都市の起源(その十六)・ネアンデルタール人論167

その十六・「神」の起源

人類史における「神」という概念は、氷河期明けの、祭り賑わいを基礎にしたプリミティブな都市集落が都市国家という共同体へと発展してゆく過程で生まれてきたのではないだろうか。。
原始人は、「神」なんか知らなかった。
現在における「神」という概念は、一般的には「この世界(あるいはこの宇宙)をつくったもの」すなわち「創造主」として認識されているのだろうが、そういうことをいちばん強く意識しているのは、じつは現代の科学者であって、原始人ではない。
科学の研究が高度になればなるほど、「神という存在を想定しないと説明がつかない」というようなことがいっぱいあるのではないだろうか。宇宙物理学はもちろんのこと、たんなる自然の植物や生物を観察する学問だって、「自然というのは信じられないくらい精妙につくられている」と驚嘆することがたくさんあるに違いない。そして、こんなことは「神=創造主という存在を想定しないと説明がつかない」と思う。
現代の科学は、ひとつのハエからまったく同じハエをいくらでもつくり出すことはできるが、もとになるものが何もないところからハエの構造や材質をデザインしてほんもののハエをつくり出すことはできない。それはもう「神」でなければできない、と思う。
しかしそんなことをいったって、人間だろうとハエだろうと、もとをただせばたんなる宇宙の塵にすぎなかったのであり、そこから気が遠くなるような長い時間を経過して人間になったのもハエになったのも、ただの「自然のなりゆき」であって、べつに「神のしわざ」でもなんでもないだろう。
からしたら、「自然のなりゆき」は「神のしわざ」よりももっとすごい、といいたいくらいだ。
人間もハエも、「自然のなりゆき」がつくったのであって、「神」がつくったのではない。
「自然のなりゆき」に驚きときめくことは科学者の重要な資質だろうが、それを「神のしわざ」にしてしまったら、思考停止であり、科学の敗北なのだ。
ともあれ、「神=創造主」という認識は、自然がいかに複雑精妙につくられてあるかということをより深く確かに知っているものが持つのであって、原始人のピュアでシンプルな自然観から生まれてくるはずがない。
まあ僕は、アニミズム(原始宗教)なんて歴史認識は大嘘だ、と考えている。原始時代に宗教なんかなかった。彼らは「神」も「霊魂」も知らなかった。そんな概念は、文明社会の制度性の産物なのだ。起源としての宗教者は科学者でもあったのであり、今でも神を信じている科学者は腐るほどいる。


もしも「神」という概念が文明社会から生まれてきたと考えることができるなら、それは古代のメソポタミア都市国家から生まれてきた、ということになる。
考古学の証拠から見れば、人類最初の都市は、現在のトルコ南東部からイラク北部あたりのチグリス・ユーフラテス川上流域で生まれてきたらしい。そしてそのあたりは、ユダヤ民族発祥の地でもある。とすれば、ユダヤ教は、世界でもっとも古い宗教であるともいえるかもしれない。もちろん現在のユダヤ教は最初のかたちからずいぶん変質してきているのだろうが、とにかく彼らが人類で最初に「神」とい概念を見出したのかもしれない。
それは、現在の未開の民族の素朴な宗教よりももっと古いのだ。
人類の観念と遺伝子は世界中に伝播してゆく……これはもう、原始時代以来の人類普遍の生態であり、現在の未開の民族の精霊信仰だって、おそらくメソポタミアから伝播してきた「信仰=世界観」をそれぞれの風土に合わせてアレンジしていった結果なのだ。
起源として宗教は世界の仕組みを説明する科学だったのであり、文明人より未開人のほうが先に宗教に目覚めるということは、論理的にありえない。宗教は、人の思考というか観念というか、すなわち科学が発達して生まれてきたのだ。
現在の科学者の中には、ひといちばい原始的な人もいれば、誰よりも宗教的オカルト的な人もいる。つまり、文明発祥とともに科学が発達して「宗教=神という概念」が生まれてきた、ということだ。自然の仕組みがわかってくると、人工的に衣食住のいろんなものをつくり出せるようになる。まあ、文明社会における「農業の発生」はその象徴的な歴史体験だが、それとともに、「神=創造主」がイメージされていった。農業の発生によって、天体学や暦学や土木工学が発達してきた。そして、宗教が生まれてきた
何はともあれ宗教とは「自然=世界」の仕組みについて説明する体系のことであり、したがって農業を知らない未開人のほうが先に「宗教=神」に目覚めるということはありえない。
宗教者はみんな、この世界の仕組みがわかっているつもりでいる。「神がつくり給うた」といえば、すべて説明がつく。宗教は、科学的なのだ。そのようにして、古代メソポタミアからユダヤ教をはじめとする宗教が生まれてきた。
おそらくユダヤ人はメソポタミア先住民族であり、チグリス・ユーフラテス川上流域のそのあたりには、ネアンデルタール人のころからたくさんの人が住み着いていた。花を添えて埋葬していた、という「シャニダールのネアンデルタール人」の話は有名だ。
いや、そのあたりは、2〜300万年前にはじめてアフリカを出た人類が世界中に拡散してゆくときの拠点だった。そういう伝統を持っている地域だったのだ。氷河期明けの文明の発祥も宗教という観念も、メソポタミアを拠点にして世界中に伝播・拡散していった。


