未来を構想することはできない・ネアンデルタール人と日本人・40


アメリカ人は、どうすればよい社会が実現するかと構想し語り合うことが好きだ。彼らは建国以来ずっとそんなことを続けてきて、はたして彼らが構想した通りの理想の社会が実現しているか?
そうでもあるまい。
犯罪は頻発し、貧富の差も激しい。そうして多くの人が向精神薬を手放せない暮らしを続けている。
社会は人間が構想した通りにはならないという見本じゃないか。
内田樹先生などは、アメリカ人の社会を構想する情熱と信念を大いに評価しているが、そうやって構想した通りに社会を動かそうという、その作為性こそが彼らの社会を歪んだものにしている元凶ではないのか。
一部の強いものが多くの弱いものから収奪してゆく制度はよくないとか、共生的包括的な制度をつくらねばならないといいながら、実際には一部の強いものが得をする収奪のシステムになってしまっているではないか。アメリカンドリームとは、収奪する側に立ったものが勝ちだということだろう。
社会を構想するなんて、卑しい性根だ。それは、人を支配し収奪しようとする情熱にほかならない。ようするに、自分が得をし自分が尊敬される自分に都合のいい社会をつくりたいのだろう。
社会は人間が構想した通りにはならないし、その構想しようとする欲望がせめぎ合ってゆがんだ社会になってゆく。
あなたに社会を構想する権利があるのなら、すべての人間にもある。すべての人間の構想=欲望が競い合いぶつかり合っている社会が、そんなにいいか。あなたひとりの構想通りにするわけにはいかないし、なるはずがないのだ。
社会を構想することがどんなに下品で愚かなことかということを、彼らは何もわかっていない。そこにアメリカ人や内田先生の思考の限界や卑しさがある。
いやまあこれは、アメリカ人や内田先生だけじゃない、現代の市民社会全体の傾向だといえるのかもしれない。誰もが社会を構想しようとしている。そしてその肥大化した自我意識の蔓延が、社会を住みにくいものにしている。
社会を人間が構想した通りにつくらねばならないなんて、人間を信じていない証拠だ。
みんなが社会を構想することをせずに「なりゆき」にまかせたら、よくない社会になってしまうのか?
「なりゆき」にまかせることは、人間を信じることだ。
少なくともネアンデルタール人は、そのような流儀で暮らしていた。その極寒の環境は、誰にも明日も生きてある保証が与えられていなかった。したがってその状況から未来を構想する発想が生まれてくることは論理的にありえない。
つまり、自我が未来に向かって拡大してゆくということがなかった。自我をフェードアウトしながら「いまここ」を追跡してゆくのが、彼らの生きる作法であり集団運営の作法だった。
そして「なりゆき」にまかせることは、日本列島の伝統でもあった。それは、日本列島の特異性でもなんでもない。ネアンデルタール人だってそうしていたのだ。
人間の自然・根源においては、未来の社会など構想しない。意識はこの世界から置き去りにされながらの「なりゆき」を追跡するはたらきであって、この世界の未来を構想するはたらきではない。この世界やこの生の未来を構想するという不自然によって人間の心は病んでゆくのだ。
そういう不自然な観念性を氷河期明けの文明人は持ってしまったし、それでも人間は、もう一方のところで「今ここ」を追跡する心を残しながらこの生を紡いでいる。
一緒に話したり遊んだりすることが楽しければ、誰だって別れたくなくなるだろう。まあ、そんなようなことだ。そういう「今ここ」を追跡する心がいきいきとはたらいていることは不自然なことか?
出会いのときめきと別れのかなしみ、そういう「今ここ」を追跡する心が豊かに交錯し生成している社会は不自然だろうか?
肥大化した自我によるスケベ根性を丸出しにして未来の社会を構想すればえらいというものでもあるまい。そうやって人間を信じられなくて人間を支配してゆこうとする観念が突出してしまうことこそ、文明が生み出した病理なのだ。それはまあ現代社会の必要悪であり、ほどほどにしておいた方がよい。そんな意地汚さをむやみに特権化するべきではない。



近代だろうと原始時代だろうと、人間の社会は、人間の構想した通りに動いてきたのではなく、「なりゆき」で動いてきただけである。なぜなら人間は、根源的には、「今ここ」の「なりゆき」を追跡している存在だからだ。
ネアンデルタール人はその人間としての自然を究極のところまで背負って生きた人々だったし、日本列島の伝統的な「なりゆき」の文化にもその自然が受け継がれている。
現代人は、「未来を構想する」という病理=不自然を少しは自覚してもいいのではないだろうか。未来は、自我=観念が肥大化して、自我=観念だけの存在になってしまっているところから構想される。それは、人間性の自然でも普遍でも根源でもない。誰だってその肥大化した自我をフェードアウトさせてゆくことも併せて体験しながら生きている。いろいろややこしい世の中ではあるが、そうしないとこの生のバランスが保てないし、そのフェードアウトしてゆく心の動きにも目を向けないと人間性の自然・本質は見えてこない。
たとえば、言葉の問題。
レヴィナスのように「他者とは未来である」と規定するなら、言葉は他者に伝達するために生まれてきた、ということになる。その言葉の意味を他者が理解する「未来」を構想して発せられた、ということになる。
しかし言葉の起源においては、「他者が理解する」という体験はなかったはずである。言葉が存在しない段階で、「他者が理解する」という未来など構想できるはずがない。
