ジャパンクール・ネアンデルタール人と日本人・43


人間の集団性の基礎となる人と人の関係がある。
「人間とは集団を構想する存在である」ということにすれば、共同体や支配者や階級の発生の起源を考えるのも苦労はない。それはもう人間性の自然として、あたりまえのように発生してきたことになる。
だったら遠い原始時代にもそんな制度があったのか。二本の足で立ち上がったときからすでにそのような傾向がはじまっていたのか。
そうだと考えている人類学者もいるが、おそらくそうではあるまい。
人類は、猿が持っていたそのようなボスだの順位性だのという集団の生態をいったん解体して二本の足で立ち上がっていったのであり、共同体も支配者も階級も、氷河期明けの文明の発祥以降に生まれてきたにすぎない。それは、人類700万年の歴史の、ほんの数千年前に生まれてきた制度にすぎない。
そしてそれらの文明は、人間の本性にかなったものだというわけではない。氷河期明けのどこかで人間の本性からの逸脱が起こり、そこから生まれてきた。
もともと人間は、未来や集団など構想しない。もっと行き当たりばったりな存在なのだ。
家族であれ国家であれ、根源的には、人間は集団を鬱陶しがる存在である。それでもそれを受け入れてしまうのは、そこにおいて何はともあれ人と人がときめき合う関係が起きているからだ。その「なりゆき」のままにときめき合ってゆく関係こそが、人間の集団性の基礎になっている。
べつに、集団を構想する存在であるのではない。人間の根源に、そんな衝動ははたらいていない。現代人はそういう肥大化した自我=観念を持ってしまっているというだけのこと。集団なんか、鬱陶しいだけなのだ。それでも人は、集団の中に置かれて存在している。
集団の中では、「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」など、さまざまな人と人の関係のあやが生成している。人間はそのときめきやかなしみをかみしめずにいられない存在であり、この関係性の上に人間集団が成り立っている。
映画や小説や劇画等のエンターテインメントにおけるドラマ性は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」をあやなして表現してゆくことにあるのだろう。
人と人の関係性の根源は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」にある。
たとえ一緒にいても、瞬間瞬間の「出会い」と「別れ」がある。意識は、点いたり消えたりしているはたらきなのだ。無意識的にはというか、生物学的な脳のはたらきにおいては、意識は、瞬間瞬間の出会いと別れを体験しながら他者およびこの世界と向き合っている。
われわれのこの意識は、世界や他者と出会い続けているし、別れ続けている。
「一緒にいる」ことなんかできない。その不可能性が「ときめき」になり「かなしみ」になる。
われわれは、一瞬一瞬、この世界にあらわれ、この世界から消えている。目の前の世界や他者もまた、一瞬一瞬、あらわれては消えている。
一緒にいるように見えているのは「残像」がはたらいているからで、それが「記憶」や「かなしみ」になる。
「私」は、この世界に「存在」し続けているのではない。少なくともメタ主観的な意識のはたらきにおいては、この世界にあらわれたり消えていったりすることを繰り返しているのだ。
つまりわれわれの意識は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を感じてしまうようなはたらきになっている。そして「一緒にいる」と思ってしまうことに対する違和感を避けがたく抱いてしまう。そう思ってしまうことのどうしようもない居心地の悪さがある。
好きな相手と一緒にいるはずなのに、だんだん鬱陶しくなってくる。
いつも一緒にいたいと思うと同時に、ときどきひとりの時間がほしくなる。人間なんて、まあそういうものだろう。それは、点いたり消えたりしているはずの意識が点きっ放しになってしまっているような居心地の悪さなのだろう。
何はともあれ人は、変化が欲しくなる。意識が点いたり消えたりしないで点きっ放しになってしまっている状態に耐えられない。
一か所にじっとしていられない。それはまあ、二本の足で立っていること自体がそういう姿勢だということもある。身体が動くことは生き物であることの与件である。
人間は、つねに「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の中に身を置いていようとする存在であり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。
いいかえれば、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が起きていないと一緒に暮らせないし、一か所に定住できない、ということだ。一緒に暮らしても一か所に定住しても、生きてあることそれ自体においても、人や世界との関係には「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が生成している。そういうことを豊かに体験してゆくのが知性であり感性なのだ。
何かを知ってそれでもういいというわけにはいかない、そこからさらに新しい疑問が湧いてくる。それが、人間の知性や感性だ。だから名人が、「死ぬまで修行です」といったりする。



