なやましさとくるおしさ・神道と天皇(24)

生きてあることは、なやましくくるおしいことだ。
私はあなたの奴隷だけれど、私の心はあなたの思う通りになんかならない……神に対してそういいたい気分がある。私は心だけの存在で、体の中身なんかぜんぶあなたにくれてやる……そういいたい気分もある。もっとも、こんなくたびれ果てた中身なんか、神だってほしくはないだろう。神は、人の体の生老病死に関わるつもりなんかない。人の体は、おのずからなって、おのずから消えてゆくだけだ。べつに、神につくってもらったわけではないし、大切なものでもない。
馬を水辺に連れてゆくことはできるが、水を飲ませることはできない……これはイギリスの諺らしいが、自分の心が神に支配されているだなんて、どうしてそんなふうに思うことができるのだろう。そんなご立派な心なんぞ、持ち合わせておりません。こんな、どうしようもなく愚かでだらしない心なんか、神に支配していただいてもう少しましなものにならないかとも思うのだけれど、どうやら神は、知ったことではないらしい。
神の存在を信じることができるほど、立派な命も心も持ちあわせておりません。こんなできそこないの命や心なんか、神の作品であるはずがありません。
この生の愚劣さを思うなといわれたら、苦痛以外の何ものでもないし、それこそが僕の中にもいくばくかの正直さが残されていることの証しだろう。
もしも神がこの世界をつくったのなら、僕はこの世界にいてはいけない存在だ。申し訳ないけど、愚劣なこの僕の存在は、神の存在証明にはならない。
だが逆にいえば、僕が自分はこの世界にいてはいけない存在だと思うことは、神の存在証明になっているのだろうか。神はきっと、僕をこの世界から追放しようとなんかしていないだろう。僕が勝手に、「神に申し訳ない」と思っているだけだ。
神は僕を追放しようとしていなくても、僕を追放したがっている人間はたくさんいるのかもしれない。なぜなら僕は、彼らのことをどうしようもなく醜く気味悪い存在だと思っているからだ。そして、彼らに「お前なんかこの世界にいる資格はない、出てゆけ」といわれたら、反論なんかできない。ほとんどもう、「その通りです」という気分になってしまう。
神とともに正しく生きている人たちほど気味悪い人たちもいない。
神のことを思うと、僕の居場所はもう、どこにもない。というか、神の存在なんかよくわからないが、この世に神という概念が存在することは、気味わるいくらいはっきりと感じる。
僕は、「創造主」としての神をうまくイメージできないことによって、かろうじて生きている。ほんとにそんな神がいるのなら、怖くて生きていられない。ただでさえ、うしろめたさいっぱいで生きているのだから。

ここまで検討してきた古事記の物語は、「おのごろ嶋」の前ふりのあと、「イザナギイザナミ」がセックスをして日本列島を生み出すという話になってゆく。ここでのもっとも重要なテーマは、セックスをはじめるときは男が先にアプローチをして女が応じるというかたちでなければならない、ということにある。古代人においては、このことが日本列島の歴史の運命を決定している、というくらいに重要な問題として考えていたらしい。
なぜ、そんなにも大事なのか。

天つ神から「国生み」を命じられたイザナギイザナミの神は、そのときまず女のイザナミが「あなにやし、ゑおとこを」といい、次にイザナギが「あなにやし、ゑおとめを」といって「国生み」のためのセックスをはじめた。すると、できそこないの小さな島しか生まれなかった。そこで天つ神にお伺いをたてに行けば、天つ神もよくわからなかったが占いをたてたところ、男と女の順序が逆だったからいけいない、という結果が出た。というわけで、男のイザナギの方から声をかけるというかたちでやり直せば、たちまち日本列島が生まれていった。


