艱難辛苦に憑依する・ここだけの女性論31


数年前の大阪で、かなりショッキングな育児放棄(ネグレクト)事件がありました。
小さな子供二人を抱えた若いフーゾク嬢がホストクラブ通いなどで遊び呆けたあげくに子供をマンションの部屋に閉じ込めたままほったらかしにして死なせてしまう、という事件です。
で、ネット右翼をはじめとする多くの男たちが「鬼女」などと評していたけど、一部には彼女に同情する声もありました。
やはり彼女をそこまで追いつめた背景もあったわけで、若い無名の女がひとりで二人の小さな子を育ててゆくのはほとんど不可能だろう、離婚した男や、彼女を育てた父親の知らんぷりや、行政の対応のまずさにだって責任はあるだろう、という感想もとうぜん出てきます。
普通の主婦だって、「私ならそんなことは絶対にしない」という正義を振りかざす意見がある一方で、「子供を育てることの大変さを知っているものならそんなことは言えない、何もかも放り出してしまいたいときは誰にだってある」という感想も少なからずありました。
つまり、多くの男たちは、女たちには女の母性として「私なら絶対にそんなことはしない」という共感・合意があるはずだ、と思ったわけだが、じっさいには女たちのほうが「とても悲しいことだけどかんたんに犯人を責めることはできない」という感想を持ったのでした。
多くの男たちは女の母性に対す幻想を共有しながら犯人の女を糾弾し、女たちはただただ悲しみ途方に暮れてしまった。
男たちが希望的観測で幻想するほど、女自身はそんな「母性」をはっきり自覚しているわけではないのですよね。
まあ、「女の母性」なんて、ただの制度的な幻想ですよ。
世界には、子供が泣き叫ぼうとほったらかしにしている文化だって、いくらでもある。お母さんがおっぱいをあげるのは、根源的というか生物学的には、オッパイが張ってうっとうしいからであって、そこにしゃらくさい「母性愛」などという正義などくっつけてもしょうがない、と僕は思っています。



制度的には、善良な市民どうしのそうした母性愛への共感があるわけだが、一方では、そんな制度性を前提にして「ネグレクトはいけない」という倫理を押し付けられたらたまらない、という気分だって女たちにはあった。
もちろん、子供を生かそうとする衝動はありますよ。犯人の若い女だって、ある時期まではその気持ちに邁進していたのです。それが離婚したりとかいろいろあって、そのなりゆきに翻弄されてゆくうちに、「何もかもどうでもいい」という気になっていった。
女は、根源において「命」というものに対する幻滅を持っている。
子供を育てるも育てないも、自分の人生のなりゆきの問題であり、べつに「命の尊厳」を自覚しているからではない。人間の社会では、育てようとする気になれない、というなりゆきもありますよ。われわれは、そういうなりゆきが起きてくる可能性(=運命)を負って人間社会をいとなんでいるのだということを、あの事件が教えてくれています。
いや、猿や猫の社会でも、育児放棄(ネグレクト)はいくらでも起きている。こんなややこしい人間社会なら、なおさらのことでしょう。
女は命というものに対する幻滅を本能的に抱えている存在であり、たとえ母であろうと「命の尊厳」というテーマなど負っていない。子供との関係に耽溺することもあれば、その関係から追いつめられることもある。
そんなもの、その人が背負ってしまった人生のなりゆきなんだからなんともいいようがない、という部分はありますよ。でもやっぱりねえ、努力すれば夢はかなうとか幸せになれると合唱している世の中では、なりゆきに流されてしまう人間はさげすまれ裁かれないといけないのですよね。



