鳩を撃て!・ネアンデルタール人と日本人・19


自分が人間であることや生きてあることにむやみに執着したりしない。そんな心(=欲望)などすっかり忘れて無邪気に他者としての動物にときめいてゆく。そこから原始人の「半人半獣」の像が生まれてきた。
ギリシャ神話にもケンタウロスなどの「半人半獣」の神が多く登場する。しかしこれらは、氷河期とは逆に、上半身は人間で下半身が動物になっている。
氷河期明けを境にして、人類の意識が裏返ってしまった。裏返ったことによってそれは「神」になった。
神になった最初のそのイメージは、頭部は人間で身体はライオンである「スフィンクス」にあるのだろうか。スフィンクスは、エジプトやメソポタミアの神話にはじまってギリシャ神話にも登場してくる。おそらくギリシャ人は、スフィンクスを変奏してケンタウロスなどの半人半獣の神をイメージしていったのだろう。それは、自我意識の肥大化とともに生まれてきたイメージである。
一方氷河期の半人半獣の像は、たぶん「神」として造形したのではなく、たんなる子供じみた空想だった。そうして、そんな生き物をあこがれただけではないだろうか。そしてその像をつくることが、ヨーロッパ・中近東・北アフリカの全域に広がっていった。
氷河期明けにこれを逆転させてはじめて神になった。
それは、人間の自我と動物の身体能力を持った存在である。人間以上の人間……そこから「神」のイメージに発展していったのだろう。
エジプト・メソポタミア人の自我は、フェードアウトするべきものではなく、追求し拡大してゆくものだった。
神とは、人間の自我が肥大化していった先でイメージされるものであるらしい。神とは、完全な人間のことでもあるのだろう。まあ、擬人化された全能の存在なのだ。
原始人は、そのような存在はイメージしなかった。頭部がライオンであるということは、人間が不完全な存在であることの表現であり、人間であることの嘆きの表現だった。つまりそれは、あくまでも自我をフェードアウトさせてゆくところから生まれてくるイメージだった。そして身体が人間であるということは、自我をフェードアウトさせながら人間であることを納得してゆくイメージであり、生きられないみずからの身体と和解してゆくイメージだった。
百獣の王であるライオンは、自分の身体と和解している。氷河期の人々は、そうやって人間が自分の身体と和解しているかたちを表現していった。ライオンのように自分の身体と和解している存在になりたかった。
彼らはべつに、人間以上の存在を造形していたのではない。その像の身体はあくまで人間だったのだ。
しかしスフィンクスは、人間を人間以上のものにしてゆくイメージである。
原始人には、氷河期明けのような「神」のイメージはなかった。スフィンクスを造形した氷河期明けの精神と原始人の半人半獣のそれとは、同じではけっしてない。対極的な似て非なるものだ。
神とは、人間を無限に拡大していった存在のイメージである。
神がこの世界=宇宙をつくった、などというが、その「つくる」ということ自体が擬人化したイメージなのだ。この宇宙に「つくる」などという現象が存在するのか?僕には全然わからないし、信じられない。
宇宙は宇宙自身として存在するだけじゃないか。
神が人間をつくった、だなんて、笑わせてくれる。神もずいぶん人間臭いいじましいことをするものだ。そんな思考は、みずからの自我の肥大化に溺れているか、人間社会の支配と被支配の関係を変奏しているか、まあそのていどのものだろう。
人類史は、自我の拡大を追求する時代になってはじめて「神」という概念を生み出した。それは、氷河期明けの4大文明が発祥して以降のことなのだ。
原始人は、神という概念を生み出すような、そんな通俗的な意識は持っていなかった。
原始人の「半人半獣」は、もっと切実な、生きてあることに対する嘆きであり実存感覚の表現だったのだ。
その嘆きを鎮めたくて、ライオンやシカの頭部を持った人間を造形していっただけだ。


ある人が「さなぎが蝶に変身するときの自己闘争」というようなことをいっておられた。すなわち自分が自分と戦争をすること。
原始人が人間の身体の上に動物の頭部をくっつけた「半人半獣」の像を造形したことも、ひとつの「自己闘争」の結果の表現なのだろう。
頭部がライオンの像を描いたからといって、ライオンに変身しようとしたのではない。そのつもりなら、身体の方をライオンにする。ライオンの身体と人間の自我(知能)を持っていればさらに最強で、神に近い存在になる。そんなイメージは氷河期明けの「スフィンクス」としてあらわれてきたのであって、それは原始人が表現した「半人半獣」とは全く別のものだ。
原始人は、身体ではなくあくまで心を、自然と調和したかたちに変身させたかっただけだ。
