男の世話をする・ここだけの女性論14


たとえば、一人暮らしの男の部屋に行って掃除をしてあげるとか、そういう「女の細やかなやさしさ」とやらを示す方法をあれこれ伝授している女性論もあります。
やさしさなんですかね。ただの点数稼ぎじゃないですか。もてない女ほどそういうことをまめにする、などという人もいる。そうやって男をたぶらかしているだけのことだ、と。
まあ、そんな計算高い女にたぶらかされる男はたまったものじゃない。
男の世話をしちゃいけないというわけではないが、そのときその場の即興(なりゆき)において、何をしてやりたくなるか、という問題があるだけでしょう。
男がよろこぶことなど当てにせず、自分がせずにいられないことをするのが日本列島の伝統です。
せずにいられないこと、ついそうしてしまうこととして、日本列島には「女が男の世話をする」という文化の伝統がある。それを利用しながら点数稼ぎをして男をたぶらかそうなんて、それ自体文化の荒廃だといえる。
それで男をよろこばせるということは、男がよろこぶことしかしない、ということでもあります。日本列島の「おもてなし=サービス」の文化は、相手がよろこぼうとよろこぶまいと、相手が「してもらった」とも気付かないところでもしてゆくことによって洗練してきた。
せずにいられないことをしているだけであって、べつによろこばせるためにしているんじゃない。つまり「無償の行為」であること、これが日本列島の「世話をする」という文化の伝統です。
そういう日本的な男と女の関係というのはあるにせよ、それは今どきの「いい女」の抜け目のない点数稼ぎとは違います。



ともあれ日本列島の女はもう、男の世話をするという振る舞いが無意識のうちに身についていて、それが一般的には男女の力関係の歴史のあらわれのように取られがちだが、古代以前は女が男の世話をしながら女がリードしてゆくというかたちだったはずです。女が家の主で、訪問者というか風来坊である男をもてなしサービスをするという関係だった。そういう関係は古代になってもまだ一部では続いていて、それが日本的な男女の関係の基礎になっていった。
日本の女はもう、当たり前のように場の世話をすることができる。居酒屋でコンパをすれば、ヤンキーみたいな娘でもごく自然にテーブルの上のことを世話したりしている。
芸者やホステスや旅館・料亭の女将のサービスが高度なのも、そういう伝統なのでしょう。彼女らは、ひとまず男や客の世話をするのが好きな人たちだといえる。それはもう、ちょっとしたしぐさや振る舞いにもあらわれる。
なぜその行為が好きになれるのか。好きでもない相手なのになぜ当たり前のようにしてあげられるのか。そういう身体化した歴史の無意識は、いったい何に根ざしているのか。
これが日本的な女の生態だといってしまえばかんたんだが、日本文化の根源を考えることは人類の原始性を考えることでもあります。その生態は、日本的という以前に、原始的なのです。



で、日本の女のこういう無意識的な振る舞いに、外国の男は大いに感激したりする。
違う文化なのだから気付かないまま見過ごされてもいいのに、ちゃんとわかってしまう。日本の男以上にわかってしまったりする。
彼らはきっと、そこに人間性の起源と究極のようなものを見ているのだと思います。ああ人間というのはもともとこういうものだったのだ、ということと、同時に何かとても洗練された文化も感じるのでしょう。
女だからというより、そこに人間性の基礎と究極のようなものを感じる。
男と女の出会いといっても、人はまず「人間」に気づいてゆくのであって、男や女に気づくのはそのあとのことです。
極端にいえば、裸になってはじめて「ああ女だ」と気づく。
もちろん相手は女(男)であるという前提を意識して出会うのだけれど、それを確認するのはあとになってからのことです。



では、日本の女の「世話をする」という振る舞いのどこに人間性の基礎があるのか。
結論から先にいえば、まあ人間は、他者に生きていてほしいと願う存在だからでしょう。「世話をする」とは、そういう他者を生かす振る舞いであり、心の動きなのでしょう。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、多くの身体能力を失って、自然界の猿としては「生きられない」存在になることだった。そこから、誰もが他者を生かそうとしていったことによって生き残ってきた。今でも、人間社会は基本的にはこのような構造になっているのではないでしょうか。基本的には、です。そこから紛れが生じていろいろ競争したり殺し合ったりというややこしいことにもなっているのだけれど、基本的にはそういうことのはずです。
人間は他者を生かそうとする衝動が強すぎるから、競争したり殺し合ったりということをしてしてしまう、ともいえる。
そして誰もが、心の底ではそのような人間性の自然というか普遍性をちゃんと知っているのですね。だから、日本の女のそうした「世話をする」という振る舞いに感激してしまう。
そのような習俗が希薄な国の人たちにもそれがわかってしまうというのは、そういうことなのでしょう。



人間の「世話をする」という振る舞いは、700万年前の直立二足歩行の起源のときから培われてきたものです。そのとき人間は弱い猿になってしまい、誰もがけんめいに他者を生かそうとしてゆくことによって、この地球で生き残ってきた。
女にはたぶん、自分は弱い猿だという自覚があるのでしょう。
「女心と秋の空」などというが、やたら体温の上下動が激しくて、それによって気分も左右されてしまう。そんなことを生まれたときからずっと続けて生きてきて、思春期がくれば、さらに大変なまいつきの体の受難と付き合っていかねばならなくなる。自分の体に対する鬱陶しさや無力感は、どうしても抱いてしまうでしょう。
女は、自分の体を持て余しているのでしょうね。生き物は体を動かそうとする存在だが、女の場合はその衝動を、男のように自分の身体能力を拡大しようとする方向にではなく、身体を処罰しようとする方向に向ける。
男の世話をすることであれ年寄りの介護をすることであれ、女にとっては自分の身体を処罰しつつ他者を生かそうとしてゆく行為なのでしょう。
体のことなんかさっぱり忘れてしまいたい。これは二本の足で立っている存在である人間なら、誰の中にもある願いでしょう。その願いが、人間の生きるいとなみのダイナミズムを生んでいる。
基本的に体を動かすことは、体の物性を忘れて体を「空間の輪郭」として扱ってゆく行為です。
女は、自分の体を処罰することによってその物性を忘れてゆく。



