幸せ自慢・ここだけの女性論33(終わり)


現在のインテリの女たちが書く女性論は、現代社会における一般的な女の幸せを追求しているだけで、女とはどういう存在なのかという視線が決定的に欠落している。女とは何かということなら、普通のやらせ女のほうがずっと多くのことを教えてくれる。
女とは何かということは、人間とは何かということでもある。すべての男は、女のあとを追跡しながら生きている。まあ、それが、男の本性です。
あの女たちはほんとに、女とは何かということがわかっているのだろうか。
男からすると、そもそも彼女らの自分に執着しこの世界の「現実=日常」に居座ろうとする態度そのものが女の本性にかなったことだとも思えない。
女とは、もっと「非日常」的な存在ではないのか。
自分がこの世に生きてあることにうんざりしながらすべてを「どうでもいい」と思ったところから生きはじめるのが女なのではないのか。
女は、生きられないものを生かそうとする衝動を持っている。不幸な女を肯定し、不幸な女を生かそうとしてゆくのが女の本性ではないのか。それはつまり、自分の幸せなんか自慢しないということです。そして自分が不幸になることも厭わないし、それに耐えることができる。そうやって自己処罰してゆくのが女の本性であり、人類の知性や感性はそこから学びながら発展進化してきたのではないでしょうか。
誰も自分の人生をやり直すことはできないし、明日死んでしまうかもしれないのだし、不幸に生きた女の人生を美しいと感動することだってあるわけじゃないですか。そういう女の人生が、この世の幸せな人生より劣っているということもないでしょう。
どうせみんな死んでしまうわけで、幸せに生きようと不幸に生きようとどちらでもいいじゃないですか。女どうしで僅差の競争をしながら不幸に生きた女の人生を否定してゆく、そうやって幸せに生きているのを自慢するのが女の本性だというわけでもないでしょう。そんな女もいるだろうが、そんな女がどうして大量発生してきてしまったのか。



たとえば『おひとりさまの老後』を書いた上野千鶴子は、なんでそうやって幸せな自分の人生を自慢するのか。
まあ、それをうらやましがって後追いする女がたくさんいる世の中なのでしょうね。
幸せな人生を追求するのが女の本性か?
そんなことはしかし、そういう時代状況があるというだけのことでしょう。ほかの女と僅差の競争をしながら、より幸せな人生にたどり着きたい。それは、現在の競争社会の現実ではあるが、女の本性とは何かということとは別の問題でしょう。
優雅なセレブの奥様におさまったり、有能なキャリアウーマンになれれば、きっと幸せでしょう。しかしそうではない女の人生が劣っているとも、そうではない女のほうが人間としても女としても魅力的ではないともいえないでしょう。
人それぞれに人生のなりゆきというものがあって、不幸になるとわかっていてもなりゆきにしたがうしかないときもある。
たとえば、夫の親の介護をたのまれ、引き受けるしかないときだってあるわけで、法律にはそんな義務は規定されていないからと断れるとはかぎらない。
そうやってあっさり断ってしまえる女があらわれているのが現代社会だろうか。おおむね金のある家ならなんとでもなるだろうが、貧しい家や親族との関係のきつい家などではそうもいかないときがある。
そこのところで思考停止して、社会の風潮や法律だけを物差しにして決めてしまえる女は幸せになれるのかもしれない。
「幸せな女の人生」を追求することだってたんなる社会の風潮であって、あの女たちはほんとに「女とは何か」とか「人間とは何か」ということを考えているのだろうか。
とりあえず「幸せとは何か」ということなど、僕にはよくわからないことです。



