他愛なくときめくということ・ネアンデルタール人と日本人69


古代の「たま」という言葉は、とても豊かなニュアンスをまとった味わい深い言葉だった。
かんたんに「たま=霊魂」という前提で語ってもらっては困る。
もともとは「ときめく心」を「たま」といった。ときめく心とは、心の表面がきらきらしていることであって、心の中の霊魂のことをいっているのではない。霊魂などというものを知らないところから生まれてきた言葉なのだ。
そうしてのちに、きれいなものやめでたいものを総称する言葉になっていった。
神道の神事で使う榊の枝を布や紙で飾り付けた供え物のことを「玉串(たまぐし)」という。
「たま=霊」であるのなら、なぜ「霊串」と書かないのだろう。なんのかのといっても、日本人にとっては「玉串」と表記した方がめでたい感じがしてしっくりする。
神社で祈祷をしてもらうといっても、晴れやかな気持ちになりたいだけで、昔の人はそれで願いが叶うなどとは思っていなかった。
その祈祷が本質として「呪術」であるのなら、「霊串」と書くべきだろうが、そんなつもりはあまりなかったし、「霊」なんてなんだか気味悪い感じさえする。「玉串」と書いた方が「ハレ」の気分になれるというか、ずっとめでたい「姿」になる。
万葉集でも一時は「たま」に「霊」という字をあてたりしていたが、最後には万葉仮名にするか「玉」という字をあてることで落ち着いている。「玉勝間」「玉櫛笥」「玉だれの」「玉藻なす」等々。
日本人には「たま=玉」の方がしっくりくる。「玉」と表記した方が、華やいできらきらしている感じが出る。
日本列島で呪術が定着し本格化したのは平安時代からのことだが、それだって権力階級が熱心になっただけで、民衆のあいだで本格化するのは江戸時代になってからのことだ。
古代の神社は、あくまで「祭り」の延長の、「みそぎ」をしてめでたく晴れやかな気分になるところだった。つまり古代はまだまだ霊魂を知らなかった時代の余韻を引きずっていたわけで、その気分で「玉」と書いたのだ。



神社のことを「宮(みや)」という。これが起源の呼び名だったのだろう。
「み」は、「何かに気づいて気持ちが和らぐ(充実する)」というようなニュアンスの音韻。つまり、「賑わい」。
「や」は、「遠いものに向かう気持ち」をあらわす。
「みや」とは「遠くの(あるいは非日常の)賑わい」、まあ「どこからともなく人が集まってきて賑わう場所」というようなニュアンスの言葉なのだ。
「宮川」という名称は全国にあるが、べつに神社の川だからではなく、いくつも小さな流れがひとつに集まって大きな流れになっているからだろう。
「みやげ」は、よその土地から運ばれてきた珍しいもの。
古事記に出てくる「ミヤヅヒメ」は、ヤマトタケルが東国征伐の帰りに尾張の地で出会った女性だが、初夜の床のときに月のさわりになっていた、というエピソードが語られている。まあ「月のさわり」とは「みやげ」のようなものかもしれない。「みやげが体につく」から「ミヤヅ」ということだろうか。いや、「つ」は「達成」の語義、ヤマトタケルの華やかな活躍が達成されたことを祝福する姫、おそらくこれがこの名前の表の意味だろう。しかし「つ」という音韻には、「着く」の「つ」で「達成」という意味と同時に「終点」「終焉」というニュアンスもある。つまりこの「つ」には、メタファとして「ヤマトタケルの華やかな物語(=みや)はここまで」という不吉な予感が暗示されている。物語はこのあと、ヤマトタケルが破滅の坂道を転げ落ちてゆく展開になっている。ミヤヅヒメの月のさわりも、不吉な予感のメタファになっているのだ。ヤマトタケルは、そのさわりを押して姫とつながっていった。それは、このあとの破滅を暗示し象徴する行為だった。物語の作者はそういうことを意識してこのエピソードを挿入し、「ミヤヅヒメ」という名前にしたのだろう。
それはまあ余談だが、とにかく起源としての「みや=神社」は非日常の賑やかで晴れがましい場所だったのであり、霊魂がどうのという呪術の場ではなかった。
古代以前の神社が現在の盆踊りや縁日の起源の場だったということは容易に想像がつく。
日本人は、めでたく晴れがましいことが好きだ。霊魂がどうのということよりももっと好きなのだ。だから、「たま」という言葉を「霊」ではなく「玉」という字で書いた。
そしてなぜそんなにもめでたく晴れがましいことが好きかといえば、それほどに深く「嘆き」を抱えて生きてある存在だからだ。不幸だからとか、そういう問題ではない。生きてあることそれ自体に「嘆き」がある。
願いが叶ったからといって、生きてあることの「嘆き」が解決されるわけではない。願いが叶っても、生きてあるという事実から逃れられるわけでもない。その事実はもう、「みそぎ」をしながらめでたく晴れがましいことを汲み上げながら癒してゆくしかない。
古代人にとっては、呪術で願いをかなえることよりも、めでたく晴れがましい気分を汲み上げてゆくことの方がずっと大切なことだった。
願いをかなえるというか欲望を達成することを「文化」というのではない。それは「文明」という。
人は、生きてあることの「嘆き」からは死ぬまで逃れられない。その「嘆き」をやりくりしてゆく作法のことを「文化」という。
日本列島の古代以前の人々にとっては、欲望達成の呪術よりも、生きてあることの「嘆き」をやりくりしてゆくことの方がずっと切実なことだった。縄文人は呪術も文明も知らなかった。しかし生きてあるという事実に対してはわれわれ現代人よりもずっと切実だったし、その切実さを引き継いで古代という時代があったのだ。
「たま」という言葉も「みや」という言葉も、そういう切実さから生まれてきたのだ。そこのところを、今どきの歴史家はなんにもわかっていない。縄文人や古代人の心を「霊魂」という概念で説明しようとしているかぎり、彼らには永久にわからない。