要約すれば以上のようなことが語られているわけだが、そんな話にするということは、そのころそういう時代の風潮があったということだろうか。
男と女のどちらが早く性に目覚めるかといえば女のほうが先で、男は女にリードされてセックスの初体験をする。それは、けっして自然なことではない。それでは、男の「やりたくてたまらない」という衝動が育たない。だから日本列島では、早い段階から男女を別々にし、女は家の中にいて男が女の家を訪ねてゆくという習俗になっていった。これが「ツマドイ婚」で、縄文時代からすでにそのようなかたちの社会になっていた。
女が男を選ぶ、というかたちにすると、セックスの機会がどうしても限られた男に集中してしまうし、その男たちだって「やりたくてたまらない」という衝動が育たない。男の性の目覚めを早め、「やりたくてたまらない」という衝動が育つためには、早い段階から男だけの集団で育ってゆくのがいい。まあそれが「若衆宿」という日本列島の伝統で、縄文時代だって、思春期になった男の子は母親の家を出て旅をする男たちの小集団に参加してゆく、という習俗があった。そうやって一生を旅の中で過ごすという男たちがたくさんいた。
彼らは、「やりたくてたまらない」という衝動を抱えて旅をしていた。そうして小集落をいとなんで家の中にいる女たちも、そのような男たちの訪れを待ちながら暮らしていた。これが日本列島の男と女の関係の原型で、そのころ大和朝廷による国家制度が出来上がりつつある時代の情況とともに、そうした関係性が崩れはじめていたのだろうか。
そのころ、男たちも奈良盆地に定住して暮らすようになっていた。そうなると、家を持っている女のほうがどうしても立場が上になり、大人も思春期の若者たちも、女がリードしてセックスをするというという風潮になってくる。
そうなると、男の「やりたくてたまらない」という衝動が停滞・衰弱してくるし、女の「やらせてあげる」という無意識の「諦念=無常感」もあいまいになってくる。そしてそういう関係になってしまえば、自分たちの生の根拠になっている「祭り」も以前ほど盛り上がらなくなってくる。つまり、「ときめく」心が減衰してくる。世界が輝いて立ちあらわれなくなってくる。人と人の関係もぎくしゃくしてくる。
奈良盆地のそこには日本中から人が集まってきて人口はどんどん増えてくるし、あちこちに大きな前方後円墳をつくってまわりの湿地帯を干拓して田や畑を広げていったり、いよいよ「国づくり」が本格化している時代だった。だからこそ、そのダイナミズムと混乱がよりあからさまにあらわれてきている時代だった。
そのダイナミズムのままに進むのなら、人々は、その混乱や停滞・衰弱から解き放たれる神社での「祭り」の盛り上がりを手放すわけにはいかなかった。「祭り」の原点は、「男と女の関係」にある。そしてそれは、「国づくり」の原点でもある。
古事記は、ようするに「国づくり」の物語であり、そのためには男と女の関係を自然な状態に解き放つ必要がある、と人々は考えた。セックスをするときにどちらが先にアプローチをかけるかというのは大問題であり、それこそが「国づくり」のダイナミズムを左右するのだ、と考えた。そうやって古事記が生まれ、神道が生まれてきた。
とにかく、そのころの奈良盆地の人々にとっては大問題だったのだ。
なぜなら彼らはまだ「国家」というものも「宗教」というものもよく知らなかったわけで、彼らの「国づくり」はそこから考えはじめるしかなかった。
そしてこのような状況は、現在のこの国にも当てはまる。戦後の「国づくり」の本格化と反比例して男と女の関係が停滞・衰弱し、「少子化」とか「非婚化」とか中高年の「インポテンツ」というような問題が顕在化してきている。
まあその問題の解決を現在のわれわれは、政治とか経済とか宗教(あるいは思想)の問題として考えているわけだが、それ以前の男と女の関係の問題を置き去りにしてしまってもいいというわけにもいかない、ということにも気づきはじめているのかいないのか。
状況は、いぜんとして混沌としていて、僕にはわからない。
ともあれ、「右傾化」がいいとか悪いとかといっても、神道とは何かという問題を考えなくてもいいというわけにはいかない、と僕には思える。
愚にもつかない神道論をわかったような顔をして吹聴しまくっている人間は少なからずいるのだが、そういう状況もまた、なんだか鬱陶しいというかうんざりさせられる。
ともあれ、江戸時代の本居宣長神道論だって、ずいぶんいいかげんなのだ。

