ある恋愛論について・ネアンデルタール人と日本人・70


生き物が雌雄を持っているということは、いろんな意味で二律背反を生きる存在であるということかもしれない。
男と女という二律背反、生と死という二律背反。出会いと別れという二律背反。生きてゆくことは死んでゆくことだという二律背反。
二律背反を生きることを、ここではひとまず「娼婦性」と呼ぶことにしている。
それはともかくとして、本居宣長の『古事記伝』はこの国の古代文学研究におけるもっとも重要なテキストのひとつになっているのだろうが、僕としてはもう、それを一音一義のやまとことば解釈の手法で全部書き直してしまいところである。まあ、僕にはもうそんな大きな仕事ができるだけの時間は残っていないし、たとえしたとしても発表できる当てもないから触らないでいるのだが、「本居宣長といってもこの程度かよ」ということは、何度かここに書いてきた。
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イザナギイザナミの神話は、古代の日本人が女のことや男と女の関係をどのように考えていたかということを探る手がかりになる。
本居宣長は、このイザナギイザナミの「ぎ」と「み」という語尾は「男」と「女」をあらわす、といっている。そして「いざな」は「いざなう」の語根だ、と。
まあそれで間違いということもないとは思えるが、古代人がどのような思いを込めて「イザナギイザナミ」と命名したのかというところを探るなら、この解釈はいかにも粗雑である。
まず「ぎ=き」は、胸の中がある感慨で覆われている状態からこぼれ出てくる音声である。そのとき息が口のまわりにぴったり張り付いて、音声だけが出てゆく。
裸の木が葉っぱに覆われているから「木=き」という。「気」もまた、この世界を覆うものである。「着る」とは、裸を衣装で覆ってしまうこと。
「き」は、「輪郭」「世界」の語義。
「男気(おとこぎ)」とは、男としての精神の輪郭のこと。もし「ぎ」に「男」という意味があるなら、こんなしつこい蛇足のような言い方は絶対にしない。「ぎ」に「男」という意味などないから「男気(おとこぎ)」という。まあこの場合の「ぎ」は、「義侠心」の「ぎ」だろう。だから「男義」とも書く。
すなわち「イザナギ」とは、「いざな」の感慨で胸の中が覆われている神、ということになる。
そして「み」は「見る」「味(み)」の「み」、「気づく」こと、あるいは気づく対象の「気配」のこと。
イザナミ」とは、相手の「いざな」の感慨に気づく神、あるいは「いざな」の「味=気配」を持っている神、ということになる。「おかしみ」とか「たのしみ」の「み」。
べつに「き=男」「み=女」という固定した意味があるわけではない。日本人がそのような意味で「き」と「み」を使ってきた痕跡などどこにもないではないか。文科系の研究者という人種は、こういう安直なこじつけというか思考停止をすぐしてしまう傾向がある。
では「いざな」とは、どういう感慨から表出されてきた言葉か。べつに「いざなう」でもいいのだが、その言葉の語源においては、行為の説明ではなく、その行為にこめられた感慨を表出しているのであり、古代人はそうした語源のかたちを意識して言葉を扱っていた。この場合の「行為」というニュアンスは「う」にこめられている。
「いざな=いさな」。語源においては、ほとんど濁音は使わなかった。
「い」は「いのいちばん」の「い」、「早い」とか「最初」とかということの強調の音韻。
「さ」は、「さっさと済ませる」の「さ」、なめらかで素早いこと。
「な」は、「なつく」「慣れる」「なじむ」「なかよし」の「な」、「愛着」の語義。
「いさな」とは、たちまちスムーズにときめいてゆく心、すなわち「出会いのときめき」。
その出会いのときめきを生みだすことを「いざなう」という。
とにかく、「イザナギ」は出会いのときめきで胸をいっぱいにしている神で、「イザナミ」はその出会いのときめきを起こさせる「味=気配」を持った神だということになる。そして男のそのときめきに気づいて「やらせてあげる」という「味=気配」になってゆく。そういう「み」なのだ。