流れる星は生きている」という、終戦後の満州から子供三人を抱えて艱難辛苦の果てに引き上げてきた体験を持つ女性の自伝小説があり、それをを書いた「藤原てい」という作家と犯人の女との差が語られたこともありました。
この小説は戦後の大ベストセラーになり、三益愛子主演で映画化もされました。
極限状況の母の愛、六歳と三歳の子と、もうひとりの一番下の生後一ヶ月の子はリュックサックに詰め、飢えと、いつソ連軍に捕まるかもしれないという恐怖に震えながらひたすら歩き続けた。そうして、リュックの中のこの子がもし死んでくれたら残りの二人の子が生き延びる道が開ける、と思いつつ、一日一日「まだ生きている」と確認していた。半分は死んでくれたらいいのにと思いながら、他の子の食料を削ってでも毎日なんとか大豆の煮汁などでミルクを作ったりして飲ませながら、一年かけて朝鮮半島を縦断してやっと日本にたどり着いた……という話です。
「子供を生かそうとする厳粛で残酷な鬼気迫る母性」というようなことがいわれたりしました。
まあそういうことなのだろうけど、僕は戦後生まれだから、子供をほったらかしにしてホストクラブ通いすることだって、母性のうちだろうと思っています。
僕には、藤原ていと大阪のあの母親との、母親としてとか人間としてとかというような「差」を言い立てて満足してゆくような趣味はありません。
大阪の母親のしたことは愚かかもしれないが、「残酷」だとは思えない。当事者のお母さんはたっぷり後悔すればいいけど、第三者からすれば、中世や江戸時代の農民が生まれた子を間引きすること以上でも以下でもない、と思う。僕は、それをよう責めない。よう裁かない。そんなことは、人間の歴史のいとなみのひとつだろう。おそらくアマゾンの原住民も縄文人も、平気な顔をして堕胎していたし、ネアンデルタール人は、産んだ子のほとんどが寒さで死んでしまう状況で次々に産み続けていたのです。
そうやって死んでいった歴史上の無数の子供たちに対して、われわれは、いったいどんな感想を持ち、どんな態度をとればいいのか。もう「汝のさがのつたなさを嘆け」といって合掌瞑目する以外に、どんな思いよう、どんな態度のとりようがあるでしょうか。
そのころ、事件のあったマンションの前には、祭壇が作られ、多くの人の花束などのささげものが山のように置かれていました。



女は、みずからの命に幻滅している。それを否定することはできない。否定するべきではない。みずからの命に幻滅して消えようとしているからこそ、他者を生かそうとする。他者を生かし、他者の存在をありありと感じることによって、みずからの存在を忘れ消すことができる。
女が他者を生かそうとすることは、そういう自己処罰です。人間はみずからの命に幻滅し自己処罰してゆく存在だからこそ、他者を生かそうとする。妙な正義やヒューマニズムでする人助けより、自己処罰でする他者を生かそうとする行為のほうがずっとすごいのです。藤原ていの体験は、まさにそのようなことを物語っている。自分の命なんかどうでもよかった。まずそれがなければできない行為であり、自分の命を処罰し処分してゆく行為として子供たちをけんめいに生かそうとしていった。
だから、日本に帰り着いたときはもう、「これでさっぱりと死んでゆける」という気分だけで、生きようとする希望なんか何も湧いてこなかった、と書いています。
命を使い果たしたというか、命を処分しきったというか、そんな感慨だったのでしょう。
女のオルガスムスも、そういう体験なのでしょうか。人の心は、死にたどり着く運動なのでしょう。彼女はもう、一日一日を生ききり、死と再生を繰り返してきた。つまり、毎日が「死ぬ」という体験だった。彼女のみずからの命に対する幻滅は、すっかり命という「日常」から離れて、死という「非日常」の世界に立っていた。女の心は、みずからの命を処罰して非日常の世界に入ってゆく。
彼女の心に「命の尊厳に対する信憑」などというものがあったら、そのとき生きる希望にあふれていなければならないはずだが、そんなものはもうすっかり消えてしまっていた。



大阪のネグレクトの母親だって、それはそれでひとつの自己処罰だったのでしょう。
彼女はふるさとの四日市で子供二人を抱えて離婚した時点で、「幸せな子育てママ」という自分を処分してしまうしかなかった。それまでそういう自分に執着して生きてきたけど、もう執着できる自分はどこにもなかった。
そうして子供を連れて大阪に出てきて、フーゾクで働きはじめ、たちまち売れっ子になっていった。おそらく自己処罰として、子供を抱えて離婚することを決めたのだろうし、フーゾクの世界に飛び込んでゆくことにもためらいはなかった。しかし、いざ売れっ子になって男にもてはやされると、なんとも居心地が悪かった。自己処罰の感覚が宙ぶらりんになってしまった。そんな気分のまま、やがてホストに入れあげるみじめな自分になることが落ち着き場所になっていった。
けなげな子育てママを演じて自分に酔ってゆくということは、もうできなかった。自己処罰せずにいられなかった。子供をほったらかしにする(ネグレクトする)ことだって、「幸せな子育てママ」時代からの逃走であり、自己処罰だったのでしょうね。
子供が憎いわけでもないのに、どんどん子育てすることができなくなっていった。子育てする自分がいやでしょうがなかった。
人間はみずからの命に幻滅している存在だから、そうやってどんどんだめになってゆくことはありうるのです。女でも、男でも。
死んでしまった子供はもう、誰も生き返らせることはできない。彼女を責めたって、もう生き返らない。その運命の重さというものがある。
死んでしまった子供はもう、生きさせる必要がない存在です。マンションに戻って子供が死んでいるのを確認した彼女が、そのとき思考停止に陥ったのはなんとなくわかる。彼女は、そういうかたちで運命の重さに打ちひしがれた。新婚当初の彼女は「命の大切さ」などというわけのわからない概念に振り回され、ひといちばい夢中になって子供を生きさせようとしていたからこそ、その反動も大きかったのでしょう。
もともと女は、「命」に幻滅している存在なのだから、そういう反動が起きる可能性はどうしても持っている。
女は熱中する生きものだからこそ、さっぱりと「どうでもいい」と思ってしまうことができる。みずからの命に対する幻滅を抱えた存在である人間の心は、生きてあるという「日常」に対して「どうでもいい」と思いながら「非日常=死」の世界に入ってゆくようにできている。それが人間の生きるといういとなみであり、満州から引き揚げてきた藤原ていだってそうした「非日常=死」の世界に体ごと入っていった。



