽいところがある人たちなのだろう。
根源的には、誰にも他者の罪を裁く権利などないし、謝罪しなければならない義務もない。そういういわば人間であることの尊厳は、ユダヤ人よりもネアンデルタール人の方がはるかによく知っていた。彼らは他者が正しいか否かということなど問わなかった。他者が存在することそれ自体にときめいていった。そしてそれは、日本列島の伝統のかたちでもある。そうやって「あはれ」とも「はかなし」とも「憂き世」とも嘆きながら、水に流して忘れてしまう態度を止揚していったのだ。
日本人は、どこかしらで原爆を落としたアメリカを赦している。戦争を仕掛けていったのはこちらだし、死に物狂いで戦った結果なのだから、それはまあ天災だと思って水に流すしかない、ということだろうか。
それに対して中国人や朝鮮人ユダヤ人は、その侵略・迫害された屈辱をけっして忘れようとしない。忘れようとしないその肥大化した自我が人間の本性だとは思えないが、人間に対する恨みや憎しみはそうかんたんには消えない。それは、文明が生み出した病である。
それは、「支配された」という恨みや憎しみでもあるのだろうか。「支配された」という恨みや憎しみは支配し返すことによってしか晴れない、ということだろうか。現代人は、いつまでこんな関係を続けてゆくのだろうか。
おそらく原始時代にそのような不自然な人と人の関係はなかった。
ネアンデルタール人は、人と人がときめき合う存在であるという人間性の事実を究極まで生きた。そしてそういう原始性は、人間であるかぎり現代人の中にも残っているはずであり、そういう原始性を呼び覚まさないことには、人に対する恨みや憎しみはなかなか消えてゆかない。
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