ああ結婚・ここだけの女性論32


ある人が、こういっています。
「結婚することそれ自体に意義がある、男と女としてときめき合うことなどは二義的な問題にすぎない」、と。その人によれば、他者とは本質において不快な存在であり、その不快な他者と一緒に暮らす受難に耐えることが人間を成熟させるのだそうです。
そうでしょうか?
まあ、自己愛の強い人間にとっては、他者は不快な存在でしょう。そしてそうやって成熟した自分に満足してゆく、ということでしょうか。けっきょく自分のことしか考えていない。「受難に耐える」なんてずいぶん勝手な言い草で、他人なんか自分が成熟するための道具でしかないらしい。これもまた、いまどき流行りの「お得な人生」の追求のバリエーションなのでしょう。
ようするに女を結婚という社会制度の中に閉じ込めておきたいのですね。自分自身が社会制度(=日常)の外に出られない人間だから、そういう理屈で女を支配して閉じ込めておこうとする。男と女の関係になんかなりたくない。この人は、インポなのでしょうか。
閉じ込められた女はいい災難なのか、それとも「お得な人生」の日常を味わわせてもらって幸せなのか。幸せな女もいるだろうし、そんなのいやだ、退屈だ、といって不倫に走ったり逃げ出したりする女もいるでしょう。
男と女の関係になることをスルーして、何がなんでも結婚という社会制度の中に閉じ込めてしまおうとする。女の意識が非日常に向くことなんか許さないし、女のそういう感性や気配を追跡する能力もこの人にはない。社会制度の外(=非日常)に出て感じたり考えたりすることのできない人なのですね。



このように女を社会制度の中に閉じ込めておこうとすることと、今どきのフェミニストの女たちが社会の中で男と対等のポジションを得て「お得な人生」を生きようとしているのとは、じつは同じなのではないでしょうか。
どちらも、社会制度という「日常」に居座り、人間性としての「非日常」に対する視線を喪失している。
まあ、男としても女としてもブサイクですよ。
とにかく、女を支配するのではなく、女の「非日常の感性や気配」を追跡してゆくのが日本列島の男の歴史意識であり、人類史の普遍でもあるはずです。
数千年前に共同体(国家)ができて、女を支配し社会制度の中に閉じ込めておこうとする動きが生まれてきた。それでも、女が本性的に非日常的な存在であることは変わらないし、日本列島の男たちはどこよりも女のそうした本性(非日常性)を追跡して歴史を歩んできたのです。
「結婚することそれ自体に意義がある」などといっても、主婦がどんどん不倫に走っている世の中ですからね。そんな理屈が日本人の女に説得力を持つはずがない。いくら自分が女に忌み嫌われて生きてきたからといって、そんな理屈で女に復讐しようとしても無理があります。
主婦たちは、こういうと思いますよ。結婚していようといまいと、男と女の関係があってこその世の中でしょう、と。
結婚したら男と女の関係は捨てろなどといわれても、そうはいかない。
われわれはすでに男と女の関係を生きている存在であり、男と女の関係それ自体が人と人の関係でもある。
人と人の関係なんて、ときめきあってこそなんぼのものでしょう。関係そのものに意義があるのではない。だから、人妻が不倫に走るのです。いいとか悪いというこという以前に、人間存在は男と女の関係の上に成り立っている、ということがあらわれている現象なのでしょう。