ときめく神と、ときめきを誘う神。この場合の「誘う=いざなう」は、「み」という音韻にこめられているのであって、「いざな=いさな」は、「ときめく」というニュアンスであり、「いざなう(ふ)」という言葉の「誘う」というニュアンスは「う(ふ)」が担っている。
イザナギ」の「いざな」に「誘う」というニュアンスはない。あくまで、「やらせてくれ」と寄ってゆく神なのだ。
まあ現代においても、基本的に男は「やらせてくれ」と口説く存在であり、「誘惑」しているのは女の方だろう。
それは、鳥のオスが求愛ダンスをしてそれに気づいたメスが交尾をやらせてあげるという、生き物としての普遍的な男と女の関係性である。
古代人は、ちゃんとそういうことを意識していた。
だから、「女の方から先に声をかけるのは不自然だということで出会いのかたちをやり直した」というエピソードが挿入されている。
それは、べつに男尊女卑とか、そういうことではない、生き物としての自然の法則である。
そのようにして古代の歌垣でも、男の方が先に歌を贈るという習慣になっていた。
というわけで、イザナミが先に声をかけるのは不自然なのだ。
古代は、女の「娼婦性」がちゃんと機能している社会だった。男が先にときめいてゆくのだが、セックスは女がリードして女がやらせてあげるものだ、という姉さん女房的な古代の男と女の関係のニュアンスが、この神話にちゃんとあらわれている。
女はべつに性欲を持っているわけではないが、「やらせてあげる」という他者に対する親密さとしての「娼婦性」を持っている。
イザナギ」「イザナミ」の、この「き」と「み」には、とても味わい深いニュアンスがこめられている。そういうことをたぶん本居宣長は何もわかっていない。
やまとことばを一音一義でたどってゆくということをしなければわからない。
意味を詮索するだけでは、その言葉のほんとうの「姿」は見えてこない。意味は、たんなる言葉の「中身=肉体」であって、「姿」ではない。言葉の味わいは、「意味」にではなく「姿」にこそある。
まあこういうことは本居宣長だっていっているのだが、そのくせ、「ぎ=き」は「男」である、などいう浅薄な意味のこじつけばかりしている。
だから、『古事記伝』なんか、一音一義で全部書き直してしまいたくなる。
意味ばかり詮索していても、古代人の心模様は何も見えてこない。古事記のとくに前半部分の神についての物語を読解することは、そこにどんな史実が隠されているかということではなく、そこに古代人のどんな心模様がこめられているかというところを読んでゆくことにある。
イザナギイザナミの話には、古代人がそのようにして神という概念を人間臭いかたちに換骨奪胎してゆくことによって受け入れていった、という心の軌跡があらわれている。もともと神などというものを知らない日本人が外来文化の神という概念を受け入れてゆくためにはどれほどの深く狂おしい心の葛藤があったかという痕跡がそこに記されている。
それはまあ奈良盆地の人々が無邪気に楽しく語り合いながらつくられていった物語にはちがいないのだが、そうやって語り合うこと自体が、無意識の中の神という概念を受け入れることに対する狂おしい葛藤からの解放だったのだろう。
彼らは、神というものを、あんなにも人間くさくしたり奇想天外なものにしてゆかないことには納得できなかった。



まあ、人間としてこの世に生れ出てくること自体が二律背反を負った事態であり、その事態と和解してゆくところから人は生きはじめる。
人の心は、二律背反を受け入れるはたらきを持っている。二律背反を受け入れることを「娼婦性」という。
「生きる」という命のはたらきは「死んでゆく」はたらきである。このいとなみとしてわれわれは生きはじめる。
息をすることは、息苦しいという身体に張り付いた意識を引きはがして、身体のことを忘れてゆく行為である。身体のことを忘れてゆくのは、「死んでゆく」ことである。人は、「死んでゆく」いとなみによって生きている。身体の苦痛とともにこの世に生れ出た赤ん坊は、まずこのことを覚える。息をしたりおっぱいを飲めば、さっぱりと身体のことを忘れてしまえる。そうして、安らかな眠りにつくことができる。身体のことを忘れてゆくことや眠りにつくことは、ひとまず「死んでゆく」という体験である。