人類史においてなぜ宗教が発生したかといえば、科学が発達したからだ。
そのとき宗教は、世界の仕組みについて語ろうとした。その都市集落で農業が生まれてくれば、季節のことや天気のことなどをはじめとして、何かにつけて世界の仕組みに対する関心が高まってゆく。
また、農業は、個人や集団が土地を占有することであり、そんな生態は人類史においてかつてなかったことだった。そのために個人どうしや集団どうしでさまざまなトラブルが起きてきた。
農業をするための土地を占有しながら、原始的な都市集落が都市国家になっていった。
「所有」の意識の発生。すなわち自我意識の発達。そうやってさまざまなトラブルが起きてきて、それを収拾するための「規範=制度」がつくられていった。そしてその「規範=制度」に絶対的な効力を持たせるために、「創造主」としての「神」が発想されていった。
「所有」という自我意識があるから、戦争が起き人殺しが起き盗みが起き姦淫(不倫)ということが起きる。さしあたっての問題でいえば、女房だろうと亭主だろうと「自分のもの」ではないのだから、姦淫がいけないなんていえない。相手を何がなんでも「自分のもの」にしようとする、その自我意識は不自然だ。人の世から姦淫がなくなる日が来るとは思えないし、なぜ姦淫がいけないのかということもよくわからない。女房であろうとあるまいと、目の前にいる女が女のすべてなのだ。人の心の底には、そういう「出会いのときめき」がはたらいている。だから、繁華街の飲み屋が繁盛するし、姦淫=不倫も後を絶たない。まあ、そういう都市生活の「混沌」を収拾する装置として宗教が生まれてきた。
古代の都市国家の政治は、宗教の上に成り立っていた。しかし、それ以前の都市集落には、宗教などなかった。宗教によって都市集落が生まれてきたのではない。原始的な都市集落が「規範=制度」をそなえた都市国家に変質してゆく過程で宗教が生まれてきた。
ユダヤ教の基本的なコンセプトは「規範=戒律」にある。いや仏教にしろ、文明社会から生まれてきた宗教はすべて「規範=戒律」の上に成り立っているのだろう。
彼らはなぜ、神の定めた「規範=戒律」を発想するのか。神が人間をつくったのなら、人間は神の完璧な作品であり、何も「規範=戒律」に縛られる必要なんかないではないか。神につくられた存在ではないからこそ、神の「規範=戒律」に縛られねばならないのではないのか。
未開人の精霊信仰において、「森には森の精霊(=霊魂)が宿っている」といい「森が神だ」というとき、すでに宇宙の創造主としての「神」の存在に対する信仰から逸脱してしまっている。彼らは、そういうかたちでしか「神」を発想できないのであり、それは、絶対的な「規範=戒律」など必要ない社会で生きているからだ。「森が神だ」ということは、森をつくった存在など意識していないということだ。
日本列島の神道においては、「森に神が宿っている」という。この場合はさらに神の影は薄くなり、神はたんなる森に付随した存在にすぎない。森のめでたさやありがたさを補強説明するために、「神が宿っている」といっているにすぎないのであり、「神が森をつくった」とはいっていない。つくったのなら、なにも「宿る」必要なんかない。
未開人の精霊信仰にせよ、日本列島の神道にせよ、「創造主としての神」を知らないものたちの神のイメージなのだ。
日本列島に伝わってきた仏教も、その本質であるはずの「規範=戒律」が歴史とともにどんどん無効化していった。
古事記の神は、「宇宙の混沌」の中から現れ出てきたということになっている。「宇宙の混沌」がはじめにあった。そして「宇宙の混沌が神をつくった」ともいっていない。神は「現れ出た」のだ。すべてのものはそれ自体として存在しているのであって「創造主」などいない、といっているのだ。森をつくったものなどいない。この世界の森羅万象のすべては「自然のなりゆき」として現れ出る。日本人も未開人もそう思っている。「創造主としての神」など信じていない。この世界の「神秘=混沌」の輝きを表現する言葉として「神」という概念を使っても、絶対的な「規範=戒律」を必要としない社会に置かれているものたちは、「創造主としての神」をうまくイメージすることができない。