起源としての神社に神も霊魂もなく。ただもうめでたく華やかな賑わいがあるというだけの場所だった。生きてあることの「嘆き」を抱えた人間には、そういう場所が必要だった。それはもう原初以来の人類の伝統だったのであり、欲望達成のための呪術などというものは文明人が生み出したのだ。
神社はあくまで「祝祭」の場だった。「呪術」の場だったのではない。人間が普遍的に必要としてきたのは「祝祭」であり、文化としての学問や芸術だって、スポーツやセックスだって、本質的にはひとつの「祝祭」なのだ。そんなことくらい、考えなくてもわかることではないか。なのに、どうしてあなたたちは上代の歴史を「呪術(アニミズム)」で語ろうとするのか。
「たま」や「みや」という言葉は「祝祭」の表現として生まれてきたのであって、呪術の用語だったのではない。
小林秀雄だって「人間の本質を考えようとするならアニミズムは無視できない」と語っている。まったく、何をくだらないことをいっているのだろう。人間は本質的にはアニミズムとは無縁の存在なのだ。
ただもうお祭りとしての「祝祭」が人類を生かしてきた。
人と人の出会いだって、心ときめくひとつの「祝祭」である。この体験とともに人類の歴史が流れてきた。
その出会いのときめきを「たま」といい、その出会いのときめきが起きる場を「みや」といった。
なんのかのといっても、出会いのときめきが人間を生かしているのであり、出会いのときめきがなければ人は生きられない。
欲望達成の呪術など、本質的にはどうでもいいことだ。そんな俗っぽい想像をたくましくしたからといって歴史の起源に推参できるわけではない。
原初の日本人がどんな思いで「たま」といい「みや」といったか、今どきの歴史家は何もわかっていない。