赤ん坊の生は、身体のことを忘れてしまうカタルシスの上に成り立っている。猿や犬猫の赤ん坊よりもはるかに身体能力の劣った存在である人間の赤ん坊は、だからこそ、猿や犬猫の赤ん坊よりもはるかに深いカタルシスを体験し、はるか深くその体験に対する願いを持っている。すなわちそれは、生きるいとなみは死んでゆくいとなみであるというこの生の二律背反を受け入れてゆくことにほかならない。
まあ世の中では、大人の薄汚れた観念による生きるための知恵とか道徳が何か人間性の本質であるかのように語られているが、そういうことは、赤ん坊をはじめとするこの世のもっとも弱い者のもとにある。世の大人たちは、そこから学ぶことのできる想像力を持っていないから、いうことがいちいち下品で薄っぺらなのだ。彼らは、薄汚れた大人であることに居直り、そんな「自分」を物差しにしてしか人間を考えることができない。
人間として生きてあることの二律背反を受け入れてゆくことのできる「娼婦性」は、赤ん坊がいちばん深く豊かにそなえている。そこにこそ、生きてあることの深く豊かなカタルシスがある。
人間性とは、「娼婦性」である。
男と女のセックスは女の娼婦性の上に成り立っており、男は女の娼婦性にうながされて発情する。それは、猿のオスがメスの充血した性器のさまに気づいて発情するのと同じである。まあ根本は、そのような関係になっている。
女は、存在そのものにおいて「娼婦性」を漂わせている。性欲なんか持っていないくせに「やらせてあげるよ」と男を誘っている。「やらせてあげるよ」と思うのではない。あくまで、そういう「姿」をしている、ということだ。イザナギイザナミの神話は、そうした女の「娼婦性」をうまく汲み上げて表現しているし、それこそが日本文化の風土なのだ。



日本的な「姿」の文化は、「娼婦性」の文化である。
吉本隆明は晩年に『超恋愛論』という本を出したが、彼のこの手の本がくだらないのは、つねに「自分」を物差しにして語っているところにある。まあ、どうしようもない自意識過剰のナルシストだから仕方がないのだが、こういう自分語りに感激して飛びついてゆく読者は多い。誰もが「自分」に執着して生きている世の中であるのなら、自分語りこそ扇動の王道なのかもしれない。まあ、誰も吉本ほどの自意識過剰のナルシストにはなれない。うらやましいかぎりである。
というわけでこれは、「くだらない」という以外に批評しようもない本である。
「私にとっての恋愛とは何か」というようなことを語られても、僕は彼ほどの自意識過剰のナルシストになれる才能もないから、身につまされるような話など何もない。
吉本隆明のそんな雑駁な思考よりも、イザナギイザナミの話の方がずっと「男と女の関係とは何か」ということを考える刺激を与えてくれる。
僕としてはまあ、「恋愛」という言葉の意味がそもそもよくわからない。「男と女が親しくなってセックスにいたる関係」というのは考えるに値する問題かな、と思っているだけだ。それはきっと、雌雄の発生の問題とも重なるにちがいないのだから。
吉本隆明はここで「恋愛というのはおたがいの体の中の細胞と細胞が呼び合うようなことだ」といっている。ロマンチックだねえ。しかしわれわれは、そうは考えない。基本的には、男の方が無理やりけんめいにすり寄っていって、女が何かのはずみで「いいわよ、やらせてあげる」という気になってゆくことだ、と思う。そしてそのとき男は、女の「姿」に「いいわよ、やらせてあげる」という気配が漂っているように感じてそういう行為に出ている。
美人とは、「いいわよ、やらせてあげる」という気配のことである。まあ「美人は神様がセックスしてもっとも気持ちがいい存在としてつくりたもうた」というようなニュアンスだろうか。美人本人はまったくその気がなくても、男は勝手に誘われてしまう。その「姿」にそういう気配が漂っている。そうやって男は、けんめいにすり寄ってゆく。
