「やらせてあげる」ということ・ネアンデルタール人と日本人・71


「娼婦性」とは、女による「やらせてあげる」という生態のことである。
べつに、「誰かれかまわず」ということを付け加える必要はない。人間の女だろうと動物の雌だろうと、性欲があるのではなく「やらせてあげる」という生態を持っているだけである。性欲がないのだから、誰かれかまわずというわけにはいかなくなるし、誰でもいいということにもなる。
まあ、たとえひとりの惚れた男が相手だろうと、基本的には「やりたい」のではなく、「やらせてあげたい」のだ。
セックスの能力に長けた男であれば女を支配することができるかといえば、そうともかぎらない。そういう男が女に逃げられる例はいくらでもあるし、そういう能力がなくてもしっかり女の心をつかまえている男もいる。基本的に女には性欲がないのだから、そんなこととは関係なく「やらせてあげる」という態度を持つことができる。
フーゾク嬢だろうと素人の女だろうと「やらせてあげる」という生態を持っているだけであって、性欲を持っているのではない。
男と女の関係は、おたがいに性欲があって「細胞と細胞が呼び合う(吉本隆明)」というようなスムーズなものではない。それは、絶望的な断絶であると同時に、どんな組み合わせも可能になる関係性である。
そしてこれは、直立二足歩行の起源の問題でもある。
二本の足で立ち上がって猿よりももっと弱い猿になってしまった人類が生き残ってきたのは、一年中発情して旺盛な繁殖力を持ったことにある。
その姿勢によって男は、ペニスをつねに外にさらしているようになった。それはペニスがつねに外界からの刺激を受けているということであり、それによって一年中発情するようになっていった。そしてそんな男と向きっているほかない女は、いつでも「やらせてあげる」娼婦性をそなえていった。
猿は、メスの充血した性器に刺激されて発情する。メスの性器が充血してこない時期は、まず発情しない。しかし原初の人類は、二本の足で立ち上がって女の性器が隠されてしまった。それでも発情するようになったのは、向き合って立って「見る=見られる」という関係が濃密になっていったからだろう。そういう関係になっていないと二本の足で立つという姿勢は安定しないし、常態化しない。常態化していったということは、そういう関係が濃密になっていったということだ。そして女の性器が隠されたことによって、それへの関心がより強くなった。たとえば、ふだんは見えないものが何かのはずみで見えたときはおおいにときめく。まあ、そのようなことだ。そして見られている女は困惑し警戒する。しかし、困惑し警戒しても、向き合っている姿勢から逃げることはしない。
向き合ったまま、困惑し警戒している。猿のメスのように逃げたり追い払ったりということをしない。おそらくその、向き合ったまま困惑し警戒しているさまが、起源としての女の「娼婦性」であり、オスの発情をうながした。
向き合っていないと二本の足で立つ姿勢は安定しないから、困惑して警戒していてもその関係から逃げないで「やらせてあげる」という生態になってゆく。
発情期でもないときにときめかれても、女としては困惑するだけである。しかし困惑しても逃げないし、その「逃げない」という「娼婦性」が男を発情させる契機になった。
人類の、二本の足で立って向き合うという関係性の濃密さが、一年中発情して旺盛な繁殖力を持った集団にしていった。
まあ男であれ女であれ、人類の二本の足で立つという姿勢そのものがひとつの「娼婦性」の上に成り立っている。
基本的に生き物のメスは性欲を持たない存在である。だから猿のメスは、性器が充血しているとき以外にオスによってこられても追い払う。しかし人類の女は、性器が充血していなくても困惑しつつ発情した男から逃げない存在になってゆき、その困惑しつつなおも向き合っている態度が男の発情をうながした。
とにかく人類は、つねに男と女が向き合っている存在になっていったのだ。