女は、艱難辛苦に憑依する。そうやって子を産む。10ヶ月の妊娠と出産だって、満州から引き揚げてくることの苦労以上でも以下でもない。
ホスト狂いが愚かなことであることくらい、彼女だってわかっていたでしょう。でも、フーゾクの仕事で男にちやほやされることより、男にもてあそばれる艱難辛苦のほうがずっと彼女を夢中にさせた。わかっていても、どんどんだめになってゆく自分にブレーキをかけることができなかった。そういうかたちで彼女は自己処罰していった。
世の中には、ホスト狂いに走るフーゾク嬢がいっぱいいる。いろんな意味でそれが彼女らの艱難辛苦だからでしょうね。フーゾクは、男をリードし男からちやほやされる仕事です。たかが自分とセックスするくらいのことに2万も3万も払ってくれるのですからね、それは、ちやほやされているのと一緒です。とすれば、ホストを相手にすることは、それとは逆に、自分がリードされてもてあそばれる艱難辛苦あり自己処罰であるはずです。
フーゾクの仕事は、いわば生身の人間同士の直接的な命のやり取りだから、どうしても人間の本性と向き合わされてしまう。人間、ことに女の本性は自己処罰して艱難辛苦に憑依してしまうことにある。一部のお気楽なOLのように、軽薄単純な男たちの心をもてあそびながらちやほやされてよろこんでいる、というわけにはいかなくなってしまう。
妊娠した女は、そのとき艱難辛苦に憑依するのであって、命の大切さに憑依するのではない。そんなお題目だけで、妊娠出産という艱難辛苦は克服できない。
藤原ていは、みずからの命に幻滅していたからこそ、子供三人を抱えて満州から引き揚げてくる地獄のような日々を生き抜くことができた。それは、艱難辛苦に憑依することによってはじめて可能になる行為だったはずです。



人間は、何かのはずみで果てしなく「何もかもどうでもいい」と思ってしまう生きものだと思うし、その「どうでもいい」という認識は正当だとも思う。それはたしかに「ネグレクト」で「デフォルト」なんだろうけど、それを裁く権利が誰にあるのでしょうか。
女は、男以上に子供をかわいいと思い大切にすると同時に、男以上に子供に冷淡で残酷なところもある。子供を生かそうとする女の情熱は、ある意味でとてもエゴイスティックでもある。
女は、けっして女の子育て放棄(ネグレクト)を否定しない。そのみずからの命に対する幻滅は、子供を生かす方向にもネグレクトの方向にも向く。
「命の尊厳」などという陳腐で善良な人間観なんか、今どきの「勝ち組」の女たちの制度的な幻想にすぎない。
大阪の育児放棄した彼女は、一度はその幻想に耽溺し、最終的にその制度的な幻想に追いつめられて何もかもがどうでもいいという気分になっていった。
人間は、命に対する幻滅の上に成り立った存在です。だからこそけんめいに他者を生かそうともするし、戦争もする。