美人がいつまでも処女でいることは難しい。今どきは、若くして処女でないことはいい女の証しであるかのような雰囲気がある。
男は、勝手にそのように解釈して女にすり寄ってゆく。そして女は、べつにセックスをしたいわけではないがみずからの身体に対するいたたまれなさを避けがたく抱えてしまっている存在だから、まあ男のペニスを受け入れるというかたちでみずからの身体に処罰をくわえようとする。男のペニスを感じていれば、みずからの身体のことを忘れていられる。
雌雄の発生とは、単体生殖の細胞分裂を繰り返してきた生き物が、あるとき二種類のできそこないの個体を生みだしてしまったということだろう。ひとつは過剰なものを持ってしまった個体で、もうひとつは欠損している個体である。古事記だって、イザナミは「私には足りない部分がある」といい、イザナギは「私には余計な部分がある」といっている。ただの言葉遊びではない。人は、そのようなかたちでみずからの身体存在に対するいたたまれなさを抱えている。
おたがいできそこないの身体どうしなのだ。そういうことを自覚しながら男と女になったり集団をいとなんだりしてゆくのが人間である。
べつに「細胞どうしが呼び合っている」のではない。基本的には、どうしようもなく寄っていきたがる習性の男という存在と、寄ってこられたら拒めなくなってしまう習性の女という存在がいるだけだ。まあ古代社会はそのような関係になっていたからイザナギイザナミの話が生まれてきたわけで、ほかの動物を見ても、みなそうなっている。
よけいなものは捨てたくなる。それに対して「足りない」ということは、捨てるものがないということだ。そして、たいていのことはなければないでなんとでもなるが、ただし目の前に置かれたら拒めなくなってしまう。男と女の関係だって、まあそのようなものだろう。そのようなものだ、と古事記ではいっている。
「男と女のあいだには暗くて深い河がある」などという歌の文句もあるが、「細胞どうしが呼び合っている」というようなのんきでロマンチックなことではなく、おたがいがみずからの生の与件にせかされて避けがたくそういう関係になってしまうのだ。
「細胞どうしが呼び合っている」などということを当てにしている男が女にもてるはずがない。そんなものは、モテないブ男や自意識過剰のナルシストの幻想なのだ。
女たちの「白馬の王子様がやってくる」という話は、べつに性欲があるわけではないがそういう男が目の前にあらわれたら拒めない、という彼女らの本能的な生態が生み出したのだろう。女は性欲を持っていない存在だから、そういう話をつくってしまう。女は、無意識のどこかで、自分には性欲がはたらいていないということを自覚している。
男というすり寄ってゆく存在と女という拒めない存在がいるのであって、「細胞どうしが呼び合っている」のではない。
女は、男に惚れるのではない、男を拒まない、だけなのだ。だから美人は、用心していないとつまらない男に引っ掛かってしまうし、たくさんの男がけんめいにアプローチしてきてたくさんの男を相手にしないといけないはめにもなる。



イザナギイザナミの、この「過剰」と「欠損」は、「輪郭=姿」の問題である。「輪郭=姿」に対する意識が、そういう話をつくっていった。
男の発情は、女の身体の「輪郭=姿」としての「娼婦性」の反応として起こる。
日本文化は、たとえば「細胞どうしがひかれ合っている」というような「内発的な衝動」をあまり信じていない。これが、霊魂を知らない民族の思考の流儀であり、人間や生き物の普遍性の問題としても、あまり安直に「本能」などという概念を据えるべきではない。
まあ「本能」という概念は、「霊魂」を信じてしまう思考形式から生まれてきたのだろう。文明人は、どうしてもそういう思考形式を持ってしまっている。吉本隆明もまた、この罠にはまってしまっている。
人は、どうして見えもしない「中身」にこだわり、わかったつもりになってしまうのだろう。
われわれが人を見るとき、目の表情に輝きがあるとか穏やかだとか、あるいは微笑んだときの唇のかたちが優雅だとか、さらには声やしゃべり方がどうだとか、そんなふうな「輪郭=姿」に反応しているだけで、実際の心なんかもちろん見えていないし、霊魂にいたってはさらに考えてもいない。