人間は、「これが理想の社会です」とか「これが理想の家族です」とか「これが理想の恋人です」とか「これが理想の私です」といってとどまっていることはできないのだ。
つまり、とどまっていられる「理想」などというものはないのだ。
人間の知性や感性は、理想の未来を構想するのではない。べつのわからない何かを探しているだけだ。わかってしまった理想よりも、わからない何かを探そうとする。
べつに住みよい土地でなくても、どんなに住みにくくても、そこにわからない何かを探求するようにして住み着いてしまうのが人間なのだ。
日本が平和で豊かな国だといっても、それが住み着く理由になっているのではない。誰もが「わからない何か」を探求しながら住み着いているのだ。
危険で貧しい国だからといって、誰もがその国を捨てて出てゆくわけではない。居られるなら居るし、居られなくなって出てゆくのだ。どんなに危険で貧しい国でも人はそこに住み着いているし、危険で貧しいということがそこに住み着かせる理由になっていたりもする。そんな暮らしの中にも「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が豊かに生成していれば、人はその国を見捨てない。
そういう「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」のことを「人情のあや」といってもいい。人は、そういうものを体験しながら住み着いている。
だから「この国がろくでもない国だと思うならさっさと出てゆけ」という理屈は成り立たない。未来の社会を構想することの正義を振りかざしたがる人間にかぎってそういうことをいいたがる。この国はろくでもない国だと嘆いている人間を追い払うことも未来の社会を構想することのひとつなのだろう。彼らにとっては、いい国であることが住み着く理由であるらしい。しかし……ろくでもない国だと思いながら住み着いているものの切ない思いやときめきは、おまえらみたいな単細胞にはわからない、おまえらはろくでもない国だと思うならさっさと捨てて出ていくのか、われわれはおまえらみたいな出稼ぎ根性で住み着いているのではない、ということになる。
そんな愛国心なんか、出稼ぎ根性の裏返しなのだ。
未来の社会を構想するなんて、甘い汁が吸えるいい国だから住み着こうという出稼ぎ根性と同じであり、そうやって未来の社会に出稼ぎに行こうとしているのだろう。しかしもともと人は、未来の社会なんかどうなるかわからないというそのことに対する探求心で住み着いてきたのだ。
地球の隅々まで拡散していった原始人はみな、ろくでもない土地だと嘆きながら住み着いていったのだ。未来の構想も希望もないまま「今ここ」の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げながら「なりゆき」まかせに住み着いていったのだ。
ろくでもない国だと思うならさっさと出てゆけ、ということは、生きるのがいやでしんどいのならさっさと死んでしまえ、といっているのと同じなのだ。
ろくでもない国だと思いながら住み着いてゆく、ろくでもない人生だと思いながら生きてゆく、それが人間性だろう。いい国になる希望もいい人生になる希望もなくても、それでも人は住み着き生きてゆく。それでも、住み着くことにも生きてあることにも、瞬間瞬間の出会いがあり別れがあり、ときめきがありかなしみがある。そうやって「今ここ」の「なりゆき」のままに反応してゆく。飯を食って美味いと思い、腹が減ってしんどいと思う。それだって「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」なのだ。
コップを取って水を飲む、飲み干してコップを置く。それだって、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の体験だろう。そんな「今ここ」の体験の積み重ねの上にこの生が成り立っている。
そんな体験の積み重ねに豊かに心が動いて人は生きているのだろう。このろくでもない人生を。



「今ここ」の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げながら「なりゆき」に身を任せる心がなければ、こんなろくでもない人生などやっていられない。
未来の構想も希望もないまま、それでも人は住み着いてゆくし、生きてゆく。それが直立二足歩行の開始以来の人間性であり、ネアンデルタール人の文化もこの国の伝統的な文化も、「今ここ」の一瞬一瞬の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げてゆこうとしながら生まれ育ってきた。両者は、根源的には同じなのだ。その洗練度の差はあるにせよ。
ネアンデルタール人の文化をそのまま洗練させてゆくと日本列島の伝統的な文化になる。日本列島の伝統的な文化になぜヨーロッパ人が反応してくるかといえば、もともとの出自が同じだからだろう。現在のこの国の若者たちによる「かわいい」とか「クールジャパン」として世界中に発信されている文化だって、この国の伝統的な感性の上に成り立っている。江戸時代の町娘のじゃらじゃらした髪飾りにしても、今どきのギャルの一見無造作な重ね着ルックにしても、「今ここ」の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」をくみ上げながら「なりゆき」にまかせる原始的な感性を持っていないとなかなかさまにならないものである。彼らは無意識のうちにそういう按配をしているわけで、そんな原始性を洗練させて日本列島の伝統的な文化になっていったのだ。
まあ、世界中の人間の中に、そうした「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げてゆくという原始性は残っている。
「クール」とは「原始的」であるということ。「なりゆき」に身をまかせながら未来の人生や社会など構想しないということ。
日本列島の伝統文化は、世界的に特異な孤児の文化であるのではない。世界中の人間が共有している原始性を、この極東の島国で細々と守ってきただけなのだ。それは、ある意味で、ボルネオやアマゾンの未開の住民の文化よりももっと原始的なのである。
「今ここ」の「なりゆき」に身をまかせてしまう原始的なメンタリティがあれば、かんたんに外来の文化に染められてしまう。そうやってボルネオやアマゾンやアフリカのサバンナでも四大文明の地で生み出された「神」や「霊魂」という概念を取り込んでいった。
ボルネオやアマゾン奥地だって、世界から孤立して歴史を歩んできたのではない。人間の観念と遺伝子は、たちまち世界中に伝播してしまう。彼らが孤立した歴史を歩んできたのなら、いまだにホモ・サピエンスではなく、200万年前に拡散していった原人のままのはずである。
それに対してそうした大陸文化が入ってきた1500年前の日本列島ではすでに原始的な文化が洗練発展していたから、受け入れてもそれを原始的にデフォルメしていった。それが「死んだら何もない黄泉の国に行く」という神道のイメージであり、それは神も霊魂も死後の世界もないといっているのと同じなのだ。
日本列島の伝統的な文化は、神や霊魂や死後の世界のイメージすらもデフォルメしてしまい、その深層意識において「神も霊魂も死後の世界もない」という原始的な伝統を守り育ててきた。それは、アマゾンやボルネオ奥地の精霊がどうのという文化よりももっと原始的な世界観であり生命観なのだ。そしてそれはまさしく「クール」な感性だろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