「女とは何か」という問題は、「人間とは何か」という問題でもあります。
だから、「女も男もない」といわれても困るのです。
フェミニストが「女も男もない」といった時点で、すでに「女とは何か」という問題は消滅していた、ということでしょうか。
しかし、そんなことがいえるほど異性に対して違和感を抱かないですむ人なんか、そうはいないでしょう。べつに惚れようと惚れるまいと、相手は自分とは別の存在だという思いはあるわけで、その雌雄の存在であるという事実を基礎にして人と人の関係が成り立っているのでしょう。
おたがいに別々の存在だということは生き物であることの基本であり、そういう事実の尊厳に向かって人類は二本の足で立ち上がっていったのです。
人間ほど「おたがいに別々の存在だ」という思いを深く自覚している生き物もいないでしょう。その思いの深さは、異性に対する思いの上に成り立っている。人間が一年中発情している猿になっていったのは、それだけ強く異性を意識する存在になっていったということを意味するはずです。
女を女と思わないですむのなら、まあ生きるのに楽だろうが、面白みもない。「男も女もない」なんて、そんな勝手なことをいわないでいただきたい。
男は、死ぬまで「女とは何か」と問い続けてゆく存在です。女もそれを自問するのだろうが、男にとってもそれが最大の問いなのです。男にとって「男とは何か」ということなどたいした問題ではありません。
女とは人間であり、男は人間になりつつある存在で、ついに人間にはなれない存在です。だから、死ぬまで女を追跡し続ける。それはひとまず、ほとんどの生き物のオスがメスに寄ってゆくことによって交尾するという生態の上に成り立っていることであり、そういう生き物としての自然なのです。
70歳80歳のおじいさんが、ちんちんなんかもう勃起しないのにけんめいに女の体にしがみついてゆくのも、それはそれで生き物のオスとしての自然なのです。そして、80歳90歳になってもまだ勃起できるおじいさんもいる。
女がどんなに「男も女もない」といっても男にとってはそうはいかないし、それは、人と人の関係の根源の問題でもあります。異性に対する違和感が基礎になって、人と人の関係のさまざまなあやが生まれてくる。



というわけで現在は、女が「人間とは何か」という問題をあまり考えなくなってきているらしい。
そういう風潮とともに『おひとりさまの老後』というブスのインテリ女の書く本がもてはやされていった。
彼女らはもう、女であることも人間であることも問わない。ひたすら「幸せとは何か」と問うてゆく。戦後世代である彼女らの思考や行動に、女であることや人間であることの物差しなどはない。「幸せを追求する」ことと「法律」がその基準になっているらしい。
「幸せを追求する」ことは戦後社会にスローガンであったし、戦後世代の親も社会も、敗戦の反省・反動としてこの国の伝統的な女や人間についての認識は振り捨てていった。日本中がそのような問いを喪失していったのが戦後社会だった。
親や社会は、ひたすら子供たちの幸せを願った。幸せになるための方法論ばかり説いて、「人間とは何か」という問いを持った言葉を発しなかった。
けっきょく、そういう問いを失ったら、思考や行動の基準はもう「法律」しかありません。法律で許されていればしてもよいこと、罰せられるのが悪いこと、戦後社会はその範疇でひたすら幸せを追求してきた。
まあ、人よりましな幸せを競って追求していった。人よりいいものを買い、人よりいい学校や職場に入り、人より条件のいい男を見つける。それが戦後社会の「女の幸せ」だったのでしょう。



頭がいいとか美人だとかというのは昔はある程度生まれつきのものだという認識があったが、いまや、せっせと塾通いをすれば偏差値は上げられるし、顔やスタイルも化粧やおしゃれやプチ整形で底上げできる。努力をすれば、誰でも頭がよくて美人になれる。
それは、社会が進歩向上したことの証しでしょうか?なんだかそんなふうに楽観されているけど、どうも変です。
努力をすれば、誰でも幸せになれる。そういう合意の上にあまたの女性論が花盛りになっているのでしょう。最近話題になった林真理子の『野心のすすめ』などは、まさにそのコンセプトの女性論だった。
そりゃあ幸せであるに越したことはないのだろうが、「人間とは何か」とか「女とは何か」という問いを喪失した上にそのような「女の人生」を追及しているのだとしたら、たんなる思考停止であり、感性の喪失でしかない。
じっさいに、結婚する男女が減ってきたり、セックスレスの関係が取りざたされるようになってきた現在の男と女の関係の情況が自然で健康だともいえないでしょう。
男が勃起しなくなってきて、女にセックスアピールがなくなってきた。男が勃起するためのカルチャームーブメントも女がセックスアピールを持つためのそれもさかんにマスコミで企画されているのだけれど、現状はどうやら停滞したままのようです。というか、停滞しているからこそ、そうした企画が盛んになる。
誰もが幸せになるための僅差の競争ばかりしていたら、男と女の関係なんか衰弱してゆくに決まっている。それが高度資本主義社会の構造であり、こんなになってしまったのは、おそらく戦後社会の必然的な帰結なのでしょう。