それは、ライオンに変身しようとしたのではない。自然と調和している心の象徴としてライオンの頭部をくっつけただけだ。
氷河期の北ヨーロッパの原始人は、自然と調和できない心と体を抱えて、心も体も悪戦苦闘して暮らしていた。それはまあ、ひとつの自己闘争だといえる。そして心にとって体は「自分」ではない。ひとつの「他者」である。だから、「自分が変身する」ということの対象にはならない。心が変わることが「変身」なのだ。
で、心が変身することの象徴としてライオンの頭部をくっつけた。べつにライオンのように強い生き物になりたかったのではない。それなら、身体をライオンにする。
彼らにとって「自己闘争」に勝利して変身することは、心が自然と調和してゆくこと、すなわち心=自我がフェードアウトしてゆくことだった。
人間はもともと生きてあることのいたたまれなさを持っている存在であり、そのいたたまれなさを鎮めてゆくことこそ「闘争」なのだ。
そのいたたまれなさとの闘争は、とてもエネルギーを消耗する。
自我は、ほおっておけば、どんどん飛翔し肥大化してゆく。その果てに人を殺したいとか死にたいという思いになってゆくのだろうし、その果てに天国とか極楽浄土とか神をイメージしてゆく。まあ、いろんなイメージの「果て」があるのだろう。
人間の生きてあることのいたたまれなさも、ほおっておけばどんどん肥大化してゆく。このいたままれなさにけりをつけることは、人を殺すことか、自分が死ぬことか、天国や極楽浄土を夢見ることか、神になってしまうことか。まあそのようなけりつけ方もあるが、そういう騒々しい心を鎮めてゆくという方向のけりのつけ方もある。そしてそういうけりのつけ方の方がずっとエネルギーを必要とすることもある。それは、頭部がライオンやシカになってしまうくらいのエネルギーを必要とする。
平和とは闘争である、ということだろうか。自我をフェードアウトしてゆくことは、さなぎが蝶になるような自己闘争である。
生きてあることは生きてあることのいたたまれなさとの闘争で、疲れてしまえば死んでしまいたくもなる。知性や感性というか、心の動きが豊かな人ほどそういう傾向がある。そんな人に対して「死んだらいけない」とそう軽々しくはいえない。そういう人が生きてあるためには、つねにさなぎが蝶になるような自己闘争を繰り返していかないといけない。
生きてあることも平和も、闘争なのだ。
この世の中は、誰もが当たり前のように生きていられるわけではない。
自我をフェードアウトしてゆく自己闘争をしないと生きられない人がいる。原始人だって、そういうことの表現として頭部がライオンの像をつくったのだ。
それはべつに、人類学者いっているような「神像」などというものではない。彼らの無意識がつくりだした純粋に「生きてあるかたち」の表現だったのだ。



森田童子の歌の歌詞に「鳩を撃て」というフレーズがある。これが彼女のオリジナルの言葉かそれともどこかからの引用なのかよく知らないが、この歌の場合の「鳩」は伝書鳩のことで、別の世界に飛び立ってゆこうとする心を象徴している。別の世界、すなわち「あの世」、誰の中にもそういうあの世に飛び立ってゆこうとする「鳩」が棲んでいる。
そこで彼女は、「母よ、僕の鳩を撃て」と繰り返す。
まあ彼女は小さいころから自殺願望が強かったらしく、あなたが私を生んで私に生きよというのなら私の中の鳩も撃ってくれないと困る、ということだろうか。自分の中の鳩は、自分ではどうすることもできない。いつの間にか私の背中に羽が生えてきた。だからお母さん、生きよというのなら、どうか私の中の鳩を撃ってください……と歌っている。
彼女の知性や感性は、あの世に向かって飛び立ってゆく。彼女にとっては、生きるいとなみ自体があの世に向かって飛び立ってゆこうとすることでもある。まあ人間なんか誰もがそのような二律背反を抱えて存在しているのだろう。
あの世に向かって飛び立ってゆこうとする自我を、誰もがどこかしらに抱えながら生きている。
われわれは、どこかしらに死に魅入られた心を抱えている。だから、さなぎが蝶に変身するようにその心を脱ぎ棄てないと生きられない。それはさなぎの死であり、あの世に飛び立ってゆく体験である。生きることは死ぬことだ、というパラドックス
われわれ凡人はあまりそういうことに自覚的ではないが、知性や感性が豊かな人ほど生きてあることは危ない綱渡りのような側面があるのだろう。
生きることは、鳩を撃つことだ。人は、死に魅入られながら生きている。