人類の二本の足で立つ姿勢は、不安定な上に胸・腹・性器等の急所をさらして、攻撃されたらひとたまりもない。そうやって他者と向き合っていれば、本能的な警戒心がはたらく。それでも向き合っていようとするのが、二本の足で立つ姿勢である。向き合っていないと、その姿勢は安定しない。おそらくこれが人類の「娼婦性」の根源である。
二本の足で立ち上がった人類は、目の前の他者の存在に困惑し警戒しつつときめいてゆく存在になっていった。
男だって、目の前の女に困惑し警戒しつつときめき発情していったのだ。
たがいの身体は離れていなければならないと同時に離れていてはならない……この二律背反を背負って男は発情してゆき、女は娼婦性をそなえていった。



女になれなれしい男が精力絶倫かといえばそうでもなく、女に対するいささかの困惑と警戒を持ちながら男は発情している。同様に、男になれなれしい女に必ずしもセックスアピールがあるわけでもなく、男に対するいさかの困惑や警戒心を持っている女の方がかえって男を発情させる場合は多い。女は、その困惑や警戒心の中で「やらせてあげる」という態度をとってゆく。
女の性感がどのようなものであるかはよくわからないが、基本的に女は性欲がなく男やセックスをすることに対する困惑や警戒心を持った存在だから、そのぶん男よりもはるかに深い性感を体験するのだろう。そのとき女は、ただ笑ってはしゃいでいるのではない。くるおしくあえいでいる。女にとってセックスとは、ひとつの受難であるらしい。その受難に飛び込んでゆくことを「娼婦性」という。
そのとき女は、自分の身体の心地よさにうっとりしているのではない。ひたすら自分の身体に侵入してきた男のペニスに対する困惑と恐怖にあえいでいる。そうやって、自分の身体に張り付いた鬱陶しい意識を引きはがしている。
女の性感とは、自分を捨てて他者が存在することの困惑と恐怖の中に飛び込んでゆくことだろうか。まあ、ひたすら他者の身体=ペニスを感じているのだろう。
フェミニストが「クリトリスを刺激するオナニーだけでセックスは完結する」といっても、そのときやっぱり困惑と恐怖にあえいでいるにちがいない。それは、世界や他者が存在することの困惑や恐怖だ。人間は、自分=身体を置き去りにして、世界や他者が存在することの困惑や恐怖の中に飛び込んでゆく。無意識のところに、そういう衝動を持っている。それが「娼婦性」であり、人間的な「ときめき」は、根源的にはそういうかたちになっている。
男と女というより、人と人の関係そのものに、そうした二律背反的な深い断絶とそれを飛び越えてゆくときめきが横たわっている。
人間の命のはたらきは死と背中合わせであり、「娼婦性」とは、決死の思いで関係の中に飛び込んでゆく生態なのだ。人は、そういうことを無意識のうちに体験しながら他者との関係を結んでいるのではないだろうか。
だから、他者との関係に失敗して精神を病む人もいっぱい出てくる。
われわれは、意識しないところでものすごくややこしい心の動きをしながら他者との関係を結んだりして生きているのではないだろうか。



原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと弱い猿になった。
したがって、ライバルであるチンパンジーのような猿のテリトリーとはできるだけ離れた場所に住み着いていった。テリトリーを接した関係を生きるだけの能力がなかった。接していれば、どんどんテリトリーを侵食されていった。
もう、できるだけ離れて暮らすしかなかった。人類の集団どうしだってテリトリーを接することなく、できるだけ離れて緩衝地帯ととしての「空間=すきま」をつくり合っていた。そしてこれは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくるというコンセプトのもとに二本の足で立っている存在である人類の本能的な生態である。この本能があったから、地球の隅々まで拡散していったのだ。
チンパンジーは、ライバルとテリトリーを接する緊張に耐えながらできるだけ住みよい場所にいようとする。それに対して人類は、住みにくくてもライバルから離れた場所にテリトリーをつくっていった。
人類は、住みにくさをいとわず住み着いてゆく能力は猿よりはるかにまさっていたが、テリトリーを接する緊張に耐える能力ははるかに劣っていた。