見えないものを存在するものであるかのように信じ込んでしまう制度的な思考しかできないから、「細胞どうしが呼び合っている」などと陳腐なことをいっていい気になってしまう。
そうじゃない、すべては表象の「輪郭=姿」において起きているのだ。
男と女の関係は一方通行なのだ。一方通行の安心できないものだからせつなく胸がきゅうんとしたりもするわけで、古代人はそういう男と女のスタンスの違いをちゃんとわかってイザナギイザナミの話をつくった。それはただ性器の構造だけの話だけではないから、「女が先に声をかけるのは不自然だ」というエピソードを挿入した。
原始・古代社会が女権社会だったということは、男がアプローチして女が選別するという生き物としての原則がまだ守られていたということだろう。
そして現代社会の女のフェラチオだって、ペニスの硬さや形を検閲・吟味している行為であるのだろう。またそんなことくらい、べつに恋愛感情など持たないフーゾク嬢だっていやがりもせず当たり前のようにしている。その行為が「細胞どうしがひかれ合う」愛の証しだなどというのはただの幻想だということくらい、誰もが承知している。
吉本隆明はその『超恋愛論』の中で「現代の男女が結婚しなくなったのは恋愛が成り立たなくなっている社会だからだ」というような意味のことをいっているが、そうじゃない、恋愛の上に男女の関係を語り過ぎて女が持っている「娼婦性」を否定しているたからだろう。この世に恋愛が存在するとしても、その多くがただの制度性の上に成り立っているということを人々が気付きはじめている。
女が、「男なんか誰でもいいけどとりあえずひとりの男を選別しないと誰とでもセックスしないといけないはめになる」という娼婦性の自覚を失っていることの方が大きい。昔だろうと今だろうと、結婚もまた女の「娼婦性」の上に成り立っている。結婚することがいいのか悪いのかよくわからないが、男が誰かれかまわずやりたがる存在で、女があんがいかんたんにやらせてしまう存在だという原則がなくなるわけでもないだろう。結婚するにせよしないにせよ、その原則だけは確認しておいてもいい。その原則が希薄になると、社会の男と女の関係は停滞してゆく。
日本列島は海に囲まれた島国で異民族との軋轢がなく、「拒否する」という心の動きを持つ必要がない土地柄だったために、女の娼婦性が温存されてきたし、それが全体の精神風土にもなっている。
エジプト・メソポタミアのような戦争ばかりしている土地柄だったら、女の娼婦性を認める余裕などなくなってしまう。
現在のこの国だって豊かな暮らしをすることが価値になり、そのために男の結婚をする権利と資格が用意されている社会であるのなら、エジプト・メソポタミアのように、おたがいに異性の「輪郭=姿」に対する感受性が希薄になってしまう。そうなればもう、なかば自動的に結婚する男女が決まってゆくだけで、なりゆきのハプニングなんか起きない。
すべての女が将来の安定を与えてくれる男としか結婚しなくなったら、それはもうイスラム社会と同じだろう。まあ安定した将来も大切だろうが、女の娼婦性の危うさが希薄で男の緊張感や性衝動も曖昧になってゆくのなら、元も子もない。
娼婦性というのは、べつに浮気っぽいということではない。誰でもいいのなら、ひとりでもいいということでもある。そうして目の前の男を男のすべてだと思ってゆくことだってひとつの娼婦性である。女の娼婦性というデカダンスは、それなりに自然で建設的で健康的でもある。
男も女も魅力的で誘惑的であるのなら、基本的に恋愛など必要ない。あえて差別的な言い方をしてしまうなら、恋愛などというものはもてない男女がくっつくために必要なものだ、ということになる。



恋愛の中に男と女の関係の本質を見ようとする思考は、いささか危険である。
吉本隆明は、小林秀雄中原中也の恋人を奪ったという有名な話に関して、「いちばん傷ついたのは中原中也だ」といっているが、そんなことはどうでもいい話である。男は誰かれかまわずやりたがる習性があるし、女はかんたんにやらせてしまう習性があるという原則の上に起こったことだ。