男と女の出会いにおいては、男がまずアプローチしてゆき、女がそれに応じる、というかたちになるのが、人間だけでなく生きもの全般の普遍的な生態に違いない。鳥などは、ときには人間の男よりももっと熱心に求愛行動をしていたりする。
人間の男ほど「やりたくてたまらない」という衝動を持った生きものもそうはいないのだろうが、あんがい鳥のほうがもっと精神的だったりする。鳥のオスは、しっかりと出産育児のいとなみに参加してゆく。
人間の場合、そういうことに無関心な男は多い。
それに、女が積極的であると、男の「やりたくてたまらない」という衝動が刺激されない。
西洋では、恋人や夫婦になると女のほうがセックスに積極的になってくることも多いのだとか。だから、フェラチオの文化が発達した。しかし、フェラチオをしてもらわないとうまく勃起できないというのは、はたして健康的なことだろうか。
それに対して女があまり積極的ではない日本列島では、男の「やりたくてたまらない」という衝動が豊かにはたらく文化を育ててきた。だから、日本人の男の勃起したペニスは硬い、ともいわれている。フェラチオをしてもらわなくても勃起する。女がかんたんに寄ってこない風土が、ペニスの勃起の勢いを育ててきた。
「ツマドイ婚」は、縄文時代からはじまっていた。家の中にいて姿の見えない相手をかき口説く。これは、神社で神に手を合わせるのと同じで、日本人はそういう関係性の文化風土で歴史を歩んできた。
それは、一方的な関係の文化で、ときめかれているという満足などない。たがいに一方的なときめきを向け合っているだけ。女がやらせてくれるのを当てにしないで、ただもう一方的に「やりたくてたまらない」という衝動を募らせてゆく。そして女は、「やりたい」という衝動を持っているわけではないが、「やらせてあげてもいい」という気になってゆく。それが、この国の伝統風土としての男と女の関係性なのだ。
西洋や中東やインドに比べて、この国でのレイプはあまり多くない。もしかしたら彼らよりももっと強く「やりたくてたまらない」という衝動を無意識の底に持っているのに、それでも「セックスは女にやらせてもらうものだ」という意識が浸透している文化風土になっているからだろう。
レイプは、性衝動の強さというより、「支配欲」の強さというか「サディズム」の問題なのだ。レイプというかたちでしかペニスが勃起しない、という男もいる。ただ「やりたくてたまらない」だけなら、フーゾクに駆け込めばいいのだし、オナニーですませることもできるわけで、何もわざわざそのようなややこしいことをする必要もない。
日本列島には「やらせてもらう」という文化がある。それは女には性欲などない、という前提の上に立った文化であり、あろうとなかろうととにかく「ない」ということにして一方的に「やりたくてたまらない」という衝動を募らせてゆくのだし、そういう前提を持っていたほうがその衝動はよりダイナミックになる。
それに対してレイプは、女にも性欲があるという前提を持っており、そうやって自己の行為を正当化している。女なんてさかりの付いたメス犬だ、と思えば、レイプしたくもなるに違いない。また、女に性欲があると思えば、自分が性欲を持つ必要もない。まあここでいう男の性衝動は本能的な無意識のはたらきのことであり、表層の意識で「やりたくてたまらない」と思うのは、たんなる「サディズム」や、人に認められたいとかちやほやされたいというたんなる「自己愛=自己承認欲求」である場合も多い。自分は女から性欲を向けられるような男であるはずだとかありたいという自意識が、レイプに向かわせる。
女を抑圧しているイスラム教徒のほうが、われわれよりもずっと女にも性欲があると思っている。あると思っているから、抑圧しなければならなくなる。
まあこの国で女にも性欲があると思っているのは、よほどもてない男かよほど自己愛の強い男かよほど女に恨みがあるか、おそらくそんなところだろう。
話は横道にそれてしまったが、何はともあれ古事記を生み出した古代人は、女があとから声をかけるということは、「国づくり」の命運を左右する大問題だと考えたということだ。
それは、教育勅語のようなたんなる「道徳」の問題などではなく、生きものとしての根源の問題でもあり、男=オスとしての「やりたくてたまらない」という衝動の問題であり、女=メスとしての「やらせてあげる」という「諦念=無常感)の問題でもあるわけで、古代人のその無意識の直感はおそらくそういう位相に届いていた。彼らは、人として、宗教や国家支配を受け入れつつ、それにまるごと我が身を投げ入れてしまうわけにはいかなかった。そうやって古事記が生まれ神道が生まれてきたのだし、それが天皇を神として祀り上げてゆくことでもあった。おそらくそのとき天皇は、彼らの心が宗教や国家支配から解き放たれるためのよりどころだった。
天皇は、その本質において、非宗教的非国家支配的存在であり、そんな天皇を宗教的国家支配的存在として語っているところに古事記という物語のなやましさとくるおしさがある。

