消えてゆく・ここだけの女性論30


女は最初、男に体を触られることを恥ずかしがったり嫌がったりする。ほんらいは触られたがっている存在ではないのでしょう。
触られたくないのに、触られて感じてしまう。感じてしまうから、触られたくない。おそらく、触られたくないからこそ感じてしまうという心理的なメカニズムがある。その違和感が、「感じる」という体験なのでしょう。
もしも男の手や体に最初から親密感があるのなら、それほどありありと感じることはないでしょう。違和感があるからこそ、ありありと感じる。
そして、ありありと感じるということは、そのとき自分の体に対する意識が消えているということです。
女は、自分の体に対して悪意を持っている。そりゃあもう、毎月のさわりをはじめとしてたえず体の変調にわずらわされて生きているのだから、悪意を持たないはずがありません。
女の裸を眺めてうっとりしていられるのは、男のほうだけです。
だから女は、自分の体に対する意識を持ちたくない。体のことなんか忘れていたい。
女がおしゃれをするのは、自分の体を忘れることの機能になっているからでしょう。そのとき、衣装が体になっている。
自分の生身の体が消えてゆくことのカタルシスがある。
自分の体に対する悪意や羞恥心がたまっている部分ほど、触られたら感じてしまう。
性器はもちろん、乳房や腋の下や太腿など、ふだん隠したがっている部分ほど、触られると感じてしまう。感じてしまう部分だから、隠したくなる。
「隠す」ということは、「消している」ということです。
女にとっては、性器も乳房も腋の下も太腿も、消してしまいたい部分であり、だから隠すのでしょう。それほどに女は、自分の体に対して悪意を抱いている。
したがって、自分の体を触る男の手が気持ちいいといっても、そのとき自分の体のことを忘れて自分の体が消えていっている気持ちよさでもあるはずです。そしてそれほどに男の手や体をありありと感じるためには、男の手や体に対しても悪意=違和感を持っていたほうがよりたしかに体験できる。
女は、男の手や体に対して、けっして親密な感情を抱いているのではない。



女は、わりとペニスに触ることが好きらしい。
ペニスが好きなのではない、ペニスに触ることが好きなのです。
その悪意の対象であるペニスを自分の手で支配し検閲しているという快感があるのでしょう。
女にとって自分がペニスに触ったり口に咥えたりすることと、触られたり膣の中にペニスを入れられたりすることとはちょっと違うのでしょう。ペニスを口に咥えることは平気でも、膣に中にペニスを入れられることは抵抗があったりする。
とにかくまあ女は、けっこう平気でフェラチオをするし、嫌いではないらしい。嫌いではないが、とくに感じるというわけでもないのでしょう。とくに感じるわけでもないから、平気でできる。そりゃあおおいに感じている場合だってあるのだろうが、基本的にはペニスを支配し検閲する快感に違いない。
もちろん、口の中だって粘膜があって唾液がたまってくる場所だから、鬱陶しさはある。しかしそれは、ものを食ったりしゃべったりすることによって、ふだんからある程度は解消されている。言い換えれば、あまりおしゃべりじゃなく食い意地が張っていない女のほうがフェラチオを熱心にするのでしょうか。
いずれにせよそれは、膣の中にペニスが入ってくる感覚とはちょっと違うらしい。それはあくまで前戯であって、本番の性行為の代替になるわけではない。
膣の中にペニスが入ってくるときはもう、支配し検閲している余裕はない。もちろんペニスのかたちや硬さをありありと感じているのだろうが、それによって体全体が消えてしまうような心地まで体験する。
女にとってセックスの快感は、あくまで体が消えてゆく心地にあるのでしょう。男だって、射精のときにひとまずささやかながらそういう心地を体験している。