彼女だって、最初の子が生まれた前後のころは、ひといちばい「子供を生かす」ことに熱心だった。そして離婚した後も、自分だけで子供二人を育てていこうと突っ張った。
「子供の命を生かそう」とする意欲に関しては、並みの母親以上に強かったのです。
ただそれは、女としての根源的な衝動ではなく、制度的な幻想に過ぎなかった。結婚して子を産んだ「勝ち組」の女たちは、そういう「母の愛」という幻想を共有している。
彼女の「母の愛」は、「夫婦+子供」という核家族の上に立ってはじめて成り立つものだった。離婚してそれを思い知らされた。
彼女は、みずからの中の「母の愛」を失った。とうぜんです。そんなものは、家族という制度から生まれてくるものだからです。
彼女は、母であることをやめて、女であろうとした。彼女の家族に対する意識は、屈折している。幼いときに両親が離婚して崩壊した家庭で育ったから、家族に対する愛も憎悪もひといちばい強い。そして母親は子供を捨てて出ていったから、母親のいないさびしさもよく知っている。だから、離婚したときは、無理して自分が子供二人を引き取った。
しかし、離婚することは女に戻ることだ、という意識もとうぜんやどっている。
離婚した母親が女に戻ろうとすることは、誰も責められない。いかに道徳的に許されないことであれ、彼女は、決然として戻っていったのです。
道徳的なことをいうなら、別れた夫にも、夫婦双方の親たちにも責任はある。みんなして幼い二人の子を見殺しにした。
そのとき彼女は、夫や両方の親たちの身勝手を恨んだだろうか。いや、すべてはもう、どうでもよかった。
恨んでいたら、あなたたちも少しは責任を分担してくださいよ、という態度をとる。しかし、すべてはどうでもいい、と思い定めてフーゾクの世界に飛び込んでいった。
また、自分は子供と一緒に暮らしているという負担を負っているのだから子供の面倒までは見なくてもいい、という妙な理屈が生まれてくる。
頭の中が、だんだん真っ白になってゆく。一種の鬱状態でしょうか。何もかもどうでもいい……という気分。でもそういう気分になってゆくのが人の心の自然なのですよね。藤原ていだって、最後はそはそういう気分になっていた。
彼女は、フーゾク嬢の仕事がとても苦痛だったという。彼女の心はもう、苦痛に憑依してしまっていた。たぶん、苦痛にならなくてもすむように自分をコントロールしていこうとする意欲がなくなっていた。苦痛でありたかった。苦痛であることによって、女に戻ることも育児放棄することも許されていった。
彼女は、苦痛を抱え込むことによって、すべてのことはどうでもいい、という気分になっていった。



女は、艱難辛苦に憑依する。そうして「命なんかどうでもいい」と思ってゆく。
子供の命を守るのが女の本能だとはいえない。人間の他者を生かそうとする衝動は、ほんらいエゴイスティックなものです。子供の命を、自分勝手に徹底的にいじくりまわしてしまうのも、ほったらかしにしてしまうのも、一枚のコインの裏表でしょう。どちらも、命に対する幻滅があるからこそできる。
当たり前の女なら育児放棄(ネグレクト)しないとか、そんなことが人間の歴史だったのではないし、育児放棄(ネグレクト)してしまうのも、「非日常」の世界に入っていってしまう女の本性のうちなのでしょう。
命に対する幻滅を共有しながら、人と人はおたがいを生かし合っている。人がなぜ「癒される」という感慨を体験するかといえば、命に対する幻滅=嘆きを抱えている存在だからでしょう。そうやってわれわれは「非日常」の世界に入ってゆく。「非日常」の世界にこそ「癒し」がある。
結婚生活も子育ても、「日常」の連続であるのなら地獄だし、どちらもまあ、女の「非日常性」によって支えられている。いいかえれば、「非日常性」を失った女には、亭主も子供も癒されない。亭主も子供もそういう女からは逃げようとするし、女自身もそうなってしまえば精神が崩壊している。
幸せ自慢して「日常」に耽溺するなんて、精紳の崩壊です。いまや、独身の女も家庭の主婦も、幸せ自慢して「日常」に耽溺してゆくことの競争ばかりしている。そうやって、世の中の男と女の関係が不自然にギクシャクしてきている。男だってそんなことばかりしているのだが、そこに立って女にときめいてゆくということはできない。
だから誰もが、そんなことをすべて忘れてもっと他愛なくときめき合える関係であることができれば、と願っている。他愛なく癒されてしまう体験を欲しがっている。
人類が築き上げてきた人と人の関係の文化は、何も大人ぶった倫理や道徳にあるのではなく、他愛なくときめき合ってゆく作法として洗練してきたのではないでしょうか。
大人ぶった倫理や道徳で相手を裁き合っていたら、人と人の関係も人の心も、どんどん崩壊し停滞してゆく。
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