それでも人類は、言葉を発してしまったのだ。そんな構想などなく、ただもう思わず発してしまう言葉=音声があった。そこにこそ、言葉の本質がある。
他者と出会ってときめいて思わず言葉を発してしまう。「やあ」とか「おう」という音声にはじまって、現在の「おはよう」とか「はじめまして」とか「じゃあね」とか「さよなら」という言葉にいたるまで、「今ここ」の出会いのときめきと別れのかなしみの表出であることが言葉の根源・本質のかたちなのだ。つまり、「今ここ」を追跡し「今ここ」に反応してゆくことが言葉という体験の根源・本質なのだ。
根源において、人間が言葉を発することに「未来」など構想していない。思わず発してしまうときめきがあるだけなのだ。
人間は、さまざまな心の動きとともにさまざまな音声を発してしまう猿だった。言葉の歴史は、そこからはじまっている。
原初の人類が意味の伝達という未来意識で言葉を発したということなど論理的にあり得ないし、われわれ自身の日常感覚ともずれた言語論である。人と人がときめき合いながら他愛ないおしゃべりをしたり思うよりも先にあいさつの言葉を交わし合っている日常を、彼らはなんと考えているのだろう。
言葉の本質は、インテリの議論の中にあるのではない。まあ現在の西洋人は言葉を発することに「意味の伝達」ということをたえず意識している人種かもしれないが、言葉の起源・本質は、子供や若い娘の他愛ないおしゃべりから学んだほうがいい。
原初においては意味なんかどうでもよかったし、相手に伝わるということ以前に音声を発せずにいられない衝動があったわけで、あえていうなら音声を届けようとする衝動があっただけだ。そしてそれはもちろん「未来を構想する」ことではなく、他者という「今ここ」にたどり着こうとする衝動だったのだ。
つまり、他者を自分のようにしようとすることではなく、自分が他者のようになりたいという気持ちの表現だった。そういう気持ちがなくて、どうして人と人がときめき合うことができるものか。言葉は、そういうときめきの表出だったのだ。
そしてそういう関係が発展してやがて「あなたのいうことはわかる」という関係にもなっていったのだが、それだって「あなたのようになりたい」という気持ちから生まれてきたのだ。
したがって、西洋の知識人のように「他者の絶対的な異質性」などということをいってもせんないことだ。まあ僕は、そんな言説をありがたがってコピペしようとは思わない。
未来を構想することは善でも人間の自然でもない、現代社会の必要悪として機能しているにすぎない。
人間は「今ここ」から置き去りにされた存在であり、「未来を構想する」ことより「今ここ」にたどり着くことの方がずっと切実な問題であり、死ぬまで「今ここ」にたどり着けない存在なのだ。
他者はそういう「今ここ」の存在だから、人は他者にときめく。
そういう「今ここ」にたどり着こうとすることの切実さから言葉が生まれてきた。
言葉が意味の伝達のための道具として生まれてきたなんて、ほんとに愚劣な思考だ。
人間は、「今ここ」の「なりゆき」を追いかけて生きている存在であり、それが、意識のはたらきの根源のかたちなのだ。だからこそ社会は人間の構想した通りにはならないのだし、われわれはその作為性を卑しいとも思う。その作為性を人間性の本質だの正義だのというなんて、ほんとばかげている。
ネアンデルタール人の社会にも言葉があったということは今や定説になりつつあるが、「今ここ」をけんめいに生きていた彼らが「意味の伝達」を第一義とするような言葉の使い方をしていたとはいえない。
言葉は、「今ここ」に対するときめきの表出だった。それが、「今ここ」にたどり着こうとする人間の本性なのだ。
他者との関係を構想しその関係をつくってゆくための道具として言葉が機能していたのではない。
言葉は、世界や他者にときめいて思わずこぼれ出てしまう音声だった。
未来の社会を構想しないことが人間の本性であり、誰もが構想しないで「なりゆき」にまかせてゆくから誰もが納得するかたちで動いてゆくのであり、誰もが構想していたらそれらがぶつかり合ってぎくしゃくするばかりで、構想の恩恵を受けるものと落ちこぼれるもの、満足するものと反発するものが生まれてきてしまう。
いったいどんな社会がいい社会だというのか。そんなことは、誰にもわからない。
あなたのその構想を、いったい誰が正しいと証明するのか。この世のすべての人間が賛成しても、それが正しいかどうかはわからないのである。
人間を信じてなりゆきにまかせるしかないではないか。もちろんそれは誰もがそのような立場に立つことによって成り立つのであって、構想して社会を動かそうとするものがいるかぎり、それに引きずられてしまう。構想するものが多数派の社会になれば、どの構想がベストかという議論になってゆく。あるいは、より力の強いものの構想が優先されてゆく。今やもう、誰もが未来を構想してそのバランスをとってゆくしかない世の中になっている。
それはまあいい。ただ、それが人間の本性だとか、それによって理想の社会が実現するというような認識は正確とはいえない。
もともと人間は、たがいに信じ合いときめき合いながら「なりゆき」にまかせてゆくことができる存在だった。われわれは「なりゆき」にまかせることができない社会をつくってしまったが、それが人間の本性だとか理想だといってしまうと間違う。
それでも社会は、構想通りにはならないのだ。構想なんか人によってまちまちだし、誰もがどこかしらに「なりゆき」にまかせて「今ここ」を追跡する心を持っている。そういう人間の自然に裏切られて社会は構想した通りにはならないのだ。
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