女にとってはもう、自分が生きてあることもこの世界も悪意の対象になっている。そうして、消えてしまいたいと思う。
消えてしまいたいというか消えようとする衝動は、生き物としての根源的な衝動であるように思えます。
生き物は、死んでゆく存在です。何もしないでじっとしていると、死んでしまう。息をしたりものを食ったりしないといけない。息をしないでじっとしていると、息苦しくなる。息苦しいから、もがく。その「もがく」ということが、「息をする」という行為になっている。そのとき、もがきながら消えようとしているのでしょう。もがくとは、体を消そうとする動きなのでしょう。息をすれば、息苦しさが消える。それは、息苦しい身体を忘れて、身体が消えてゆく心地であるはずです。「息をする」という行為は、消えようとする衝動によって起きている。生き物として生きるいとなみは、消えてゆくいとなみです。
向こうから自動車や自転車がやってきてぶつかりそうになっているのに体がフリーズして動かなくなってしまうときがある。「危ない!」と思っているのに、動かない。それは、消えようとする本能がはたらいているのだろうと思います。そういう絶体絶命のときだからこそ、本能的なってしまう。蛇ににらまれた蛙が動けなくなってしまうのも同じでしょうか。そのとき、生き物としての消えようとする本能がはたらいている。
消えようとする本能によって生きるいとなみが起きる。
生き物は消えようとしている存在であり、女は、男よりももっと切実に深く「消えようとする衝動」を持っている。
われわれは、消えようとする衝動とともにこの世界に存在している。われわれのすべての行為や心の動きの根源に「消えようとする衝動」がはたらいている。



ひとりで道を歩いているとき、普通は自分の存在そのものを人に見せつけようとなんかしていないでしょう。むしろ、消えようとしている。自分に対する意識が消えて、まわりの景色に意識が向いている。まわりの景色がわからなければ、歩くことなんかできない。そうやって無意識のうちに自分(に対する意識)を消しながら歩いている。
歩いている人はみんな、自分を消そうとする本能をはたらかせている。そうしないと歩けない。人間はほかの動物よりもずっと歩くことが好きで、どこまでも歩いていってしまう生き物だが、それは、それだけ生きてあることに対する嘆きが深くつねに消えようとする衝動とともに存在しているからです。
たんなる好奇心だけの問題じゃない、消えようとする衝動が人間を歩かせているのです。二本の足で立ってじっとしていることは、とても居心地の悪い姿勢です。しかしそこから歩いてゆけば、足のことも体全体のこともすっかり忘れて、まわりの景色とか考え事に意識が向いている。それは、重心を少し前に倒せば、自然に足が動いてゆくようになっている歩き方なのです。べつに四本足で歩くことより効率的でもなんでもなく、むしろ非効率だともいえるのだけれど、とにかく身体のことを忘れて(消して)しまえる歩き方であり、人間にとってはそれこそが大切なのです。
そのとき人と話しながら歩いていれば、もっと自分が消えている。その意識は、自分の口から出ていった言葉と相手のことばかりに向いて、すっかり自分が消えてしまっている。人間は、消えようとする衝動が強いから、おしゃべりが好きな生き物になっている。
すべては、自分が消えてゆくという現象として起きている。人間は、消えようとする衝動とともに存在している。
つまり、女が持っている消えようとする衝動は、それくらい本能的根源的だということです。



そこで、人と人が愛し合うとはどういうことだろう、という問題が浮かんできます。
人間は、相手の前から消えている存在であり、消えることによって仲良くなっている。つまり、自分を消しているということ。そして自分が消えてしまうくらい相手のことをありありと感じているのは、相手に対してそれだけ強い違和感を抱いているということです。
女は、この生にもこの世界にも悪意を抱いている。しかしだからこそ、たとえば赤ん坊や老人などの生きられない他者をけんめいに生かそうともする。この生やこの世界に悪意を抱いているからこそ、自分を消して他者を生かそうとしてゆくことができる。
そのとき女の前にあらわれている赤ん坊や老人という他者は、悪意の対象だからこそありありと感じるのであり、ありありと感じて自分が消えてしまっているから、けんめいに生かそうとすることができる。それはもう、悪意の対象であるペニスのフェラチオをしてけんめいに硬くさせようとしているのと同じです。
人間の他者を生かそうとする衝動は、少なくともたんなる親しみなどという感情ではない。
いったいなんだろう、と思ってしまうわけです。
少なくとも、自分を消そうとする衝動を持っていないとそういう関係は生まれない。
相手が自分を消してくれる存在だからこそ、けんめいに相手を生かそうとする。
この生やこの世界に悪意を持っている存在でなければ、そういうことはしない。
まあ、自分という存在に執着して「お得な人生」を生きようとしている人間のすることではない。