科学は、宇宙の神秘を解き明かす学問であると同時、宇宙が神秘であることを提出する学問でもある。科学者は、宇宙が永遠に「神秘=混沌」であることに引き寄せられているのかもしれない。さらなる神秘に分け入ってゆくためにめに目の前の神秘を解き明かしているだけかもしれない。
「創造主」といっても、限度を超えて人口が膨らんだ集団である都市国家の運営を成り立たせるための、絶対的な「規範=戒律」の持ち主としてイメージされていっただけのことかもしれない。ユダヤ教の始祖というか古代イスラエルの民族指導者であるモーゼは、そのお告げ(=十戒)を聞いたのだとか。その戒律は、モーゼの教えではなく、神の教えだった。
宗教は、世界の仕組みを説明する科学として生まれてきた。そうやって執拗に神の存在を説明しようとする。彼らの思考は、神の存在を前提にしている。なぜ前提にできるのだろう。僕にはよくわからない。この世界は神の定めた秩序の上に成り立っているのだとか。まあ、そうやって自我意識の安定が得られるのだろうし、そうやって自我意識が膨らんでゆく。
文明社会の集団としての自我意識を安定させるための装置としてとして宗教が生まれてきた。
自我意識は、「わかる」ことによって安定する。現代社会の大人たちは、「わかる」という観念のはたらきをよりどころにして生きており、「わからない」「何だろう?」と問う「ときめき」が希薄になっている。
神の存在を信じている人は、すでに世界の仕組みがわかっている。この世界は神が創造し、神の定めた規範の上に成り立っている……それが、彼らのいうこの世界の仕組みであるらしい。
キリスト教や仏教はこの生やこの世界の仕組みを解き明かす手掛かりになる、と考えている人は多い。世界宗教はこの生やこの世界についての認識の普遍性をそなえている、と彼らはいう。
しかしキリスト教だろうと仏教だろうと、ただの宗教じゃないですか。この生やこの世界の仕組みがわかれば、人は救われるのか?それは、「最終的な認識」であるのか?いいたかないが、そうやって「わかった」つもりになることが胡散臭いのだ。
「最終的な認識」などというものはない。人は死ぬまで「わからない」「何だろう?」と問い続けるほかない存在であり、ときめくとは、「わからない」「何だろう?」と問うことだ。
「わかる」とは、わかるための「基準」を持っているということであり、宗教者にとってはそれが「神」であり、一般人はこの社会や時代によってもたらされる「意味」や「価値」を基準にして「わかった」という気になってゆく。
そうやって自我の安定のために「わかる」と体験ばかり拾い集めて生きているから、心が停滞し衰弱してゆき、あげくの果てに認知症やインポテンツになっていったりする。インテリだろうと無知な庶民だろうと、「わかる」という体験を拾い集めてばかりいる人間がたくさんいる。彼らは、「わかる」ことを自分の存在の正当性のよりどころにしている。誰だっていつ死んでしまってもどうということもない存在なのに、自分の生に意味や価値があると思いたがっている。そうやって、自分の生をまさぐりたがる。そしてそれはまあ自分の死に意味や価値を見出す自殺願望に反転したりもするのだが、つまり安直に「死」が「わかった」つもりになれるのだ。
この生やこの世界の仕組みがわかったつもりになって、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。それらは、そういう「自我」の病なのだろうと思える。そうやって「わからない」「何だろう?」と問うてゆく「ときめき」を失っている。
インテリだろうと無知な庶民だろうと、彼らは、自分の知っている範疇で生きてゆこうとする。その「外部」にたいする「ときめき」がない。インテリのことでいえば、えらく知識は豊富だがまるで探求心というものがないという人は多い。文献あさり以上の思考ができない。まあ文献あさりさえ有能ならひとまず学者という職業が成り立つのだからそれでもいいのだが、「探究」という思考はそこから飛び出してゆかないと起きてこない。
心が、「自分」の外に飛び出してゆくということ。「自分」が生きることの意味や価値など何もないが、それでも人はこの世界や他者の輝きにときめき、他者に「生きていてくれ」と願っている。他者にときめき他者を生かそうとすることは、ひとつの探求心だ。
自分が生きることになんの意味も価値もないことを思い知る「かなしみ」が、他者にときめき他者を生かそうとする。
僕は、宗教なんぞに、自分が生きることの意味や価値など教えてもらいたいとも思わない。生きる値打ちもないしょうもない人間でけっこう。