都市の起源(その四十)・ネアンデルタール人論191

その四十・アフリカ・アラブ・ヨーロッパ

人類史における「支配者=王」はいつごろどのようにして生まれてきたのか?それは、人の心の支配欲はどのようにして膨らんでくるのだろう、という現代社会で暮らすわれわれの問題でもある。支配欲を旺盛にしながら社会的に成功してゆく人もいれば、それによって人間関係がうまくいかずに自滅してしまう人もいる。まあ社会的に成功してそれなりのポジションを得れば、みずからの支配欲を満足させることもできる。しかし、それによって男と女の関係や家族の関係や友人関係もうまくゆくとはかぎらない。つまり、裸一貫の人間として他者とのときめき合う関係を結ぶことができないから支配しにかかるし、支配しにかかるからときめいてもらえないということも多い。
なんのかのといっても、どんな関係であれ、人は相手の人間的な魅力のあるなしを見ている。金や地位でものにした女であれ、親に対する子供であれ、ちゃんとそこのところを見ている。というか、人と人が関係を結べば、避けがたくそこのところが見えてしまう。
子供にそむかれて「親を親とも思っていない」などと不満をたれてもしょうがない。たとえ親子であろうと、最終的には裸一貫の人間と人間の勝負だ。いつまでも「親」というカードに執着しているなんて、見苦しいだけだ。子供が親を敬わねばならない義理や義務なんかない。親の勝手な都合で産んで育てただけのくせに、「育ててやった」などと虫のいいことはいうな。そんなことがいいたければ、神のような完璧な人間に育ててやってからにしろ。子供は子供なりに、自分に与えられた生の条件に四苦八苦しながら生きているんだぞ。それを思えば、「育ててやった」とはいえないだろう。子供の心を支配しようとするな。また、支配できるものでもない。そして、自分が、親でもなんでもない裸一貫の人間として見られていることに、いいかげん気づけ。


幼児に親の人間としての値打ちなど測れるはずもないが、「支配」と「被支配」の関係意識は生まれたときからすでに持っている。
おしめが濡れて気持ち悪いから泣くというだけでなく、「早くおしめを取り換えてくれ」と訴えている場合もあるらしい。そうやって「駄々をこねて親を支配する」ということを覚えてゆく。赤ん坊のこういう態度を、内田樹などは「コミュニケーション能力の芽生え」などというのだが、だったらその「コミュニケーション」すなわち「伝達あるいは説得する」という関係性は、「支配する」ということでもある。
乳児期の子育てはもう、どんな母親にとっても「子供に支配される」ことだ。そして乳幼児だって「支配される」存在であり、人が生まれて最初に体験する「関係性」は、「<支配されるもの>どうしになる」ということかもしれない。
親の「支配されるもの」としての態度に付け込み、「駄々をこねて親を支配する」ということを覚えてゆく。それは、親のほうに、子供の「支配されるもの」としての態度に付け込んで子供を支配してゆくという態度を持っていて、それを模倣しているのだろうか。あるいは、親の「支配されるもの」としての態度の薄さに苛立って、それを確認しようとしている、というべきか。乳幼児だって、ちゃんと親の人間性を見ている。まあ「親」というカードが通用しない段階なのだから、もっと純粋に親の人間性を見ている、ともいえる。乳幼児のひたすら「嘆いている」だけの泣き方と、「駄々をこねている」泣き方の違いは、あんがいわかる。
とにかく、そうやって人は、「支配する」ということを覚えてゆく。まあ、社会の構造として「支配する」という関係性がはたらいていて、子供はそれを模倣しながら「支配欲」を肥大化させてゆくのだろう。
人類史に「王」という「支配者」が登場してきたのも、そういう構造を持った社会だったからだろうし、それはまず、ヨーロッパとアフリカの中間の地域であるエジプト・メソポタミアからはじまった。


アフリカのミーイズムは、「支配する」ことも「支配される」ことも無効にしてしまう。サバンナで肉食獣から追いかけられたら、子供を置き去りにして逃げるしかない。助けていたら、二人とも餌食になってしまう。助けることなんか不可能なのだ。それはもう、見殺しにするしかない。だれかひとりが餌食になることによってみんなが逃げ延びることができるわけで、自分の命は自分で守るしかない。
逃げ延びることによって集団の「結束」は生まれるが、それは、助け合うことによってではない。みんなで安全な森の中に隠れて暮らしていれば、「結束」してゆかないはずがない。彼らは、誰もがミーイズムを生きながら、集団として「結束」している。そうやって家族的小集団で暮らしながら、その小集団どうしが「結束」してゆく「部族」という幻想の集団も形成している。
一方ヨーロッパは、氷河期の極北の地を生きたネアンデルタール人以来の伝統として、助け合わないと生きられない歴史を歩んできた。そこは、抱きしめ合っていないと凍え死んでしまう環境だった。そしてそれは、他者に「抱きしめられる」ということであり、たがいに「支配されるもの」になるということだ。
たがいに「支配されるもの」になってゆくことが、ヨーロッパ的な人と人の関係の基本になっている。彼らは、「結束」しない。たがいに「支配されるもの」として他者に反応し合いときめき合い、「連携」してゆく。
「結束」の集団性と「連携」の集団性。その二つの文化圏の中間の地域であるエジプト・メソポタミアから人類最初の文明国家が生まれ、「支配する王」が登場してきた。
メソポタミアの地から生まれてきたユダヤ人は、ヨーロッパに移住してきても、けっしてユダヤ教を手放さなかった。彼らには、みずから「支配されるもの」になってゆくというヨーロッパ的な関係性のメンタリティが希薄であるらしい。彼らは、「結束」するが「連携」しない。ユダヤ人どうしで結束しながら、いつの間にかヨーロッパ人を支配してゆく。彼らは、「支配する」ということをよく知っている。つまり、ヨーロッパ人の「支配されるものになる」というメンタリティに付け込んで、支配しかかってゆく。いいとか悪いというようなことではなく、そういう社会の構造の歴史を歩んできた人たちなのだ。まあそこがヨーロッパ人を苛立たせるわけだが、中国に移住していったユダヤ人はそれほど差別されていない。似たような集団性の文化だから、むしろ気が合う。中国もまた人類拡散の通り道で文明発祥の地のひとつになっているが、彼らは、他者の「支配されるものになる」という「連携」のメンタリティに付け込んで「支配」しにかかるというメンタリティを濃密に持っている。そうやって支配と被支配の関係で「結束」してゆく文明国家が生まれてきた。