そりゃあ、主婦の不倫を認めてしまったら、世の夫たちの立つ瀬は無いでしょう。しかし男たちだって、妻とセックスをしようとするまいと、男と女の関係に立つセンスを失ってしまっているということにも一因があるのでしょう。
必ずしもセックスが大切なんじゃない、男と女の関係がないということは、いかにも不自然です。男と女の関係とは、男が女の「非日常的な感性や気配」を追跡するということです。どんな些細なことでもいいのだが、女は「非日常のお祭り」がないと退屈してくる。まあ、手っ取り早いのはセックスだし、旅行や習い事の趣味でもいいし、ボランティア活動でもいい。日本中の主婦が今、夫とのあいだで失った「非日常のお祭り」を渇望している。
「結婚すること自体に意義がある」などというへ理屈がいつまでも通用するはずない。若いころにそういう幻想が成り立つのは、まだ男と女の関係が残っているからです。
男は、どんどん社会制度の渦中に入ってゆく。しかし女も同じように社会制度の枠の中に閉じ込めておくのはけっしてかんたんではないし、それはとても不自然なことです。
アラブ社会のようなような制度になっていたら可能かもしれないが、日本列島の男と女の関係の伝統は、男が女を支配することではなく、男が女の非日常性を追跡することにあります。
日本列島の女は、非日常の場に立って男の世話をしている。そして男は、世話を受けながら、その非日常性を追跡している。そいう関係だったのでしょう。非日常の場に立っているから、男に何がして欲しいかなど聞かない。自分から察して世話をしてゆく。そして、すでに非日常の場に立ってしまっているから、男にエスコートしてもらわなくても平気である。男を世話しながらも、男になどたよっていない。そうして、男に追跡されている。まあ俗な言葉でいえば、男に甘えられている、ということでしょうか。歴史的には、何かそのような関係になっていたのでしょうね。
フーゾクにいってみればよくわかります。ソープランドではとてもきめ細かに男のサービスをするが、けっして男に支配されていない。そうやって男をリードしている。気のきいた旅館の女将と客の関係だって同じで、これが、日本列島の男と女の関係の伝統なのでしょう。



西洋では、レディファーストの習俗がある。いつごろからこんな関係になってきたのか知らないが、西洋の女はヒステリーが強いから、男がそれを宥めてやろうとしているのでしょうか。男が女をエスコートする。
日本列島の男はほとんどしないで、女が男の世話をする。
どちらにしても、世話をするほうがリードしているのです。お母さんと赤ん坊の関係だってそうでしょう。
男は、社会制度という「現実=日常」の中にいる存在です。とすれば、西洋の男が女をエスコートするのは、女を支配し「現実=日常」の中に閉じ込めておくことにもなっているのでしょう。
それは、宗教の問題でしょうか。宗教は、けっして「非日常」の装置ではない。神も天国も「現実=日常」の無限遠点に存在します。人間の意識を「現実=日常」に染めてしまう装置です。この社会で生きられないのなら、宗教というもうひとつの「現実=日常」を生きればいい。そういう装置として生まれてきたのです。だから、社会=共同体は、やがて宗教と結託してゆく。
西洋のフェミニズムは男社会を非難するが、宗教も非難するべきなのでしょうね。社会の構造そのものに、女が非日常を生きることを難しくさせる装置がはたらいている。だから、セックスをマメにしているわりには、日本人の女ほど深く豊かにセックスを体験できないし、男たちは日本人の男ほど硬く勃起できない。
たしかに西洋は、男が女をエスコートしながら男が女をリードしている世の中なのでしょう。それは、ほんらいの男と女の関係ではなく、男も女も意識が「現実=日常」につなぎとめられてしまう。
いや、それでも西洋だって、女の意識は社会から離れて非日常の世界に向いてしまっているし、男だってそんなの女の感性と気配を追跡しているという関係ははたらいているはずですけどね。人間なのだから、男と女のあいだはどうしたってそのような関係になる要素を持っているはずです。
日本列島では、女が男をリードしてゆく装置として、女が男の世話をしているのです。
そうやって女の非日常性にリードされながら、「あはれ」や「はかなし」や「無常」という美意識や世界観が紡がれてきた。
西洋のセックスの形態は豊富だが、セックスの中味は日本列島のほうが充実している。
日本列島には宗教が機能していないから、日本列島の女は主婦が不倫をしてはいけないとは思っていない。そしてその気分は西洋の女にだってあるはずだが、社会の構造というか宗教が許してくれない。つまり、女の意識が社会や男をリードするような構造になっていない。それは、不自然なことなのでしょう。人類700万年の歴史は、女の非日常性にリードされながら動いてきた。