女の子のお人形さん遊びは、他者を生かそうとする衝動の芽生えなのでしょう。
まるでそれを生き物であるかのように扱っている。その時点ではまだその範疇でしか他者を生かそうとする振る舞いは発揮できないが、すでにその衝動は芽生えている。
他者が生きてあることを感じながら、自分が生きてあることを忘れている。その人形が生き物であるかのように、思い切り憑依してゆく。男の子だってそうだが、子供というのは、そうやって憑依してしまうくらい自分を忘れてしまおうとしている。
人間存在は、弱い猿だという自覚の上に成り立っている。子供こそ、もっとも人間的な存在なのです。
そして日本列島には女が男の世話をするという文化風土があるから、子供も自然にその振る舞いを身につけてゆく。
どうやら日本列島は、人間は弱い猿だという自覚が強くなる歴史風土があったらしい。
日本列島の女は、ことのほか生きてあることに対する嘆きが深い。社会的に不幸だというのではありません。生きてあることそれ自体を嘆いている。自殺願望というのではないが、死に対する親しみがあり、滅びてゆくということを美化する文化風土がある。
なんのかのといっても日本列島の文化は、女の主導によって生まれ育ってきたのです。
男の世話をすることは、根源的には人間の本性としての他者を生かそうとする行為であり、滅びてゆくこと身を浸してゆく体験なのだろうと思えます。
計算ずくで意図してやってもしょうがありません、「つい、そうしてしまう」という生態を多くの女性が持っている。そういう部分が、誰の中にもある。
「女はかくあらねばならない」というような問題は存在しない。しかし、自分は日本列島に生まれ育った女である、という問題はあるのではないかと思えます。




まあ、どのていどどのように男の世話をするのかというのは人それぞれだろうし、あんまりされたら鬱陶しいということもある。
人間は生きてあることの嘆きを持った存在であり、そこから他者を生かそうとする衝動が生まれてくる。男を世話するといっても、それはひとつの命に対する視線であって、男と女の関係も基本的には人と人の関係として成り立っている。
男と女になるのはセックスをするときだけだ、と思っているくらいでちょうどいい。そして、女がセックスをさせてあげるのもようするに「男を世話する」という行為だから、日本列島ではわりとかんたんにそういう関係になってしまうのでしょう。
かんたんに人と人の関係になってしまい、人と人の関係としてセックスしている。かんたんにセックスの関係になれるということは、かんたんに人と人の関係になれるということでもあります。おたがいに男と女であることはわかりきった前提であり、その前提を抱えていることの嘆きを共有しながら人と人としてセックスしてゆく。日本列島では、そういうことを「情交」といいます。日本列島では、娼婦だって「情交」のタッチを持っている。
たぶん外国の男は、その「情交」のタッチに感激する。



日本列島の女がそのように男を世話する振る舞いを本能的に持っているからといって、男に対する愛情が深いとはかぎりません。それは「つい、そうしてしまう」というだけのことで、愛情がどうのということではないし、男と女の権力関係を自覚しているのでもない。
それは、女が持っている生きてあることのかなしみといたたまれなさの問題なのです。
日本列島の女は、つねにそういう感慨とともに歴史を歩んできた。
それは、男に虐げられる歴史を歩んできたからではありません。虐げられてきたら、「つい、そうしてしまう」というようなサービスはできないはずです。いやいややってきたのではない。
そうやって世話をしながら男をリードしてきたから、その振る舞いが身体化していったのでしょう。
男に虐げられていない存在だだからこそ、勝手に人間の本性としての生きてあることに対するかなしみやいたたまれなさをどんどん深くしていった。
もしも現在のフェミニストたちのように「男に虐げられてきた」という意識を持てば、この社会にも生きてあることにもどんどん執着してゆくことになります。しかし、かつての日本列島の女には、そんな自覚はさらさらなかった。
たしかに江戸時代以降の女の社会的な身分が制限されてきたということはあるのかもしれない。それは、この国の女がもともとこの生にもこの社会にも政治にも興味がなかったからでしょう。
この国の女なんか、すでに片足を「非日常=死」の世界に突っ込んでしまっている存在だった。そういう存在はもう「世話をする」ということをしていないと、この世界にとどまっていられなかった。それは、男に虐げられている歴史ではなかった。むしろ男を半分置き去りにしてしまっていたのであり、そこから追いかけてくる男に手を差し延べていた。そうやって、男にセックスをさせてあげてきた。べつに、男のおもちゃになってきたのではない。
日本の男は、女から滅びてゆくことのカタルシスを学んできた。昔のこの国は、そうやって死んでゆくことをむやみに怖がらない社会をつくっていたのです。
そこには、とても非政治的で純粋な人と人の関係があった。
「女三界に家なし」というように、彼女らは、この生に対してもこの世界に対しても男に対しても、絆の意識は淡かった。しかし人間は、もともと絆の意識を淡くしながらそれを飛び越えて他愛なくときめき合ってゆく存在であり、そこから人間的で豊かな知性や感性が育ってきたのです。
その「世話をする」という振る舞いにはたぶん、人間性のもっともプリミティブで究極でもあるかたちが込められている。
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