原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、たがいに「支配されるもの」になるという体験だった。
それはとても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうという危険極まりない姿勢だったが、そこで誰もが「支配されてしまう無防備なもの」になってゆくことによって常態化していった。そういうメンタリティを持っていたから、新しい土地で知らないものどうしが出会ってときめき合い連携してゆく、という人類拡散が起きていった。そしてその新しい土地で「支配=被支配」の関係で「結束」していったものたちはそこに住み着き、「結束」の関係からこぼれていったものたちはさらに拡散していった。
そうして拡散の行き止まりの地までくればもう、「支配=被支配」の関係で「結束」してゆくというメンタリティはすっかり薄れていたし、知らないものどうしが出会ってときめき合い連携してゆくという関係性の濃密な集団になっていた。また、氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境のもとでは、そうやってときめき合い連携してゆかなければ住み着けなかった。そこでは、知らないものがどんどんやってくるし、いつの間にか出てゆくものも後を絶たなかった。現在のヨーロッパだってそういう状況になっていて、移民はどんどん入ってくるし、どこの国の人たちも、わりと平気でよその国に出稼ぎに行ったり、そのまま住み着いてゆくことも多い。それが、ヨーロッパという風土の伝統なのだ。
イギリスのアキレス腱は、貴族たちが既得権益を手放さないことにあるのかもしれない。彼らは、アラブ世界的な「民族主義」も合わせ持っている。
しかしイギリスがEUを離脱するといっても、今さら移民を追い出すこともできないし、イギリスからヨーロッパ本土に出稼ぎに行ったりそのまま住み着いてゆく人も後を絶たないだろう。今さら「民族主義」で「結束」してゆくことはできない。そして離脱が決まった直後のEU側の対応だって、「それは困る」となだめすかすどころか、「だったら、さっさと出ていってくれ」と突き放した。いろんな政治的な駆け引きもあるのだろうが、基本的にヨーロッパ人は、「別れる」ことに耐えられる「結束」しない人たちなのだ。
それに対してユダヤ人をはじめとするアラブ世界からの移民は「民族主義」で「結束」してゆくことをけっしてやめない。それが、ヨーロッパ人を苛立たせる。彼らは、「結束」して「連携」しない態度を嫌う。
アラブ世界は、世界で最初に「支配=被支配」の関係で「結束」してゆくことを本格化していった地域だった。そして今やこの集団性=観念性は世界中に蔓延しており、われわれの身近な人と人の関係の中にも入ってきている。この「結束」の集団性=観念性こそ人間性の自然だと信じている人は多い。ことに、大人たちに多い。大人になると、無防備な「ときめく」心が後退し、まわりの世界に対して警戒し緊張してゆく心の動きが肥大化し、その結果として他者との「結束」した関係に入り込もうとするようになってゆく。
こうしなければならないというような規則やスローガンをつくって、他者を支配しにかかる。支配される方だってそれが安心だったりして、そうやって「結束」してゆく。けっきょく自分がつくった規則やスローガンで自分を支配している。そうやって、どんどんときめかなくなってゆき、認知症やインポテンツになったりしている。自分で自分を縛って自滅してゆく。自分で自分を縛っているから、他者を支配することになんの後ろめたさもないし、他者に支配されたがりもする。
支配と被支配の関係をつくらないとこの社会は成り立たないのかもしれないが、人と人のときめき合う関係はそれだけではすまない。支配と被支配の関係に潜り込んで「結束」しようとするそのぶんだけ、みずからのときめきもときめかれる人間的な魅力も失っている。
まあ、アラブ・イスラム世界においては、社会も人と人の関係も「支配と被支配の関係」による「結束」の論理の上に成り立っているらしい。彼らは、現在の世界でもっとも過激な「結束」のメンタリティを持っている。「結束」がそんなに大事であるのなら、これからも彼らは暴れまくるのかもしれない。
政治の世界なんて、けっきょく「結束」の論理の上に成り立っているのだろうな、とも思う。
この世界がこの先どのようになっていけばいいかなんて、僕にはわかりません。
社会も人と人も、支配と被支配の関係をしっかり結んで「結束」してゆくことはできても、それは「ときめき合う」ということとは別の次元の関係にちがいない。
ネアンデルタール人は、社会の形態においても人と人の関係においても、そのときその場の即興的な「連携」を生きて、未来に向かって生き延びるための「結束」などということには眼中になかったし、それがヨーロッパの都市文化の伝統にもなっている。
他者にときめき「反応」してゆくこと、それを彼らは「エスプリ(機知)」といっている。
ヨーロッパとアラブ・イスラム世界との歴史的な相克は、現在のこの国の若者と大人とのジェネレーションギャップの問題でもありそうに思える。