相手を生かすことによって、自分が消えてゆくことができる。相手が生きてあることを感じることが、自分が消えてゆく契機になる。
人間は、自分が生きてあることを感じようとしているのではない。自分が生きてあることは疎ましいことだ。女はとくにそれを深く感じている。そりゃあもう、そこにおいて、女というのはすごいなあと思いますよ。
消えてゆこうとする衝動を持っている人間は、そのための契機として他者を生かそうとする。それは、ある意味でとても利己的な行為であり心の動きかもしれません。人間は根源において生きられない存在であり、生きられない存在として消えようとしているくせに、消えてゆくために生きられない他者を生かそうとする。そうやっておたがいに勝手に他者を生かそうとし合っているのが、人と人の関係なのでしょう。
人と人の関係は一方通行です。おたがいに生きようとなどしない。消えてゆこうとしている。そして消えてゆこうとすることが生きるいとなみになっているし、消えてゆくことは他者が生きてあることをありありと感じる体験です。
人間は、他者の存在をありありと感じたがっている。ありありと感じないと、消えてゆくことができない。
そしてありありと感じるのは、親しみを抱くというよりは、違和感を抱く対象です。そういう違和感の対象として、生きられない赤ん坊や老人があらわれる。生きられない存在だからこそ、生かそうとする対象になる。
人と人は、おたがい生きてゆくために協力し合っているのではない。誰もが自分は消えてゆこうとしているだけで、そのための行為としておたがいが勝手に他者を生かそうとし合っている。人間の他者を生かそうとする行為はとても利己的である。だからこそその行為がダイナミックになるともいえるし、まあ人間は、とても逆説的な存在なのですよね。



女のセックスアピールとは、「生きられない気配」のことでしょうか。美人であることもおっぱいが大きいことも、どこか非日常的で、この世のものとは思えない気配が漂っている。
もちろんぼんやりして物憂げであることだって、非日常的な「生きられない気配」としてのセックスアピールになっているのでしょう。
男は、女の「生きられない気配」に魅力(セックスアピール)を感じて追跡してゆく。生きられない気配のままを生かそうとしている、ということでしょうか。女の非現実的非日常的な気配にひかれ、その世界において女を生かそうとする。
たとえば、原始社会では集落どうしで女を交換していたといわれています。女は非現実非日常的な存在だから、自分の集落の見慣れた顔の男よりも、見知らぬよその集落の男にひかれる。つまり、違和感のある男の手に触られて感じる、ということです。
べつに男の支配によって交換していたわけではない。女がそれを望んだし、男だって見知らぬ女の非現実非日常的な気配にひかれたからであり、そういう存在として女を生かそうとしたのです。
隣の村にお嫁入り、などということは今でも続いていることだし、だいたい人間は、家族から離れた非日常的な空間で恋をしたりセックスしたりするのが世界中の普遍でしょう。
人間は、生きてある現実=日常の空間から消えようとしている。非日常の空間に向かって消えてゆき、そこにおいて生きるという現象が起きる。そういう命のいとなみの根源の上に男と女の関係が成り立っている。
現在の社会的な人と人の関係とは別に、人間性の自然としての人と人の関係があり、男と女の関係はそこにおいて成り立っている。人と人は、おたがいに自分を消しながらおたがいに相手を生かそうとし合っている。女が男の手に触られて感じるということは、そういう人と人の関係の根源の上に起きている現象ではないかと思えます。



おっぱいの触り方の上手な男と下手な男がいる。上手な男はおっぱいの感触を豊かに感じるような触り方をし、その、おっぱいの感触を豊かに感じている手の動きに女が反応する。そうやって男も女も、おたがいに自分を消している。そういう関係性の問題なのでしょう。
ひとりよがりの触り方は嫌がられる。
男のペニスは、女の手に触られたりフェラチオされたりすることによって勃起する。
そのとき男は、相手の掌ばかりを感じて、自分のペニスの物性は忘れてしまっている。なのに勃起する。だからこそ勃起する、ということでしょうか。ペニスの勃起は、ペニスに対する意識によって起きるのではない。ペニスのことなど忘れて女の掌の動く気配に促されて勃起している。
ペニス(=自分)に対する意識をどんなに強くしても、勃起するわけではない。自分を忘れて(消して)他者の存在をありありと感じることによって勃起する。そうやってペニスは、勝手に勃起してしまう。
まあ、女のペニスの触り方は、上手下手を通り越して、ペニスの感触をありありと感じながら触っている。そういう自分を消してゆくタッチを女は生まれながらにして持っており、それを男は追跡しているわけで、それによって女は人類の歴史をリードしてきたのだと思います。
「自分を消す」ということが人間のいとなみの基本です。そこかから、人間的な知性や感性や体の動きや人と人の関係が生まれ育ってきた。
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