吉本は、自分もそのような略奪婚のかたちで結婚したいきさつがあり、そのとき自分が大恋愛をしていると思い込むための道具として、つねに傷ついた第三者のことを意識していたのだろう。それは、彼の倫理的な誠実さではない。ナルシズムなのだ。
世の中にはそのようなケースはごまんとあるが、普通は第三者のことなどなんにも考えていない。一緒になった瞬間から、一対一の男と女の関係がはじまるだけである。とくに、ほとんどの女は罪悪感などない。その「娼婦性」でさっぱり忘れている。
小林秀雄だって、その女と同棲をはじめたときに共犯者としての連帯感=絆でうまくやってゆけるだろうと期待したかもしれないが、実際にはそうではなく、一対一のきつい局面が現出しただけだった。
男と女に絆などあるものか。ひたすら一対一のきつい局面が続くだけだ。
三者に対する罪悪感を思うなんて、ただのナルシズムだ。そんなことを思うくらいなら最初から一緒になるな、という話である。ある意味、第三者に対して失礼である。逃げられた第三者が屈辱感に傷つこうとつくまいと、男と女の関係に第三者など存在しないのだ。
共同体の結束が敵という第三者を意識することにあるとしても、男と女が一緒に暮らしはじめたらもう、三角関係など消えているのだ。
結婚したら、両親のことなど忘れてせいせいする。普通は、そんなものだろう。親に反対されたからといって、親にすまないなどとは思わない。思うのは、誠実だからではなく、ナルシズムが強いか意識が制度性に冒されているからだ。
略奪婚をした当事者の男に、いちばん傷ついたのは第三者である、などという資格はない。傷つこうとつくまいと、そういう問題は存在しないのだ。それくらい男は誰かれかまわずすり寄ってゆく存在であるし、女はかんたんにやらせてしまう存在であるがゆえに目の前の男が男のすべてにもなるのだ。
吉本隆明が略奪婚をしたからといって、それだけで大恋愛をしたつもりになって恋愛論を語られても困るのだ。そんな関係くらい世間にいくらでもあるし、有名な文学者がすれば特別な大恋愛になるというわけでもないし、おまえのような自意識過剰の男に男と女の関係の何がわかるかといいたくもなってしまう。
同じような体験をした小林秀雄は「こんなものはどこにでもある色恋沙汰のひとつですよ。中原中也の研究者が聞きにくればいくらでも話してやるのに、誰も聞きに来ようとしない」といっている。そのとき女は、垢抜けない田舎者で自意識過剰の中原中也から都会育ちでハンサムな小林秀雄に乗り換えた。それだけのこと。それは「輪郭=姿」の問題だ。そして女に中原中也に対する罪の意識がすこしでもあればそれなりにしおらしくしていただろうが、女の娼婦性は小林秀雄が男のすべてであるかのように思い込んでいった。そんな気持ちで向かってこられたら、小林秀雄としてもしんどくなってしまう。男と女の関係は、「恋愛」とか「細胞どうしが呼び合う」とか、そんなことではすまない。
吉本隆明がここでいう「細胞」は、「霊魂」という言葉に置き換えることができる。彼は、恋愛というのは霊魂と霊魂がひかれ合うことだ、といっているのだ。そうかもしれない。そう思い込むことができる人たちは、そうやって恋愛をしてうっとりしていればいい。しかしわれわれが体験する男と女の関係は、「輪郭=姿」をさらして向き合うことだ。それ以上でも以下でもない。「中身」としての「霊魂=細胞」なんかなんの役にも立たない。人の心は、「中身」に向くようにはなっていない。
「中身としての霊魂=細胞」で恋愛ができる人たちは幸せだ。まあ、好きにやってくれ。しかし現実はそういうわけにはいかないから結婚しない男女が増えてきたのだろう。われわれの現実は、吉本隆明の思うような「人々がちゃんと恋愛できるような社会になれば結婚する男女も増えてくる」などというかんたんなものでもロマンチックなものでもない。そして、それでも人と人は寄り添い合う生き物だという事実があり、それが問題だ。
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