現在の若者たちが結婚できなくなっていったのは、親たちの世代が男と女の関係に失敗しているからでしょう。なぜ失敗したかといえば、幸せな人生・お得な人生の追及ばかりして、「人間とは何か」という視線を喪失していたからでしょう。そういう失敗している世代の女たちが、現在の女性論を書いている。
まあ女が「幸せ(お得)な人生」を追求するのは、男との関係に失敗していることの証しであるように思えます。そんなものを追及したり自慢したりするのは、男に何かうらみでもあるのか、といいたくなってしまう。
戦後の20数年は、男性論の花盛りでした。男たちが経済成長を支え、男たちは「女とは何か」という問いを失っていた。女はこのような存在であって欲しい、という議論ばかりしていた。そういう風潮が、女の男に対するうらみを募らせ、自問・自省する機会を奪っていったのかもしれない。
今でも、団塊世代をはじめとする大人の男たちは、女を枠にはめて見るようなことばかりしています。「好みの女」とか「理想の女」などといえばなんだかロマンチックだけれど、「女とは何か」という問いを喪失しているだけです。女に対してそんな見方をすること自体、女に対して何かうらみでもあるのかということです。
男も女も、おたがいが相手に対して恨みがましい視線を向け合ってきたのが戦後世代です。
まあそのようにして現在の若者たちの親の世代は男と女の関係に失敗し、それがそのまま現在の男と女の関係がギクシャクした社会を招く契機になったのでしょう。



しかしそれでも人は、生きていればやがて「女とは何か」「人間とは何か」と問うようになってゆく。
生きていれば、いろんな人生のなりゆきがありますからね。そうそう思い通りにはならない。そんなとき人は立ち止まり、「女とは何か」「人間とは何か」と問うてゆく。
『おひとりさまの老後』が説く女性論や人間論に、どんな真実が書かれてあるでしょうか。いい気になって幸せ自慢をしていたら、そういう視線がどんどん欠落してゆく。それはもう、人生のなりゆきでさまざまな男女の関係や家族関係のトラブルに出会ってしまった人のほうがずっと深く考えている。
なんのかのといっても、人はそういうことを考えるようになってゆくのだろうし、考えないで生きてきて最後にじたばたする人もいるのでしょう。
けっきょく人間の世の中で男と女の世の中なのだから、いつまでもこんな不健康な男と女の関係が続くわけがない。
そうそういつまでも、今どきの通俗的な女性論に引きずりまわされてばかりはいないでしょう。
日本列島の男と女の関係の歴史は、けっして女にとって不幸な歴史ではなかった。むしろ、「女とは何か」という問いの答えを世界中でもっとも豊かに本格的にそなえた歴史であったような気がします。
男は女のこうあって欲しいという姿を語り、女もまた自分たちのあるべき理想の生き方を語り合っているなんて不毛です。
どんなに願望や理想を語っても、生きてあればその通りにはならないなりゆきと出会ってしまうし、社会は人間の願望や理想の通りになってゆくのではなく、落ち着くところに落ち着くだけです。
落ち着くところに落ち着くことができる伝統がこの国にはあるし、それが人間の歴史というものでもあるのでしょう。
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