つまり、たとえ住みにくい環境だろうと、つねにそんな緊張のない場所で暮らして歴史を歩んできた。二本の足で立っている猿に、そんな緊張に耐える能力はなかった。
つまりそれはもう、みずからの集団内でも、たとえばオスに寄ってこられたメスには追い払う能力がなかったということである。ライバルからできるだけ離れて暮らしてきた人類は、しだいに他者を追い払う能力を喪失していった。そうしてメスは「やらせてあげる」という「娼婦性」が身についていった。
まあ、人類全体が、そうした「娼婦性」の生態になっていった。



人間は他者との緊張関係に耐える能力が希薄だから、すぐに精神を病んでしまうし、耐えきれずに人殺しや戦争をしてしまったりする。
人と人の関係は「娼婦性」の上に成り立っている。
緊張関係が生じないように、たがいのあいだに「空間=すきま」すなわちある「断絶」をつくりながら関係してゆく作法を持っているのが人間である。
基本的に人間は「細胞と細胞が呼び合う」ような関係にも「細胞と細胞がはねつけ合う」関係にもならない。あらかじめ「断絶」をつくりながら関係し合ってゆく。
人と人の関係は、つねに一方通行なのだ。細胞と細胞が呼び合っているのではない。たがいの「娼婦性」が人と人の関係をつくってゆく。
この「娼婦性」が希薄な人が他者との関係の中に投げ入れられて精神を病んでいったり、他者を支配しようとしていったりする。支配することに成功した人は社会的に認知され、失敗した人は精神を病んでゆく。
しかし、ひとまずもっとも基礎的な人と人の関係性である男と女のあいだはたがいの「娼婦性」の上に成り立っているし、われわれは「娼婦性」を持っていない人間にときめきくことはできない。とりもなおさず人間の知性や感性は、「娼婦性」とともに生まれ育ってくるのだ。
人間は、学問とともじつにたくさんの知らなくてもいいことを知るようになり、芸術とともにじつにたくさんの体験しなくてもいい感動を体験している。それは、人間の「娼婦性」によってもたらされているものにほかならない。
べつに知らなければならないとおもっているわけではないが知ろうとしまうし、感動しなければならないと思っているわけではないのに感動してしまう。
人生にしなければならないことなど何もない。歳をとって濡れ落ち葉のようになってしまう人がよくいる。「しなければならないこと」を根拠にして生きてきたからだ。歳をとって仕事からも子育てからも男と女の関係からもリタイアしてしまえば、もうするべきことなど何もない。しかし、するべきことなど何もなくても、それでも何かを知ろうとしたり感動してしまったりするのが人間なのだ。人間の「娼婦性」は、避けがたくそういう体験をしてしまう。
制度的な「しなければならないこと」を根拠にして生きてきた老人はもう、騒々しくはた迷惑な存在になってしまうか濡れ落ち葉になってしまうか、そのどちらかしかない。今どきは、とくに男の老人にそういう病理が蔓延してきているらしい。
いや、若者のあいだにだってそういう病理が忍び込んできているという話も聞こえてきたりする。それが「自分探し」ということだろうか。そうやって「自分」に執着してゆくことは、「しなければならないこと」を根拠にして生きようとしていることと同義だ。
彼らは、自分を捨てて二律背反の断絶の中に飛び込んでゆこうとする「娼婦性」を喪失している。「知る」とか「感動する」ということはそういう「娼婦性」の体験であって、べつに知るべきことも感動しなければならないことも何もない。そんなことなどなくても、息をしたり飯を食ったりしていれば、人は生きてゆける。それでも、その息をしたり飯を食ったりすることに「知る」とか「感動する」という体験をしてしまうのが人間なのだ。
意識を「自分=身体」から引きはがして世界や他者に向けてゆけてゆく「娼婦性」、これによって人類は豊かな繁殖力を持ち、世界の隅々まで拡散し、人間的な知性や感性を育ててきた。
人間は、誰もが娼婦なのだ。
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