このフレーズはもう、ライオンの頭部を持った人体像を造形したネアンデルタールクロマニヨン人と同じ表現だと思う。彼らが生きられるはずもない氷河期の極北の地で暮らしていたのは、あの世に向かって飛び立ってゆこうとする自我=鳩を抱えていたからであり、苦しまぎれにその「自我にけりをつける=鳩を撃つ」いとなみが自然に生まれてくる環境でもあった。
苦痛があれば、苦痛を忘れようとする。それが生きるいとなみであるのなら、それは死に魅入られ死に向かって飛び立とうとする心=自我による自死でもある。それが「鳩を撃つ」ということであり、さなぎが蝶になるということだ。このへんはややこしい。自我の死を願う自我。
危機に飛び込んでゆかないと、自我のフェードアウトは起きてこない。
自我をフェードアウトしてゆくことは、そういう「自己闘争」でもある。
この生は、死に魅入られる心の上に成り立っている。死に魅入られる心の自死が生きるいとなみになっている。そうやって人類は地球の隅々まで住みにくいところ住みにくいところへと拡散していった。
死に魅入られる心とともに知性や感性が育ってゆく。じつは、そうやって人は絵を描いているのだ。
ネアンデルタール人は死に魅入られる心を持っていたし、そんな心から洞窟壁画が生まれてきた。



人類学者が語るところによれば、ライオンの頭部を持っていれば「神」で、シカの頭部を持っている像はトリックスターとしての「呪術師(魔術師)」なのだとか。
こうして原始時代の文化を何もかもアニミズムで語ってしまうのはいい加減やめてくれよと思う。神の崇拝とか霊魂という概念をもてあそぶ呪術とかというようなものは、自我が肥大化した文明人が生み出した観念行為なのだ。
そのシカの頭部を持った像は、ちょっとおどけたポーズをとっているように見える。まあシカが何かの拍子に立ち上がった姿を人間の体に置き換えて描けば、そのようなポーズに見える。それだけのことなのに、人類学者はそれをトランス状態に入っている呪術師だという。
われわれ現代人も、トランス状態に陥るとそのような半人半獣の幻覚を見るらしい。しかしそれは、われわれが歴史の無意識としてそのような文化を持っているからで、そのような歴史を持っていない原始人にそのような幻覚があったとはいえない。幻覚などというものは、その人が生きてきた記憶の層から浮かび上がるものだろう。
普遍的な幻覚などというものはよくわからない。よくわからないのに、それが普遍だと決めつけられても納得できない。
たぶん、原始人がそんな幻覚を見ていたのではない。それは、彼らの無邪気な動物への親近感やあこがれの表現だった。
現在の未開の民族の社会において、トランス状態になって幻覚を見るのは呪術師の仕事であり、一般人はそんなものは見ない。呪術師から「こんなものを見た」と知らされて「ああそうか」と人々が信じてゆく。自分たちは見たことがないから、そのお告げがありがたいのだろう。
では、トランス状態の呪術師がそんな姿を自画像として見るかといえば、それはありえない。自分で自分の姿なんか見ることができない。
呪術師はいつもみんなの前でシカになって見せていたのだろうか。そしてみんなも、シカ狩りの成功のためにシカになって踊っていったのだろうか。なんだか嘘くさい。
たとえばアイヌの熊祭りにそんな踊りがあるとすれば、それは熊に対する敬意を表するためのものだろう。アフリカ人の鳥のダンスは、鳥へのあこがれだろう。
ただの狩りの獲物になって、何がうれしいものか。シカのダンスをするとすれば、それはシカに対するあこがれがあるからだろう。そしてそれは、「シカになる」というのとはちょっと違う。人間としてシカへのあこがれをあらわしているのだ。原始人の表現の方が抽象的で、そういう心の表現なのだ。
ヨーロッパ人がクマになるとかライオンになるという直接的な表現をするようになってきたのは、おそらく氷河期明け以後のことだ。それは、自我の拡大であり、クマやライオンを神に見立てて、いわば神になろうとする行為だろう。
それに対してネアンデルタールクロマニヨン人が置かれた状況においては、自我を拡大してゆくかたちでは生きられなかった。彼らのテーマはあくまで自我をフェードアウトしてゆくことにあった。つまり、呪術師という存在などいなかった。彼らの社会に、自我を拡大するなどというテーマはなかった。なぜなら、生きてあることが困難な環境の下に置かれてすでに自我は拡大してしまっており、その自我がフェードアウトしてゆくかたちとしてライオンやシカの頭部を人間の身体の上にくっつけるという表現をしただけだ。
人間の自我が「神」や「霊魂」という概念を生み出したのではない。自我を追求し拡大しようとする欲望が、そうしたありもしないイメージを捏造してまさぐっているのだ。霊魂は自我の拠点で、神は自我のたどり着こうとしているところ、ということだろうか。
人間の心は、その本質自然において神や霊魂をイメージするようにできているのではない。