弥生時代のはじめの奈良盆地に神社の起源であるところの祭りの場が生まれてきたとき、そこはほとんどが湿地帯であった。したがって、人が住む集落は少ししかなかった。その湿地帯のあいだの浮島のようになった部分に小さな集落が点在していただけで、ほとんどの人はまわりの山で暮らしていた。
しかし、祝祭にふさわしい場所はやはり、たおやかな姿をした山に囲まれた景観を持った平地でなければならなかった。まわりの山で暮らす人々とは、その景観に対するあこがれを共有していた。誰もがときどき平地に下りていってまわりの山を眺めた。
そのようにしてまわりの山から下りてきた人々が集まる場所ができてゆき、そこで祭りが生まれてきた。
起源としての神社は、どこからともなく人が集まってくる賑わいが生まれる場だった。その賑わいのことを「たま」といい「みや」といったのであって、呪術(アニミズム)のことではない。
起源としての神社はアニミズムの場だったのではない。それは、「たま」と「みや」という言葉にちゃんとあらわれている。
人間にとって出会いのときめきがどれほど大切なことかは、昔も今も変わりはないし、それによって人類の歴史が流れてきた。
弥生時代奈良盆地の人々は、日常的に暮らす集落よりも、まず祭りの場としての「市(いち)」をつくった。それが、纏向遺跡である。そこは、川の中の扇状地として浮かび上がってきた土地だったらしい。したがって、川が氾濫すればたちまち水浸しになるところだったのだから、住宅地にはできない。しかし干上がっているときにはたくさんの人が集まってくる場所だった。
住居集落は水浸しになる心配のない山の中の方がよかったが、祭りの場は山に囲まれた景観を持った平地でなければならなかった。
初期の奈良盆地は、人が住めるところではなかったからこそ、どこからともなく人が集まってくる賑わいの生まれる場所だった。この賑わいこそが、奈良盆地がのちに大きな都市集落なってゆく契機となった体験だった。
顔見知りどうしで少々大きな集落をつくっても「賑わい」は生まれない。どこからともなく人が集まってきて出会いのときめきが起きるから「賑わい」になる。彼らはその体験を大切にしたし、その体験ともに、水が干上がるにつれて奈良盆地に大きな都市集落をつくっていった。
人間は、見知らぬ他者と出会ってときめいてゆくという「娼婦性」を持っている。そういう祭りの場では、女が見知らぬ男にセックスをやらせてあげるということが起きた。男にとっても女にとっても「出会いのときめき」の体験が生まれるところが、起源としての「市(いち)」であり「神社」だった。
まあセックスはしてもしなくてもいいことだが、「祝祭」としての「出会いのときめき」がなければ人は生きられない。「発見する」ことはもちろん、「知る」とか「認識する」ということ自体がすでに「出会いのときめき」という体験である。
人は、「出会いのときめき」によって生きてあることの「嘆き」を上書きしてゆく。小さな集落で暮らしていた縄文人は、その体験のときめきの方が大きな集団で暮らす安定よりもずっと大切なことだったのであり、それが日本的な先取の気性や美意識の基礎になっている。
縄文人が欲望達成の呪術に熱心な人々だったら、その時点でとっくに大きな集団としての共同体(国家)をつくっている。
「たま」や「みや」は「出会いのときめき」から生まれてきた言葉だったのであって、霊魂がどうのというような呪術性の言葉だったのではない。



日本列島の住民は、恨みや憎しみを持続するのが伝統的に下手である。それは、もともと他愛ないときめきを基礎にして文化を紡いできた民族だからだ。
生き物になぜ雌雄が発生したかということの不思議を考えるなら、恨みや憎しみが本性であるなどということはいえない。人類の他愛ないときめきの源流は、「雌雄の発生」にある。オスとメスが交配することの基礎は「他愛ないときめき」にあるのであって、べつに「種族維持の本能」などというものがあるのではない。精子卵子にも「種族維持の本能」があるのか。ばかばかしい。精子卵子はなぜくっつくのか。そういうことの科学的な説明はいろいろあろうが、それとはべつに「くっつく」という事実の不思議というものがある。その事実を基礎にしてわれわれの心の動きが成り立っているのだとしたら、恨みや憎しみが人間性の基礎だとはいえないし、他愛ないときめき以上のくっつくべき契機は考えられない。
本能があるのではない。「くっつく」という事実の不思議があるだけなのだ。
他愛ないときめきは、本能=霊魂ではない。人類は霊魂などという概念をつくりだしたから、本能という言葉で生き物の生態を語るようになった。まあ本能といっても霊魂といっても、同じ思考であり発想なのだ。
文明人が共有している「霊魂」という概念がどれほど生き物の自然や人間の自然を見誤らせていることか。霊魂なんか信じないといっても、文明人はすでに「霊魂という思考」をしてしまっている。
現代人の中に色濃く恨みや憎しみという心の動きがあるとすれば、それは霊魂という概念を持ってしまった歴史の無意識であって、べつに人間性の普遍(自然)というわけではない。そんな歴史は、人類700万年の歴史の中のたった1万年のことにすぎない。日本列島においては、たったの1500年の歴史にすぎない。
おそらく、自分の心の中の霊魂としてそういう感情の存在を感じているのだろう。あなたがそうした感情から逃れられないからといっても、それでもそれは人間性の普遍(自然)ではない。
他愛なくときめいてしまう「娼婦性」こそ人間の自然であり生き物の自然なのだ。
他愛ないときめきとは、中身は空っぽのきらきらした心の姿のこと、それを「たま」といい、その「娼婦性」が人と人の関係の基礎になっている。
まあセックスはそうした「お祭り」であって、霊魂と霊魂、本能と本能でくっついてゆくことではない。「お祭り」こそ雌雄の発生の根源のかたちなのだ。
生物史のどこかで、あるとき「お祭り」が起きたのだ。
生き物の雌雄を成り立たせているものは何かと問うなら、それはもう「娼婦性」というしかない。それはもう、たんぱく質の作用がどうとかこうとかという科学的な説明よりももっと根源的なことだ。そしてやまとことばの「たま」という言葉は、じつはそういう根源に届いている言葉なのだ。
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