女を支配・教育することなんか、できるはずがありません。なぜなら女は、男を置き去りにして非日常の世界に入ってしまっている存在だからです。男の手が届く存在ではない。男にできるのは、女を追跡することだけです。
一緒に暮らしていても、すでに男を置き去りにして非日常の世界に入ってしまっている。女は、そこに立って男の世話をしている。
この社会の制度は、女を「現実=日常」に閉じ込めておこうとする。「結婚することそれ自体に意義ががある」などいうのも、そういう共同体の制度にもたれかかった言い草です。「不快な他者」ということだって、女に置き去りにされているという自覚がないのでしょう。
女を支配して「現実=日常」に閉じ込めておく快感というのがあるのでしょうかね。しかし、バブル経済がはじけてしまった今となってはもう、そういうことも不可能になって、主婦が平気で不倫に走るようになってきた。
いや、経済的に満足させてやっていても、不倫に走られてしまう。女を「現実=日常」に閉じ込めておくことは不可能だ、ということが露出してきているのでしょうか。この国には、女を囲い込むための宗教もレディファーストの習慣もない。ほったらかしにして「現実=日常」に閉じこもっていろといっても、もともとそれが可能な男と女の関係の歴史を歩んできていいないし、そういう社会の構造になっていない。
結婚することそれ自体の意義などというものはない。結婚してもなお男と女の関係であり続けることによって結婚が成り立っているのでしょう。夫と妻が男と女の関係でなくなったら、妻は不倫に走る。豊かな結婚生活を送れる時代になって、かえってそれを思い知らされている。



けっきょくこの社会の人と人の関係は、男と女の関係が基礎になっている。
人と人は、たがいに「非日常」の場に立って向き合っている。それが男と女の関係であり、この国は、女のそうした非日常性を封殺して「現実=日常」に閉じ込めてしまう歴史を持っていないし、すでにもうそういう社会の構造になってしまっている。
日本列島は、結婚することそれ自体に意義がある社会ではないのです。それが、この国の歴史意識です。だから、結婚しない若者が増えてしまった。結婚するこ自体に意義があってそれが「現実=日常」に閉じ込められてしまうことであるのなら、誰が結婚などするものか。
この生やこの世界の「現実=日常」が鬱陶しくていやだから結婚生活に入ってゆくのであって、べつに結婚することそれ自体に意義を感じるからではない。
日本列島の女は、歴史的に、非日常の場に立って男を世話しながら男を置き去りにし男をリードしてゆくという作法で結婚をしてきた。男の世話をすることは、自分がイニシアティブをとることであり、非日常の場に立つことだったのです。「現実=日常」に置かれてある自分を処罰して非日常の場に立つ、それが女にとっての結婚し子を生み育てるということだった。
いつまでも独身でいることは、いつまでも「現実=日常」に閉じ込められているような居心地の悪さというか落ち着かなさがある。現在の婚活をする大人の男女は、そういうことに気づかされてきている。とくに四十歳前後の独身女たちは、そういう落ち着かなさを身にしみて感じているのでしょう。
不景気な世の中になったから男に寄生しながら楽をして生きてゆきたいというような計算もあったりするのかもしれないが、それ以前に、生きてあることそれ自体に対する落ち着かなさがあるのでしょう。
人間の心は、避けがたく「非日常」に向いてしまう。とくに日本列島は、この世界を無限遠点まで「現実=日常」一色に染めてしまう「宗教という制度」が機能していないから、心はつい「非日常」を見てしまうし、それが人間性の自然です。
人と人は、たがいに「非日常」の場に立って向き合っている。その絶対的な隔絶の裂け目を飛び越えてときめき合ってゆく。
結婚することそれ自体になんの意義もないにしても、人は結婚してしまうような生態を持っているのでしょう。なんのかのといっても誰もが人と人の関係の中に置かれて生きてあるわけだし、人間の関係性の原点は「自分を消して他者を生かそうとする」ことにあり、そこから結婚して子を産み育てるということがイメージされてゆくのでしょう。
結婚することは、「不快な他者に耐える」というようないとなみではない。何はともあれ「他者を生かそうとする」いとなみです。その衝動が発揮できないのなら、女は不倫に走ってゆく。
人間なら誰にだって「自分を消して他者を生かそうとする」衝動を持っている。それはつまり、いつまでもこの生やこの世界の「現実=日常」に閉じ込められていたくない、ということです。「現実=日常」の中に置かれた自分を消すことは、他者を生かそうとすることによって体験される。大人になれば、だんだんそのようなことがわかってくる。いつの時代も日本列島の女たちはそのようにして結婚してきたのであり、原初の人類もまた、そのようにして「人間」になったのです。その非日常性によって、地球の隅々まで拡散してゆき、知性や感性を発展進化させてきたのです。
その「非日常性」を、世界中のすべての女が見ている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