自我がフェードアウトしてゆけば、神や霊魂のイメージも消えてゆく。
ヨーロッパ人は、神を信じやすい肥大化した自我と、神を忘れてしまう自我のフェードアウトのタッチとの両方を抱えている。そこが彼らの生きにくさだろうか。ニーチェは「神は死んだ」といったが、それは必ずしも彼が神の存在を信じていないことを意味するのではない。
日本人は、「神は死んだ」などとは思わない。もともと神を知らないのだから。
ネアンデルタールクロマニヨン人だって、おそらく神などというものは知らなかったし、彼らの社会に呪術師もいなかった。
人類社会の呪術師は、まず氷河期明けのエジプト=メソポタミアから発生し、そこから地球の隅々まで伝播していった。アフリカやアマゾンやニューギニアの未開の部族のところまでも。
原始時代に神や霊魂という概念はなかった。現代人がそれを信じてしまいやすい心を持っているからといって、原始人はもっと信じやすかったなどと決めつけてもらっては困る。
自我のフェードアウトというテーマを持っている社会からは神や霊魂という概念は生まれてこない。



その半人半獣の像は、彼らがいかに身体と和解することに切実だったかということを意味しているのであって、自我意識を野放しにして神だの霊魂だのという概念をまさぐっていたことを意味しているのではない。自我意識をフェードアウトしながら身体と和解してゆく装置として動物の頭部をくっつけたのだ。
まあ非現実的な絵だから呪術や魔術と結び付けて考えたくなる気持ちもわからなくもないが、それではあまりにも短絡的だ。
人類学者たちはそれを、トランス状態の幻覚だと解釈している。だからそれは神経学のメカニズムとして解き明かせるはずだ、という。
しかしそれは違う。
ヨーロッパはヒステリーの本場であるが、トランス状態の伝統はアフリカにある。アフリカの音楽や踊りは、トランス状態に入ってゆきやすいような仕組みを持っている。黒人のリズム感は、そういう伝統の上に成り立っている。黒人特有のノリのよさ、というのは、一種のトランス状態に入ってゆける能力のことだろう。
ヒステリーとトランス状態とは違う。ヒステリーは自己闘争であり、トランス状態は野放図な自我の解放である。
ヨーロッパの伝統は、そのヒステリーを論理思考によって鎮めてゆくことにある。それは自己闘争であり、そうやってヒステリーを細分化し解体するようにして音楽や踊りが洗練してきた。彼らの伝統のコーラスやオーケストラは、じつに複雑に細分化して組み合わされている。
アフリカ人はトランス状態を目指したが、ヨーロッパ人はヒステリーを称揚していったのではない。それを鎮めてゆく文化を紡いできたのだ。
たぶん、現在よりももっと過酷な環境で生きていたネアンデルタールクロマニヨン人は、さらに切実なかたちでヒステリーの問題を抱えていたにちがいない。だからこそ、トランス状態の幻覚を止揚するような文化ではなかったはずである。
おそらく氷河期のヨーロッパの洞窟壁画は、トランス状態の幻覚で描かれたものではない。
たとえばこの国の古事記に登場してくるエキセントリックな神々だって、トランス状態の幻覚から生まれてきたとはいえない。それは、みんなで語り合いながら造形していった神々であって、誰かひとりのトランス体験から生まれてきた独創ではない。それは、自我の解放によってではなく、自我をフェードアウトさせていったところから生まれてきた神々だったのだ。
洞窟壁画の半人半獣の像だって、みんなで語り合っているうちにそんなイメージになっていっただけだろう。
頭部と身体を分割してイメージするという、その「分割する」ということがヨーロッパの論理思考の伝統であり、それほどに彼らは心と体の不調和に悩んでいたということだろうか。なんにしても、「トランス状態の幻覚」と決めつけてしまうべきではない。トランス状態は、ヨーロッパの伝統ではない。
そして、日本列島の伝統でもない。
自我をフェードアウトしてゆく体験が切実な風土では、トランス状態の幻覚を止揚してゆく文化は育たない。
その半人半獣の像は、さなぎが蝶になるときのような、あるいは「鳩を撃つ」ような「自己闘争」の表現なのだ。
1歳前後の赤ん坊が二本の足で立ち上がるときにだって、新しい心に変わってゆくような「自己闘争」はあるにちがいない。まあ人間は、そのような「自己闘争」を抱えて生きている存在だ。古い心を脱ぎ棄てて新しく生まれ変わったようなときめきがなければ、人は生きられない。人間の自然状態においては、自我をフェードアウトしてゆくという「自己闘争」が体験されている。
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