ともあれイザナギイザナミは、いちいち検討していたらきりがないくらいたくさんの神を生み出した。そしてそのとき日本列島を生み出すことはそのまま神を生み出すことだったのであり、本州や四国・九州などの「大八嶋」だけでなく、対馬佐渡の島々にいたるまで、すべて神の名がつけられている。
この場合の「生み出す」ということの解釈も少々ややこしい。それぞれに神の名がついているということは、それらの島々が生まれてくる「きっかけ」として神が生み出されたのであり、神はそれらの島々の「実体」ではなく「姿」として宿っているだけだ、ということになる。「実体」は、その「きっかけ」によって「おのずからなった」のだ。
本居宣長は、「実体」として「人の子を産むように産んだ」といっており、これを疑うのは「なまさかしらなる漢意(からごころ)であり、神の御しわざの奇(くし)く霊(あやし)くして測りがたきを知らざるものなれば、論(あげつら)ふまでもあらず」といっているのだが、それだったらキリスト教などの一神教が「神がこの世界をつくった」といっているのと同じであり、彼こそ古事記における「神の御しわざの奇(くし)く霊(あやし)くして測りがたき」を知らないのではないかといいたくなってしまう。
ここでは、生まれた四国のことをこう記述している。

この嶋は身一つにして、面(おもて)四つあり、面ごとに名あり。かれ伊予国(いよのくに)をエヒメといひ、讃岐国(さぬきのくに)をイヒヨリヒコといひ、粟国(あはのくに)をオホゲツヒメといひ、土左国(とさのくに)をタケヨリワケといふ。


天つ神は、イザナギイザナミに、この漂える国を「修理固成」と命じた。この「修理固成」の「修理」を、本居宣長は「つくり」と読み、現代の研究者は「おさめ」と読んだりしているわけだが、漢字の音声そのままに「すり」と読むこともできる。おそらくそれがいちばん自然な読み方で、「つくり」とか「おさめ」と読ませたいのなら、もっと別の表記の仕方があるに違いない。「すりかためなせ」……漢字表記の古事記はもう、後世のものたちがそれぞれ勝手な読み方をしてしまう。それはもう、しょうがないことだ。
「すりかためる」とは、「かたちのあるものにする」ということ。「すり」は、「擦る」「する」。「かた」は、「固い」という意味だけでなく「かたち(形・型)という意味もある。
天つ神は、「固めよ」と命じたのではなく、「かたちのあるものにせよ」と命じた、のかもしれない。日本列島の神の仕事は、「実体をつくる」ことではなく、「姿を現出させる」ことにある。もちろん「姿」は「実体」をともなっているのだが、「実体」はあくまで「おのずからなる」のだ。まあこれだって勝手な読み方に違いないのだが、「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」の登場以来の神の命名の仕方を考えれば、作者はそのように神をイメージしているとしか思えない。
ともあれ国の名と神の名が違うということは、国の「実体」と国の「姿」は違うということで、神は国の「姿」をつくったのであって「実体」をつくったのではない、ということを意味する。
「実体」は、「おのずからなった」のだ。
「面(おもて)」とは、「姿」ということだろう。その「面=姿」に神の名がつけられている。「実体」はひとかたまりなのだから、四つに分けることなんかできない。「姿」の違いが、神の名になっている。神は「姿」なのだ。四つの神の出現が「きっかけ」になって四国が生まれ、それぞれの「姿」の違いになった。神は「姿」に宿り、「姿」が生まれる「きっかけ」になっているが、「実体」そのものは「おのずからなる」のだ。
女は「子を産む」が、子の「実体」は「おのずからなる」だけで、「女がつくった」とはいえない。折り紙や粘土細工のように自分の「手=意図」で子をつくることなんかできない。女の体を借りて子が「おのずからなる」だけだ。女の体がつくったといっても、女の体そのものが女の「手=意図」から離れて勝手に存在しているだけだろう。女の「自意識=作為」は、女の「姿」にあらわれているだけだ。
世界の「実体」はおのずからなる……古事記の作者は、どんなに神のことを語っても、この世界観をけっして手放さなかった。もう、無意識のうちに、そんなふうに語ってしまう。
日本列島の住民は、「創造主」としての神なんか知らない。そこのところで、「神道オタク」である本居宣長の神に対する解釈は、単純で幼稚すぎる。「神の御しわざの奇(くし)く霊(あやし)くして測りがたき」を知らなすぎる。すなわち、「神を知らない古代人が神について考えるほかないことのなやましさとくるおしさ」を知らなすぎる。